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ID:guyuan
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目前分類: 2007年07月的文章    檢視方式: 列表 摘要
July 23, 2007
頁22
二中世の花押...22
二 中世的花押-22
武家の花押...22
武家的花押-22
 鎌倉時代に入ると、幕府の発給文書に、将軍.執権.連署.探題.頭人.奉行などが花押を署するのはもとより、一般武士も幕府あての申状.請文などや、彼ら自身の家務文書及び私的契約文書に花押を署するようになって、前代に比して格段に武士の花押を署するケースが増大したばかりでなく、彼らの花押の形状、作成法、署記法などに貴族層とはちがった特徴を備えるようになるのである。
 武家の花押の第一の特徴は、同族集団成員間に類似した花押が多いことである。これを集団的類似性といってよいであろう。中世初期には、たとえば
進入了鎌倉時代,幕府發行的公文書中簽署將軍、執權、連署、探題、頭人、奉行等官員的花押,一般武家呈給幕府的申狀、請文等,在自己的家務文書及私人契約上簽上花押,比前代的武家花押的案件並沒有大大的增加,但他們的花押形狀、作成方法及署記法與貴族是有不同的地方。
武家花押的第一個特徵是主從集團成員中有很多相似的花押,是指集團有其類似性。在中世初期
頁23
源頼朝は「束」と「月」の合成(図21)、源実朝は「」と「月」の合成(図22)、源義経は「」と「」合成(図23)北条時政はおそらく「日」と「」合成(図23)(従って、以上の例は前節でいう二合体)、また北条義時は「義」の一字体と解せられ(図25)、それぞれに自分の実名にもとづいて花押を作成しているけれども、時代が降ると、自分の実名には関係なく父祖の花押と類似の形を作る者、また実名の一部を取り入れるにしても、全体の形を著しく父祖の花押に似せる者が増大する。その適例が北条氏一族の花押であって、泰時、経時、時頼、政村、重時、長時、時村等々は時政の花押類型に入り、時
如源賴朝是「束」與「月」合成(圖21)、源實朝是「」與「月」合成(圖22),源義經是「」與「」合成(圖23),北條時政可能是「日」與「」合成(圖24)從以上的例子可知是前面小節所謂的二合體),但北條義時是「義」的一字體(圖25),各種以自己的名字作成的花押,隨著時代與自己名字無關的父祖的花押類似,但仍取名字的一部分加入花押,在外形上與父祖的花押類似的情形大增。符合這樣的例子在北條氏一族中,泰時、經時、時賴、政村、重時、長時、時村等的花押進入時政的花押類型,時
頁24
宗、貞時、煕時、高時等は義時の花押類型に入る。大まかに見れば、北条一族はほとんど時政系かのどちらかに属するといってもよいほどである(第Ⅴ章参照)。父祖や主君の花押をまねる風習は、やがて時の政治の権威の花押をまねる風習を生み出す。その極端な例が、室町時代の武家に見られる足利将軍の花押の模倣、いわゆる足利様の流行であり、もた江戸時代とくに前期における徳川将軍の花押の模倣、いわゆる徳川判の隆盛である。足利様はもと初代将軍尊氏(初名高氏)が、全体を時政系の花押類型にのっとり、細部に「高」の一部を組み入れて(おそらく執権高時の花押を意識したであろう)作
宗、貞時、熙時、高時等是以義時花押為類型。可粗見在北條一族的花押大部分是時政系或義時系的花押型式。(參照第Ⅴ章)與父祖及主君的花押相似的風氣,是隨著與時下政治權威模仿風氣而來。這個極端的例子可在室町時代的武家中,模仿足利將軍的花押,流行成為足利型,並且江戶時代特別是前期中模仿德川將軍的花押,盛行德川判。足利型是初代將軍尊氏(初名高氏),是時政系的花押類型,細字的部分以「高」的一部分加入(可能是加入執權高時的意識花押)
頁25
成した花押(図26、27)を祖型として、一族子孫(図28~35)、麾下の将士がほとんどこれに追随し、結局これが戦国末、織豊期に種々の新型が出現するまでのほぼ三世紀間の武家花押を支配することとなった。もっとも一口に足利様といっても、細かく見れば、身分階層によってちがいがあり(将軍歴代の花押と一般武士のそれとを比較すれば判然とする)、足利一門の中でも関東公方歴代は水平の底線を特徴として、足利様の中の別派を作っており(図36~43)、またそのような別派を作ること自体に一つの政治的意味を託すしているようであるから、足利様には今後なお細部観察を要する課題が残されている(なお徳川判につい
作成花押(圖26、27)的祖型,同族的子孫(圖28~35)、其下的將士也追隨其樣式,最後是在戰國末期、織豐時期出現各種新的花押型式,足利型大約支配了三世紀的武家社會。以足利樣式的花押細部來看,因為身分階層有所不同(從歷代將軍與一般武家的花押比較有清楚的相異),在足利一門中作為足利樣式不同的派別關東公方歷代的特徵是水平的底線(圖36~43)以表示自己的一個政治意義,從足利樣式中仔細去觀察的日後課題(就德川判
頁26
ては後述)。
 以上、武家花押の類似性を強調したけれども、その類似性の基本は花押の全体的な構造であって、細部はもちろん一人一人ちがっており、そこに実名の一部を取り入れた例も決して少なくはない。ここでは上記の足利尊氏の外に北条時頼(おそらく「日」と「負」の合成)、同時村(「日」と「村」の合成)、同久時(「久」を含む)などの数例をあげるのとどめておく(図44、45、46.なお第Ⅴ章参照)。
 次に武家の花押で注目されるのは、花押変改の現象である。一度作った花押も長期間使用しているうちに、ある部分の線がのびるとか、最後の筆画のはねる方向が変わってくる
以後再述)
以上是強調武家社會花押其相似性,其相似性的基本是指全體的構造來看,細部上各人都不同,不少是由於取用名字的一部分加入花押造成的不同。在上記的足利尊氏之外,北條時賴(可能是「日」和「負」的合成),同樣的時村(「日」與「村」的合成),久時(含有「久」字)等的例子(圖44、45、46再參照第Ⅴ章)。
其次武家花押要注意的是花押改變的現象,一度作為長期間使用的花押樣式,出現某些部分線的延申,以及最後筆畫方向的改變的例子。
頁27
とかいうことはよくある例であって、この点に注目して無年号文書の年代推定に大きな成果をあげた例がすでにいくつも報告されているが(たとえば図47~50細川勝元、図51~55の足利義昭)、これとはちがって、意識的に花押を変える例も珍しくない。これは平安時代すでにその例があって、藤原盛隆(図56、57)、同公通(図58、59)などをあげることができる。中世になると、北条一族の時村、基時(図60、61)などをはじめとして武家の花押にこういう例が頻出する。なかんずく、鎌倉後期の武士島津久長の花押変改の順序.年次.理由などを記した覚書風の記録によれば、この人は生涯に三度花押を変えており、その中
可以花押作為推測無年號文書的年代,可例舉幾個成果(圖47~50細川勝元,圖51~55的足利義昭),其花押的不同點,有意識的改變花押並不是珍貴的例子。以平安時代的藤原盛隆(圖56、57)、公通(圖58、59)的例子可見。中世中,北條一族的時村、基時(圖60、61)等開始頻頻出現武家的花押。特別是鎌倉後期的武士島津久長在其備忘錄記入花押改變的順序、年次、理由,此人的生涯中有三次改變花押
頁29
の一回は実名を忠長から久長に改めた時であり、また、一時病気のために花押を署さなかったことなどが分かる(図62)。
 次に武家の花押署記法上の特色として、書状系統の文書に実名と花押を連記する現象を指摘しなければならない。この署記法は、前節でのべたように、平安時代に貴族層以外の人々の間で行われたが、鎌倉幕府の創始者源頼朝はこの署記法にちょって、彼の書状が幕府の発給文書をはじめ、武士全般の文書作成の原則となった。武家社会では、文書執筆能力の有無とは必ずしも関係なく、文書の執筆作成を右筆にゆだねて、差出者は花押だ
有一回名字從忠長改成久長,又有因長期生病不簽花押(圖62)。
其次是武家的花押署記法的特色,指在書狀系統的文書中,連記著名字和花押。署記法在前節已述,在平安時代除貴族以外在社會中施行著,由於鎌倉幕府的創始者源賴朝其書狀寫著「賴朝(花押)」之後,在幕府發給的文書中開始署記法,成為全部武家文書的原則。武家社會沒有絕對的必要有書寫文字的能力,文書內容可委由右筆來代書,提出文書的人
頁31
けを署記する慣習が割合に早く成立したようである。それで書状文書でも、実名まで右筆に書かせて、本人は花押だけを署することのなったのであろう。このような慣習のもとでは、花押を自署の代用とする認識は失われており、花押はもっぱら本人たるころを証示する機能をもつものとして認識される。鎌倉幕府の下で確立した武家訴訟法において、文書の真偽鑑別の手段として、花押の対比照合が重視されて、公家訴訟法における筆跡照合の原則と著しい対照をみせているのも、以上の理由によるのである。
只要署記,這個習慣很早就成立了。書狀的文書到名字前是右筆代寫,本人只要花押即可。這個習慣是在花押失去代用名字,因其無法辨識內容,花押成為專門證明是本人的機能。在鎌倉幕府下確定武家訴訟時,作為鑑別文書真偽的手段,重視花押的對比及對照,在公家的訴訟法也以對照花押筆跡成為其原則,開始了署記法。
公家の花押...32
公家的花押-32
頁32
 中世に入って公家の花押はどう変わったか、平安時代に見られた実名の二字をそのまま草書体にしたような純草名はきわめて少なくなり、大部分が二合体か一字体である。平安後期から次第に流行し出した、比較的画数の少ない三角形(図64)が花押の基本型として重視されたが、鎌倉後期頃から、このような形にとらわれず筆画を多くかつ複雑にして、室町時代に入ると次第に定型化の傾向を強めて、極端に図形化して、菱形(図65)ないしは菱形の上に円形か方形を載せたような形に落ちつく。ただし、平安後期以来の三角形も依然なわれていて、この方は公家の中下層に、菱形を基底にもつ新型は公家の上層部に行われたように思われる。つまり、公家の中で身分階層による花押の類型区別が発生したようである。
 ところで、足利将軍は三代に昇叙して公卿の班に列して以後、上記足利様の
進入中世後公家的花押有何種變化呢?在平安時代可見到實名二個字的草書體即純草名變的很少,大部分是二合體或一字體。平安後期開始流行比畫少的三角形(圖64)成為花押的基本型,從鎌倉後期開始這樣的形式成為多筆畫及複雜,仍可以了解其筆畫順序。進入室町時代,傾向定型化,極端的圖形化,從菱形(圖65)變成菱形上有著圖或方形的樣式。但是,平安後期以來依然有著三角形的花押,方形是在公家的中下層,以菱形為基底大著新型是公家的上層使用的花押。總之,公家中由於身分階層而有著花押類型的不同。
換言之,足利將軍昇敘成三位列在公卿班以後,與上記的足利型式花押
頁33
花押とは異なる花押を用いた。それは掲出(図66)のように、当時の上層貴族の花押類型に属するものであって、これを義満の公家様花押(これに対して尊氏類型のものを武家様花押)という。以後、義持(図67)、義教(図68)、義政(図69)らも義満同様に公家様花押を用いるのであるが、その際、義満.義教は「義」の字を、また義持.義政は「慈」の字を元にして花押を作成したという。そうすると、義満.義教の「義」字は実名の一字(将軍家の通字)を採ったと解しうるとしても、ぎ持.義政の「慈」字は実名と全く無縁の文字であって、将軍たるの地位にふさわしい徳目という意味で、この字が選ばれたと推測さ
有所不同。如(圖66),屬於當時上層貴族的花押類型,這是義滿的公家花押類型(相對於足利尊氏類型的花押武家樣式中)。以後,義持(圖67)、義教(圖68)、義政(圖69)也與義滿用一樣的公家樣式花押,此時義滿、義教用「義」字,而義持、義政用「慈」字為花甲。義滿、義教的「義」是名字的一字(將軍家的通常用字),而義持、義政的「慈」與名字全然無關,是用遢指呼應將軍的地位及德政,才選用此字。
頁34
れる。これは明らかに実名にもとづいて花押を作成する伝統的な基本原則からはずれた作成であって、花押史上注目すべき事実といってよい。
基於名字是作成花押的基本原則,仍有例外情形,是在花押史上要注意的事實。
 中国花押の再輸入
花押再次從中國傳入-34
 鎌倉時代に宋.元から来日した禅僧や、日本から宋.元に渡って帰国した禅僧の多くは、今までの日本に見られなかった特異な花押類型をもたらした。それははるいは筆画を極端に減省し、あるいは直線.円.点などを簡単に組み合わせた、文字よりは符号に近いものであって、この花押類型が南北朝.室町時代の禅僧界に迎えられた。二、三の例をあげれば掲出の如くである(図70、71、72)。俗人では応永二年(一三九五)に死ぬんだ山名満幸の花押(図73)などがこれに属するが、事例がきわめてすくないことは否みがたい。そこで古文書学者はこの類型を禅僧様とよんでいる。もっとも仁井田陞氏によれば、宋.元代の中国では、この種の簡単な形の、アルファベットのPとかIに似たものが少なからず見られて、格別禅僧界に限られたわけではなかったという。ともあれ、この類型では、筆画が少なく、
在鎌倉時代從宋及元朝來日本的禪僧及從日本到宋及元朝回國的禪僧中,帶來至今日本無法見到的特異花押類型。這類花押筆畫很少,或以直線、圖、點的簡單組合,從文字方面近乎符號,這類花押在南北朝及室町時代受到禪僧界的歡迎。舉出二、三例如(圖70、71、72)。非僧人的山名滿幸花押(圖73)也是屬於此類型,不可否認在俗界的例子很少。在古文書學者稱呼此花押為禪僧類型。以仁井田陞氏的說法,中國宋元時代,這種簡單的類型類似字母表的P或I與此相似的不少,不限於禪僧界中。的確如此,這類筆畫少的
頁36
構図が簡単であるから、花押の個別独自性を保つためには、形状や筆順ではなく、筆勢の独自性を主張しなければならない。またこの類型では、道号.法諱の文字を元に花押を作る余地が少なく、寓意や抽象表現がより適合するといえよう(前掲の太陽義沖の花押は、道号を図絵かしているように思われる)。この宋.元輸入の新型が、日本においてはほば禅僧の間にとどもって、俗人に広まらなかったのは、これらの理由によるのではあるまいか。
構圖簡單,是為了保存花押個別獨特性,沒有形狀及筆畫順序,是以主張筆勢的獨自性。並且,不以道號、法諱文字作為花押,是表現寄託的及抽象的意思(前揭大陽義沖的花押是將道號圖像化)。宋元輸入日本的新類型花押中,僅止於禪僧間使用,沒有推廣到世俗之中,是因為沒有用名字的原因。
頁37
三戦国.織豊時代の新様式
三 戰國˙織豐時代花押的新形式-37
 室町時代の武家の花押はほとんど足利様といっても過言ではない状況であるが、戦国時代の後期から織豊政権の時代になると、足利様とは全く類型を異にするいくつか新様式の花押が発生する。
室町時代的武家花押大抵是以足利為樣式並不是誇張的說法,到了戰國時代後期起成為織豐時代時,則全面與足利樣式不同,產生了新樣式的花押。
  新様式
新形式-37
 北近江の大名浅井久政は下向き彎曲型の花押を用いたが、その中に「久」の字の草書体を左に倒して書きこんでいる(図75)。また久政の子長政ははじめ賢政といったが、織田信長と盟約して、信長の一字をもらって長政と改名すると同時に賢政時代の花押をやめ
北近江的大名淺井久政的花押是向下彎曲型,「久」字的草書體是以向左傾倒的書寫方式(圖75)。又久政之子長政開始稱稱為賢政,與織田信長結盟,以信長贈與名字的一個字改名,同時賢政的花押
頁38
て、「長」の字を右に倒した形の花押を作った(図76)。また、織田信長は生涯に十回前後も花押を変えた人物であるが(図77~84)、天文二十一、二年(一五五二、三)頃に用いたⅡ型の花押は下図のような珍しい形で、「信長」の二字を草書体で左横書きして裏返したものらしい(図78)。このような実名の文字を倒すしたり裏返したりするのは、花押の偽造、盗用を防ぐことに主眼をおいた作成法であって、花押の形を頻々と変えるのもこれと同じ意図からである。
 豊臣秀吉の重臣石田三成は、「三」と「石」を重ね合わせた形の花押を用い(図85)、同じ秀吉麾下の小西行長は「西」の草書体を
也停止使用了,改以「長」字向右傾倒的花押(圖)76。並且,織田信長在其生涯中前後有十次花押的改變(圖77~84),在天文二十一、二年(一五五二、三)時用的是Ⅱ型的花押,其型體十分珍貴,以「信長」用草書體向左方書寫,有著裏返的樣子(圖78)。這樣的名字以倒字從裏返,是著眼於防止偽造、盜用來作成,以此意圖再頻頻的改變花押形式。
豐臣秀吉的重臣石田三成是以「三」和「石」重疊而成的花押(圖85),同樣的秀吉麾下小西行長以「西」草書為本體
頁39
本体にして、「行」の草書体を左斜め上につけた形の花押を用いた(図86)。すなわち、この二人は花押に苗字の文字をとりいれたわけだある。また石田.小西の僚将で、ついには彼らと対立するに至った加藤清正は、はじめ通称の虎介にちなんで、「虎」の上半部に「介」をつけた形の花押を用いた(図87)。もう一つ、山陰尼子氏の臣として著名な山中鹿介幸盛の花押は「鹿」の字を裏返して倒した形ではないかと思われる(図88)。もしそうだとすれば、加藤清正と山中幸盛の花押は、実名の文字を用いずに通称の文字だけで花押を作った事例となる。石田.小西のような苗字と実名の混合、加藤.山中のような通称だ
再加上左斜向上「行」字草書體(圖86)。即二人的花押是以取其姓的字。又石田、小西的僚將,最後與其對立的加藤清正起初俗名為花介,以「虎」的上半部加上「介」形成的花押(圖87)。又山陰尼子氏的著名臣子山中鹿介幸盛的花押是「鹿」從裏面倒寫不是嗎(圖88)?如此的話加藤清正與山中幸盛的花押不用實際的名字,僅用俗名。石田及小西是姓與實名混合,加藤、山中是以俗名使用
頁40
けの使用、どちらも伝統的な花押作成の原則を破る新様式である。
 次に、事例としてはわずかであるが、文字を全く離れた図形、それも鳥の形の花押が現れる。三好政康(十河存保、天正十四年〔一五八六〕没)足利義昭の近臣真木昭光、奥州の伊達政宗などの花押がその例である(図89、90、91)。
 本人の実名、通称、苗字のいずれとも無関係の文字を選んで、これを元に花押を作成した例として、足利将軍の公家様花押とくに義持.義政の「慈」字より作った花押を前節で指摘したが、この系譜を引いて、将来の達成を期する理想、願望を託した文字を花押化す
,都打破傳統花押的製作原則,成為新樣式的花押。
其次,僅有的例子是與全然與文字無關的圖形,是以為鳥形為花押。三好政康(十河存保、天正十四年〔一五八六〕沒)、足利義的近臣真木島昭光、奧州的伊達政宗等的花押為例(圖89、90、91)。
選出本人的實名、俗名、姓無關的文字,以此作為花押為例,有足利將軍的公家樣式花押,特別是在前面小節指出的義持、義政以「慈」字作為花押,這個系譜是為了將未達想達成的理想、願望寄託於文字,並且花押化。
頁41
る事例が現れる。第一にあげられるのは織田信長の掲出の花押である(図81)。これは「麟」の字の草書体から作られた形であって、麒麟が至治の世にのみ出現すると信ぜられた想像上の動物であることを考えると、この一字を花押化することによって、至治の世、平和の代へ願望を表現しようとしたことは明らかであろう。しかも信長がこの花押を用い始めたのは、永禄七年(一五六四)十一月から翌八九月までの間、おそらくは永禄八年五月、松永久秀が将軍足利義輝を弑した事件をきっかけにしているのではないか。とまれ美濃の井ノ口城を岐阜城(周の文王のいち岐山、孔子誕生の地曲阜に由来する)と改名し、「天下
其例第一是織田信長的花押(圖81),以草書的「麟」字製成花押,麒麟是出現於治世時,想像出來的動物,一字的花押表現出期望至治之世及和平世代的來臨。然而信長初期的花押約永祿七年(一五六四)十一月到翌年九月間,恐怕是始於永祿八年五月松永久秀殺死足利義輝將軍事件時。總之是在美濃的井口城改名為岐阜城(周文王所在的岐山及孔子誕生地曲阜),並刻下
頁42
布武」の四字を刻した印章(図92)を使用したのと全く同じく、しかもそれらに先立つ信長の確乎とした政治意志の表われなのである。もう一つ類似の例は、美濃の武士で信長.秀吉に仕えた竹中半兵衛重治(天正七年〔一五七九〕没)の花押である(図93)。細部は解読困難であるが、右に「年」の草体を、左に「千」の草体を裏返して配し、その中間に「とり」、「千」の下部の「おゝ」を置き、全体で「千年おゝとり(鳳)」で、信長と同じ政治的願望.理想を表現したようである(なお一六〇~一六一頁参照)。

以上いくつかの新様式をあげたか、これをまとめていえば、実名の文字を倒したり、裏返したりする花押の作成法は、花押の模倣.盗用の防止を意としたものであって、浅井父子、織田信長などの戦国大名がこの種の花押を用い、しかも彼らがその花押の形を年々少しすつ変えているのも故なしとしない。苗字や通称の文字を用いたり、実名とは全く関係なく鳥の形を用いたり、理想.願望の文字を花押化する現象は、花押発生以来の伝統的な原則が多きく揺らぎ、崩壊しかかっていることを示すものであり、ことに最後のものは、
「天下布武」四字的印章(圖92),有著相同的意思,總之事先確立了信長的政治意圖。另一個類似的例子是任信長及秀吉的美濃武士竹中半兵衛重治(天正七年〔一五七九〕沒)的花押(圖93)。細部解釋很困難,右邊是草書體的「年」,左邊是翻面的草書體的「千」,中間是「とり」,「千」的下部是「おゝ」,全體是「千年おゝとり(鳳)」,表現出與信長一樣的政治願望及理想。(參照頁一六○~一六一)。
以舉出幾個新樣式,以實際名字來顛倒或翻面作成的花押,如戰國的大名淺井父子、織田信長等是為了防止被模仿及盜用,可是他們每年有少許的改變。以姓及俗名的字,用與實名無關的鳥形,是將理想、願望的文化以花押表現,是動搖花押使用以來的傳統原則,
頁43
花押によって自分の現実的な目標を示そうとする積極的な意味を含んでさえいるのである。
 終わりに、以上述べたような意味での新様式ではないが、今までに見られなかった新しい形のものが現れて、それがある家中、ある地方といった地域的広がりを見せることに注目したい。その一つは将軍足利義晴(図94)、近江の六角定頼(図95)あたりから始まったらしい下向きの彎曲線をもつ形であって、六角義治(図96)、浅井久政(図75)をはじめ、美濃の斉藤道三(図102).義龍(図103)父子、越前の朝倉義景(図97)など、さらに近江.美濃地方の中小武士の間の一種の流行のように広まってゆく。また織田信長の家中、明智
最後是由花押表現自己現實的目標,含有積極的意思。
總結以上的所見的新樣式,至今沒有發現新的花押,在某個藩士、某個地方,廣大的地域可見到新樣式。一個是足利義晴將軍(圖94)、近江的六角定賴(圖95)開始有著向下彎曲的花押,六角義治(圖96)、淺井久政(圖75)開始,美濃的齋藤道三(圖102)、義龍(圖103)父子、越前的朝倉義景等,進一步推廣流行至近江、美濃地方的中、小武士。又織田信長的藩士(?)明智
頁44
光秀(図98)、丹羽長秀(図99)、佐々成政(図100)、竜川一益(図101)らが縦長で脚部を左右に開いた、ヤグラ型とでもいった形の花押を用いているのも、偶然の一致とは考えられない。一種の時代心理をそこの認めることができるようである。
光秀(圖98)、丹羽長秀(圖99)、佐佐成政(圖)、瀧川一益(圖101)等從腳部以縱向向左右延伸開來,成為倉庫型的花押,不會是偶然發生的,應是一種時代心理的作用形成。
花押の襲用
 すでに述べたように足利将軍義満.義教は「義」字から、同じ義持.義政は「慈」字からそれぞれの公家花押を作った。花押そのものは相互にちがうけれども、原拠となった字は各二者とも同じである。つまり義教は
花押的沿用-44
前述足利將軍義滿、義教是以「義」字,同樣的義持、義政是以「慈」字作為各種公家樣式的花押。花押本身有著不同之處,但其原出處的是一樣的。總之,義教
頁45
義満の原拠の文字を襲用し、義政は義持のそれを襲用したわけである。ことに後者の場合「慈」が将軍の地位にふさわしい徳目であるとすると、義政は将軍職と密接不可分の文字として、将軍職と同じく花押の原拠文字を相続使用したことになる。そして十六世紀に入ると、これがさらに一歩進んで、花押そのもの襲用する現象が出てくる。まず美濃の斉藤道三(はじめ長井規秀)は「秀」の字を形象化した下向き彎曲型の花押を用いたが(図102)、子の義龍はほとんどこれと同形の花押を用いた(図103)。つまり父の花押を襲用したわけである。豊後の大友義鎮(宗麟).義統父子の場合(図104)はもっとはっきりして
是沿用義滿的字,義政則沿用義政的字。後著以「慈」呼應著將軍地位的德目,義政則是用與將軍職務密不可分的字,是依據原出處的文字。進入十六世紀進一步出現沿用花押的現象。首先是美濃的齋藤道三(起初的名字是長井規秀)用「秀」字的向下彎曲型的花押(圖102),其子義龍大約也是用同形(圖103)。總之當然是沿用父親的花押。豐後的大友義鎮(宗麟)、義統父子(圖104)進一步清楚
頁46
いて、義統は天正三年(一五七五)家督をつぐと同時に、それまで父の使用していた花押をsのまま受けつぐ(もちろん宗麟は以後この花押を用いない)。疑いなくここでは花押が大友家の当主の地位の表徴と観念されている。年代はそれより溯るが、武蔵の扇谷上杉朝興(図105)が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲、図106)と同形の花押を用いたのも同じ例であろう。つまり花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓したのであろう。
 ここにあげた花押を襲用は極端な例であるが、どうしてこんな現象が起こるかといえば、そもそも花押は本人でなければ書けないものという筆跡の独自性が、この頃になると必ずしも要求されなくなり、形の個別性があればよいとされるようになる。つまり花押は本人と切りはなしがたい、本人と一体のものとしてではなく、本人だけの持ち物であって、それによって本人たることを証示するものと考えられるようになり、やがては本人の占める地位のシンボルとする見方が生まれ、花押によって地位の権威性を示すという意識が生まれ、そして花押は自分の地位とともに他(たとえば息子)に譲与できると考えられるようになったのではなかろうか。以下、このような花押観の変化がもたらした、もしくはその
的沿用花押,義統在天正三年(一五七五年)續繼成為一族之長的同時,也沿用父親的花押。(當然宗麟不用這個之後的花押)無疑的是這個花押表現出當時大友家的主人地位。由此年代回溯,武藏扇谷上杉朝興(圖105)與其宿敵伊勢宗瑞(北條早雲圖106)用同樣的花押。總之,花押是地位的象徵,使用敵人的花押,表示奪取其地位,有殺死對方的意涵。
此處所舉的沿用花押特殊的例子,為何有如此的現象,花押必須由本書書寫有其筆跡的獨自性,不要求自己書寫的話,最好有其形體的個別性。總之花押與本人是不可分離的,不是與本人一體的話,也是本人僅僅所持有的東西,由此證明是本人,不外是象徵本人的地位,由花押來宣示其地位的權威性,於是應該考量花押自己的地位與讓給其他(如子嗣)。以下,是花押觀的變化,
頁47

July 18, 2007
佐藤進一,「増補」花押を読む,平凡社
「増補」花押を読む
本は一九八八年十月、平凡社より刊行されたものを増補したものです。
本書是一九八八年十月根據平凡社發行後,增補出版。
目次
目次
はしがき…11
序-11
Ⅰ花押小史―類型の変遷を中心に…13
Ⅰ花押簡史-以類型的變遷為中心-13
 一 花押の発生―14
一 花押的產生-14
 二中世の花押…22
二 中世的花押-22
  武家の花押…22
武家的花押-22
公家的花押-32
  公家の花押…32
 中国花押の再輸入…34
花押再次從中國傳入-34
 三 戦国.織豊時代の新様式…37
三 戰國˙織豐時代花押的新形式-37
   新形式....37
新形式-37
   花押の襲用...37
花押的沿用-44
印章化的花押-48
   花押の印章化...48
四江戸時代の概況...53
四 江戶時代的概況-53
Ⅱ裏返し文字の花押...59
Ⅱ從翻面文字的花押-59
Ⅲ一字の花押...69
Ⅲ一字花押-69
Ⅳ二合の花押...93
Ⅳ二合花押-93
Ⅴ執権北条氏の花押について...107

Ⅴ幕府將軍北條氏的花押-107
一 時政型の花押...107
一 時政型的花押-110
二義時型の花押...110
二 義時型的花押-126
三金澤一族の花押...134
三 金澤一族的花押-134
Ⅵ十六世紀の武家の花押...145
Ⅵ十六世紀武家的花押-143
一新様式の発生。。。45
一 新形式的產生-145
実名文字の倒置.裏返し...147
將姓名文字倒置及翻面-147
  苗字の文字の使用...150
使用家族姓氏的文字-150
  文字を離れた図形...153
脫離文字的圖形-153
  理想.願望の表現...154
表現出理想˙願望-154
二権威志向型の盛行...162
二 盛行權威志向形式-162
三個人の表徴から地位の表徴へ...171
三 從個人的象徵走向地位的象徵-171
Ⅶ近現代の花押...177
Ⅶ近現代的花押-177
一幕末維新の人々大臣たち...178
一 幕府未期維新時代的人們及大臣的花押-177
 一字の花押...181
一字花押-181
 二合の花押...189
二合花押-189
 草名...196
草名花押-196
ローマの花押..197
羅馬字的花押-197
軍人の花押...200
軍人的花押-200
戦後の大臣たち...205
戰後大臣的花押-205
二 大臣の花押(続)...209
二 大臣的花押(續)-209
一字の花押
一字花押-209
三大臣の花押(三)...230
三 大臣的花押(三)-230
二次の合成...230
二字合成的花押-230
平仮名.片仮名の使用...241
平假名及片假名的使用-241
ローマ字の花押...245
羅馬字的花押-245
初出一覧...248
初稿發表處-248
解説-「前人未踏」の花押研究...249
笠松宏至,解說-「前人未踏」的花押研究-249
用字索引...259
用字索引-259
人名索引...266
人名索引-266
圖像大部分,東京大學史料編纂所《花押かかみ》
平凡社《書の日本史 第九卷》〈花押総覧〉
頁11
はしがき

 花押の形や作り方になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。一つ一つの花押を眺めているうちに、元の字が読める花押が見つかった。横長の花押を立ててみたり、縦長の花押を横にしたり、裏返したりすると、文字が見えてくるれいも出てきた。やがて花押の作り方や形が時代によって変化する点に興味を覚え、一つ一つの花押に託された個人の思想、時代の思想が気になるようになった頃、作り方を中心にした花押の解説を、平凡社の『月刊百科』に数回連載することができた。そんな縁で今度、これまで書いた花押の解説数篇を一書にまとめて、平凡社選書に加えて頂くことになった。花押を読む仕事はまだストーとしたばかりで、先の見通しも定かでないもままに本にするのは、いささか躊躇されだところだが、いままでの分をともかくまとめてみることは、自分にとっていみがあると
近二十年不斷的注意花押的形式及作法。以幾個歷史人物開始從事解說花押的工作。從眺望一個個花押中,可解讀出花押元來的字體。在橫線長改成直立的花押、縱線長改成橫式的花押及反面字的花押都可在案例中見到。根據各個時代花押的作法及形式變化中發覺出其中的令人有興趣的地方。注意寄託個人及時的思想的一個個花押的時候,以作法為中心來解說花押,並將此分數回連載於平凡社的《月刊百科》。這次因緣際會,將數篇花押解說集成一本書,成為平凡社的出版圖書。在剛開始花押閱讀一書的工作,並沒確定本書會發行,因此有些躊躇,至今確定之後,加入自己的想法,終於完成出版。
頁12
納得して、上梓にふみきったわけである。
 『月刊百科』に連載された時の題名は「花押を読む試み」だった。この本の題名に「試み」を省いたのは、簡明を佳しとする書名の原則に従ったまでで、花押を読み作業は自分にとって今なお試みの域にとどまっている。早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというのが、わが切なるお願いである。
 終わりに、史料採集の上で多大の便宜を与えれた東京大学史料編纂所.国立公文書館、及び本書の編集を担当され、懶惰な著者を督励された平凡社の加藤昇氏に深く感謝したい。
一九八八年一〇月                  著者
連載於《月刊百科》的題名是「試著閱讀花押」。此書名略去「嘗試」,是依照簡明的書名為原則,因為自身的閱讀花押作業已停止試讀的過程。省略「嘗試」是較早的自信,是我期望的地方。
最後是感謝史料上運用給與便利性的東京大學史料編纂所、國立公文書館、本書的編輯及平凡社的加藤昇氏督促怠惰的我。
一九八八年十月 著者
Ⅰ花押小史―類型の変遷を中心に-
Ⅰ花押簡史-以類型的變遷為中心-13
頁14
一花押の発生...14
一 花押的產生-14
 花押は自署の代わりに用いられる記号もしくは符号であって、その起源は自署の草書体にある。草書体の自署を草名とよび、草名の筆順、形状がとうてい普通の文字とは見なしえない特殊性を帯びたものを花押という。このような筆順、形状の特殊化は、自署する主体が独自の自署をもとうとする意識的記載行為の結果であろう。
 花押が初めて発生したのは中国であって、その時期は、これを先秦あるいは晋代に求める説もあるけれども、唐代と見るのが穏当のようである。しかも、今日てんそんする伝存する文書による限りでは、花押と断定できるものは唐代にも少ないという。
 翻って日本の場合を見ると、多量に伝存する奈良朝の文書の中に花押を見出すことはできない。今日のところ、承平三年(九三三)の右大史坂上経行の花押(図1)、天暦四年
花押是代替自己的記號或符號,其起源自己所署名用的草書體。自己署名時的草書體稱為草名,依普通寫字的順序及形狀來寫的草書名字,並沒有什麼特殊性的花押。特殊的用筆順序及形式是由作為獨自署名的主體,有何種意識的記載的行為結果。
花押最初在中國產生,時期是在先秦或晉朝,但以唐代的說法較穩當。然而限於今日所傳存的文書可斷定於唐代的花押很少。
別於中國在日本的花押,奈良朝的文書很多傳存,郤無法見到花押。在今日承平三年(九三三)右大史坂上經行的花押(圖1)、天曆四年
頁15
(九五〇)の仁和寺別当大法師某の花押(図2)、同五年の加賀権守源某の花押(図3)などが最も古いもののようである。もっとも坂上経行のものなどは、花押というよりはむしろ草名とよぶべきかもしれない。
 花押の作り方に注目すると、十世紀頃のものは、実名(諱)の草書体を進めたものが多い。江戸時代の有識家伊勢貞丈は『押字考』の中で、花押に五体ありとして、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体の五つをあげているが、その草名体に当たる。能書家として知られる藤原行成(図4)などはその代表である。これに対して、治安四年(一〇二四)の筑前守平理義の花押(図5)は「王」と
(九五○)仁和寺別当大法師某的花押(圖2)同五年加賀權守源某的花押(圖3)等最古老的花押。當然坂上經行的花押無疑應稱為草名。
在十世紀時花押,指實名(諱)的草書體作法進步很多。江戶時代的有見識者伊勢貞丈《押字考》有所謂五體說,草名體、二合體、一字體、別用體及明朝體,草名體是當然的花押。作為眾所周知的書法家藤原行成(圖4)是草名體的代表。對於草名體,治安四年(一○二四)築前守平理義的花押(圖5)是「王」
頁16
「義」の組み合わせ、永承元年(一○四六)の大和守源頼親の花押(図7)は「束」と「見」の組み合わせ、伊賀守小野守経の花押(図9)は「」と「」の組み合わせと見てよく、このような実名二字の部分を組み合わせて作った花押が伊賀貞丈のいう二合体である。小野道風.藤原行成と並ぶ三跡の一人藤原佐理の花押(図11)は「左」と「里」を組み合わせて巧みに草体化したものであって、いってみれば草名体と二合体の混合である。次に実名の一字だけを採って作った一字体の花押も、寛弘十年(一〇一三)の豊後守藤原孝理の花押(図12)をはじめとして、長治(一一〇五)の丹波重康の花押(図13)、仁平三年(一一五三)に没した平忠盛の花押(図14)などをその例証にあげることができる。
 平安時代の花押を概観すれば、草名体がまず起こり、についで二合体が起こって、平安後期にはほとんど花押界の主流となる。そしてその間に一字が散見するといった状況である。ところで、このように草名体、二合体、一字体の三様があるとはいえ、いずれの場合にも、実名(諱)にもとづいて作成するという原則が貫徹している点に注目する必要がある。これは花押が自署すなわち実名(諱)を自記する代りに押署されたという、花押の発
與「義」的組合,永承元年(一○四六)大和守源賴親花押(圖7)是「束」和「見」的組合,天喜三年(一○五五)伊賀守小野守經的花押(圖9)是是「」與「」的組合,這些是名字的二個字部分組合,是伊勢貞丈所謂的二合體。與小野道風、藤原行成並為三跡之一的藤原佐理的花押「圖11」是「左」與「里」的組合再草書化而成,是草名體與二合體的混合。其次僅以名字的一個字作成的一字體花押,寬弘十年(一○一三)豐後守藤原孝理的花押開始一字體花押,長治二年(一一○五)的丹波重康的花押(圖13)、仁平三年(一一五三)死亡的平忠盛的花押(圖14)等可作為一字體花押的例證。
概觀平安時代花押的話,首先是草名體,其次開始了二合體,平安後期二合體成為花押界的主流,在草名體與二合體之間,散見一字體。換言之,有著草名體、二合體及一字體的花押,要注意的是貫徹以於名字為原則作成花押。花押是簽名代替自己的名字(諱),花押的
頁18
生過程に由来するのであって、花押作成の基本原理として中世後期まで行き続けることとなるのである。
 さて、冒頭に述べたように、花押は自署する本人にまねのできない本人独自の筆跡をもとうとする、はっきりした目的意識から生まれたものである。つまり自分と他者を区別する筆跡の個別独自性を顕示し、それによって署者がまちがいなく名義人その人であること、つまり本人たることを証示するのである。このように花押は自分と他者を区別する機能をもつものとして、判、書判、判形などとよばれるようになる。
 ところで、これもはじめに述べたように、
產生過程中,到中世後期繼續作為花押的基本原則。
其次,在前述中花押是自己所簽名,有本人獨自的筆跡別人無法模仿,清楚產生其書寫目的的意識。總之,花押顯示了自己與別人不同的筆跡的個別獨自性,根據花押與簽署者代表相同的名義,可證明是本人的證據。花押區別自身與他人的功能被稱為判、書判或判形等。
換言之,在開始所述
頁19
花押は自署の草書体から起こった、いわば自署の代用物であるから、実名を自署するか、花押を署するかのどちらかであって、実名と花押を連記すべきものではない。これが花押の発生史に由来する花押署記法の原則であって、官符、宣旨、庁宣等の公文書や、中央貴族の書状及び書状の変形様式というべき綸旨御教書等ではこの原則が忠実に守られたようである。しかい考えてみると、このように実名を記さずに特別な記号、符号に類する花押だけを署して、署者本人たることを証示するには、本来ならば、後世の判鑑のような花押登録制度がなければならぬわけだが、そのような制度が存在した様子はない。これはおそはない。これほそ
花押是自己書寫的草書體開始,因為即是替代自己署名的東西,自己簽署的名字還是花押兩者是不應該同時簽署的。花押產生以來,在官符、宣旨、廳宣及中央貴族的書狀及書狀變形的樣式綸旨、御教書等要忠實遵守實名與花押連記的原則。可是考慮此點,不簽署名字,但只簽上類似花押的特別記號、符號,原本的話是可證明為本人,必須有如印鑑範本的花押登錄制度,但這樣的制度是不存在的。
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らく、中央貴族社会圏では、総員の花押を相互に識別することが事実上おおよそ可能であり、そういう現実の上に立って、相互に識別可能というたてまえをとっていたからだあろう。
 それでは貴族以外の庶民層ではどうであったか。おそらくはじめは前記の花押署記法に従ったであろうが、やがて花押だけでその署記者を特定することの困難が認識され、ひいては花押のもつべき自己証示の効力も期待されなくなると、この欠点を是正する方法として、実名と花押を連記する署記法が考え出される。承暦二年(一〇七八)の田地売券の差出書に「秦利景(花押)」と署し(図18)、同じ年の別の田地売券の差出書に「大神重武(花押)」と署し(図19)、長治元年(一一〇四)の田地其他譲状の差出書に「僧覚尊(花押)」と署した(図20)のは、そういう新しい署記法の早い例であろう。そしてこの署記法は、文書執筆能力のない者が他者つまり右筆に依頼して文書を作成し、本人は花押だけを署する場合の基本型として次第に定着するように思われる。
這樣恐怕是在中央貴族的社會圈中,有可能用以識別彼此的花押,在現實上來說立下可以識別的可能性。
在貴族以外的庶民是怎樣的情形呢?恐怕在開始前記的花押署記法中,結局是很難去認識僅在特定的花押簽署的人,因此考量出名字及花押的連記的署記法來,花押證明的效力是不被期待的。承曆二年(一○七八)年田地賣券的差出書中簽署「秦利景(花押)」(圖18),同年別的田地賣券差出書簽「大神重武(花押)」(圖19),長治元年的田地其他讓狀的差出書「簽「僧覺尊(花押)」,很早就有這樣的新署記法。署記法是因沒有書寫文字能力的人,依由代書人的書寫公文書內容,再由本人來花押署名為基本的公文形式應有所定形。
頁22
二中世の花押...22
二 中世的花押-22

July 9, 2007
           【 違いが生じるのは・・・】
          「人の本性はみな
           ほとんど同じである。
           違いが生じるのは
           それぞれの習慣によってである。」
人的本性大致是相同的,導致不同是
在生活中,由於各種習慣造成不同。
          孔子(こうし。中国の春秋時代の思想家)

             Today's message
        「新しい習慣が完全に身につくまでは、
         例外を認めてはならない。」
新的習慣完全養成後,並不是被認為有例外。

          ブライアン・トレーシー(コンサルタント・講演家)
(顧問/演講家)
         「習慣とは、あなたそのものです。」
所謂的習慣是你自己所擁有的東西。   
        
 『シンプルなのに運がよくなる習慣』より
出自「簡單的去做,然後成為習慣」


July 6, 2007
 Essence.942


            【 目の前の一つ。】
眼前的一件事。



                .:*:.


      「ピサの斜塔には螺旋階段がありますが、
比薩斜塔是螺旋狀的階梯,但是
       あまりにも急なために一段ずつしか見えません。
若走的太急,會導致一部分會看不見,
       しかし、一段昇るたびに次の段が見えるようになり、
可是,當升高一個階梯時,會看到下面的階梯,
       そうやって昇っていくうちに
如此漸漸的登上階梯
       頂上にまでいたることができるのです。」
最後可以到達頂端。

        『世界を征服するより、自分を征服せよ』より
出自「征服世界,要先征服自己」




                .:*:.


        目の前の一歩、一段、一日・・・。
眼前的一步、一小段及一天

        「一」という漢字がつく、
「一」以漢字來說
        小さなことを大切にする。
是重要的小事物。

        それが、人生のコツなのかもしれません(^^)
這就可能就是人生的奧義。



                .:*:.

             Today's message


     「百万石の米といっても粒が大きいわけではない。
「就百萬石的米而言,其顆粒不因此而變大
      万町歩の田を耕すのも、その作業は
耕作一萬町步面的農田,其工作是
      一鍬(ひとくわ)ずつの仕事である。」
一次次的挖土的作業開始。

          二宮 尊徳(にのみや そんとく。農聖)
江戶後的農政家、思想家。



       「ものごとを大規模にやるという方法に、
若要做大規模事物的方法,
        わたしは不賛成です。
我是不贊成如此做。
        わたしたちにとって大切なのは、
對我們而言,重要的事,是
        一人一人です。」
各自每個人應做的事。


          マザー・テレサ(ノーベル平和賞受賞者)
德蕾莎修女(諾貝爾和平獎得主)
德蘭修女語錄(原文是英文):
人們經常是不講道理的、沒有邏輯的和以自我為中心的
不管怎樣,你要原諒他們
即使你是友善的,人們可能還是會說你自私和動機不良
不管怎樣,你還是要友善
當你功成名就,你會有一些虛假的朋友和一些真實的敵人
不管怎樣,你還是要取得成功
即使你是誠實的和率直的,人們可能還是會欺騙你
不管怎樣,你還是要誠實和率直
你多年來營造的東西有人在一夜之間把它摧毀
不管怎樣,你還是要去營造
如果你找到了平靜和幸福,他們可能會嫉妒你
不管怎樣,你還是要快樂
你今天做的善事,人們往往明天就會忘記
不管怎樣,你還是要做善事
即使把你最好的東西給了這個世界,也許這些東西永遠都不夠
不管怎樣,把你最好的東西給這個世界
你看,說到底,它是你和上帝之間的事
而決不是你和他人之間的事


July 5, 2007
         【 人間関係がうまくいく方法。】
    「相手の言うことに良く耳を傾ける人こそ、偉大な人である。」
對方所說的事,能專注地傾聽才是個偉大的人。

             カルビン・クーリッジ
柯立芝
            (アメリカ合衆国 第30代大統領。)
美國第30任總統

       カルビン・クーリッジは、有能な演説家でした。
柯立芝是個能言善道的演說家,
       しかし、妻がおしゃべり好きだったせいか、
可是他的妻子有著喜好碎碎唸的習慣,
       自宅では無口だったそうです。
因此柯立芝在家時是個沈默寡言的人。

             Today's message

     「竹下登さん は、自分がどんなに知っていることでも、
      相手が言うと、『はあ、ほう、なるほど、さすが・・・』
      と言う。これで相手は喜んで帰る。やはりこれが
      相手に情報を届けようという気にさせるポイントであろう」
「竹下登先生對自己不知道的事時,對於來訪者所言的內容,總
是回答 是、對、原來如此、果然如此…」。對方總是歡喜的離
開。這果然是獲得對方知識情報要注意的地方。

             早坂 茂三(はやさか しげぞう。政治評論家)
      「ほとんどの上司は、自分の仕事は聞くことではなく話すことだ
と思っています。しかし、人の上に立つ人は、聞くことの大切
さをしっかり理解すべきです。そうすれば、もっと効率的に職
務を遂行できると思います」
大部分的上司不聽與自己工作有關的話題。可是,在上位的人應
該確信去理解傾聽對方是很重要的。
           『一日ひとつ、小さな選択で人生を変える』より
出自「一天一件,小小的選擇將改變人生」