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ID:guyuan
暱稱獨眼龍的朋友
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目前分類: 2007年08月的文章    檢視方式: 列表 摘要
August 30, 2007
頁88
そして兼実、兼経、兼宗の場合には、結びの部分の筆順がさらに変わって図70のようになっている。もう一つ例を加えれば、九条兼実とほとんど同時代の左大臣花山院兼雅(一一四八―一二〇〇)の花押(図71)もやはり「兼」字である。起筆の部分が兼実・兼経・兼宗とちがっているが、この糸の捩れたような形(図72の実線部分)はこの頃からようやく流行し始めた、花押における運筆の型であって、原字の字形とは必ずしも関係がない。また、兼実・兼経・兼宗の花押の結びが、中心部で縦線になっているのも、同時廷臣の一部に用いられた花押の運筆法である。
 ここにあげた「兼」字の花押は、その字の
在兼實、兼經、兼宗的場合,在連結的部分筆順改變成為圖70。再舉一例大約九條兼實同時代的左大臣花山院兼(一一四八-一二○○)的花押(圖71)依然是「兼」字。兼實、兼經、兼宗起筆的部分不同,這是糸線成彎曲形(圖72實線的部分),從此開始流行,在花押運筆型,不必與原字的字型有關。在兼實、兼經、兼宗的花押結的部分外,在中心成為縱線,是當時一部分廷臣所用的花押運筆法。
此處所舉「兼」的花押
頁89
草体に りつつ、終わりの部分の筆順を変えた事例であるが、同様の例をもう一つあげておこう。平安末期の皇大神宮禰宜荒木田元満(一一一九―七二)の花押(図73、但しこの花押影は模写であるから、多少正確がさがるかもしれない)がそれだって、おそらくこの花押は「満」字の草体(図74)を元にして、筆順を大きく変えた作品であろう。「満」字の草体から変わっていく経過を分かりやすく示すと図75のようになる。
 第三例は「光」字の花押である。鳥羽・後白河院政の院司として活躍した桂大納言葉室光頼(一一二四―七三)(図76)、光頼の孫で承久の乱後、幕府のために駿河で斬られ
漸漸以草書體,改變最後的筆畫順序。同樣舉出一個例子,平安末期的皇大神宮禰宜荒木田元滿(一一九-七二)的花押(圖73,只是這個模寫花押影,可能多少),可能是花押「滿」字草體(圖74),改變其筆順的作品。從「滿」字的草體變化的經過可透過圖75來容易了解。
第三例「光」字的花押,活躍於鳥羽、後白院的院司桂大納言葉室光賴(一一二四-七三)的花押(圖76),在承久亂後光賴之孫,因幕府在駿河被斬
頁90
た権中納言葉室光親(一一七六―一二二一)の花押(図77)、後白河院政期の廷臣博士藤原光範(承元三年〔一二〇九〕出家)の花押(図78)、『民経記』の記主で知られる権中納言広橋経光(一二一三―七四)の花押(図79)は、書き出し縦の曲線を花押の型作りの枠と見れば、いずれも縦の三線を主体とする花押であって、ほとんど同形といってもよいはほど相互に酷似している。おそらくこれらの人々が実名の「光」字を上部の三画(火の変形)で表し、これを縦線三本に形象化したことがこの結果を生んだのであろう。
 以上の外に、実名の「光」字を縦線で表し、これと他の一字またはその部分と組み
的權中納言葉室光親(一一七六-一二二一)的花押(圖77),後白河院政期的廷臣、文章博士藤原光範(承元三年〔一二○九〕出家)的花押(圖78),以《民經記》記主為名的權中納言廣橋經光的花押(圖79)以縱曲線作為花押外型,全部以縱三線作為主體,大約是同形的彼此相似。可能是實名「光」字的上部三畫(火的變形),將三條縱線形象化產生的結果。
以外之外,以三條縱線表示實名「光」字,再組合其他一個字的部分
頁91
合わせて作ったと思われる花押例はいくつもあって、後白河院政時代の廷臣、権中納言藤原公光(一一三〇―七八)の花押(図80)、同じく大学頭藤有光(一〇九九―一一七)の花押(図82)などをあげることができる。公光の花押はおそらく書き出し部分「□」と終画近くの三角形とで「公」を表し、縦の三線で「光」を表したものであろうしたもであろうし(公と縦三線を実線で示すと図81)、有光の花押もやはり書き出しの横線とそれに続けて左に張り出し曲線とで「有」字の最初の二画を表わし、縦の三線で「光」を表わしたものと考えられ、どちらも二合の花押に属するが、「光」字の花押の参考として付記しておく。
的花押,舉出幾例,後白河院政時代的廷臣權中納言藤原公光(一一三○-七八)的花押,同樣的大學長官的藤原有光(一○九九-一一七七的花押(圖82))。公光的花押書寫的部分「」及最後筆畫近乎三角形,表示「公」字,縱三線表示「光」(圖81以實線表示公與縱三線),但是有光的花押也以橫線書寫向左邊外張的曲線,表示「有」字的最初二筆畫,三條縱線表示「光」,從此考量應屬二合花押,作為「光」字的花押參考。
頁92
付記 平重衡の花押は、初稿発表時、平時基の花押と見たが、五味文彦の比定に従って改める(同氏着『院政期社会の研究』四四三頁参照)。
付記 平重衡的花押在初稿發表時,見到平時基的花押,但跟隨五味文彥氏的比對。(參照五味文彥,《院政期社の研究》,頁四四三。)
頁93
Ⅳ二合の花押
Ⅳ二合花押字-93
頁94
二合の花押の代表例としてよくあげられるのは、鎌倉幕府の創設者源頼朝(一一四七―九九)の花押と、保元の乱の立役者藤原頼長(一一二〇―五六)の花押である。頼朝の花押(図1)は「頼」の偏部「束」と「朝」の旁「月」を左右に配して、あたかも一字のように形象したものである。頼朝の花押は、時期によって多少形がちがい、そのちがいは主として右半部の「月」の形の変化によるものであって、大よそ文治二年(一一八六)頃を界として、それ以後になると「月」の終筆が下方に向くようになる(『神奈川県史研究』七号、黒川高明「源頼朝文書について」、同氏編者著『源頼朝文書の研究 史料編』及び『花押かゝみ』に、六二頁以下を参照)。図1は前期の花押(元暦元年〔一一八四〕)であって、図2の後期の花押(文治三年〔一一八七〕)と対照すれば、変化のポイントがよく分かる。
次に藤原頼長の花押(図3)は、「頼」の偏部「束」と「長」を左右に配して、一字のように形象化したものである。これは、伝存例唯一の花押だが、残念ながら右半部に少々損傷があって、終りの運筆が判然としないけれど、「長」の草体(図4)もしくはその形象化と見ることに異論はないようである。このように、実名の二字の各一部を合わせるか、片方の字の一部と他の一字とを合わせて、一字の如くに形象化した花押を二合体の花押と
二合花押代表的例子,如鎌倉幕府的創設者源賴朝(一一四七-九九)的花押,保元之亂的重要人物藤原賴長(一一二○-五六)的花押。賴朝的花押(圖1)是「賴」的偏旁「束」與「朝」的偏旁「月」左右對稱書寫,成為一個字。賴朝的花押,由於時期的不同,多少有外形的改變,不同主要是右半部「月」外形的改變,其他地方以文治二年(一一八六)為界,在此之後「月」的最後有向下的趨勢(黑川高明,〈源朝文書について〉《神奈川縣史研究》七號),同氏編著《源賴朝文書研究 史料編》,及《花押かゝみ》二,頁六二)。圖1是源賴朝前期的花押(元曆元年〔一一八四〕),圖2是其後期的花押(文治三年〔一一八七)),對照的話,可分辨其變化的地方。
藤原賴長的花押(圖3)是左右配置「賴」的偏部「束」與「長」,成為一個形象化的字,這是唯一存留的花押,可惜是右半部有點損傷,無法判斷最後的運筆,但無疑應是「長」的草體(圖4)。這是以實名的二字各一部分組合,兩個字的一個其中一部分與其他一個字組合,形成一個形象化的花押,稱為二合體。
頁95
よんでいる。以下、平安・鎌倉時代の花押の中から、この種のものを選んで、説明を加えてみよう。
 図5は源満仲(多田満仲)の子で、十一世紀前半に大和守として活動の跡をのこしている源頼親の花押であって、「束」と「見」を左右に配したものと見てまちがいあるまい。頼朝の場合と同じ、実名二字の各一部を合わせる作り方である。次の図6は藤原顕保(?-一一四五)の花押である。この人物は、白河院政期の権臣、六条修理大夫顕季の孫で、彼自身も鳥羽院政期に院司として活躍した。著名な歌人清輔の従兄弟に当たる。この花押の左半は「□」の草体(図7)、右半(図8)
圖5是源滿仲(多田滿仲)之子在十一世紀前半任識大和守的源賴親,其花押是「束」與「見」左右組合,與賴朝一樣,是實名的二個字各一部分組合。圖6藤原顯保(?-一一四五)的花押,他是河院政期的權臣、六條修理大夫顯季之孫,自己是在鳥羽院政期任職院司,是著名的歌人清輔的從兄弟。藤原顯保的花押左半是「」的草體(圖7),右半(圖8)是
頁96
は「保」の草体(図9)ことに平安朝の草仮名(図10)を直線化、鋭角化した形に外ならぬ。もい一つ「顕」字を取り入れた花押をあげれば、図11は、鴨長明とほぼ同時代に生きた歌人で、『元暦校本万葉集』の奥書にその名をしるす左京大夫藤原顕家(一一五三―一二二三)の花押で、左半部は「顕」右半部は「家」(草体は図12)の形象化である。
 次に、ウ冠を使った二合の花押をいくつか紹介しよう。一字の花押の部で、「経」字を用いた花押の一例としてあげた小野守経の花押(八五頁、図56)が、ウ冠に「経」字を表わす三本の縦線を配していて、ウ冠二合の花押といえるが、外に以下のような例もある。
「保」的草體(圖9)是平安朝的草體假名(圖10),不外是其形直線化及銳角化。取一個「顯」字加入花押,另個例子是圖11鴨長明與其大約同時代的歌人,在《元曆校本萬葉集》的戍有記其名左京大夫藤原顯家(一一五三-一二二三)的花押,其左半部是「顯」,右半部是「家」(草體是圖12)的形象化。
以下,從平安、鎌倉時代昏花押,選出這種加以說明。
使用ウ冠(如家的寶蓋頭,ウ冠是指假名的蓋)的二合花押,以一字花押的部分,如用「經」字的小野守經(圖56,頁八五),以ウ冠加上三條縱線表示的「經」字,稱為ウ冠二合的花押,以下舉例。
頁97
 図13は、十二世紀前半期に山城守・大和守等を歴任した大中臣宗長(もと藤原氏で大中臣公長の養子)の花押で、ウ冠に「長」の草体(図14)を配したもの。図15は、承久の乱で京方の首謀者の一人として鎌倉幕府にに捕らえられ、関東に護送の途中で斬られた葉室中納言藤原宗行(一一七四―一二二一)の花押で、ウ冠に「行」の草体(図16)を配したもの。図17は、鎌倉時代の中頃、検非違使別当に任じて名法官と謳われた大政大臣徳大寺実基(一二〇一―七三)の花押で、ウ冠の下に「基」の草体(図18)を略化して配したもの。図19は実基四代の祖で徳大寺の家祖に当たる左大臣藤原実能(一〇九六―一一五七)の花押で、
圖13是十二世紀前半歷任山城守、大和守等的大中臣宗長(元本是在藤原氏成為大中臣公長的養子)的花押,以ウ冠配合「長」的草體(圖14)。圖15是在承久之亂時,在鎌倉幕府被補的京都首謀者,在護送至關東途中被殺的葉室中納言藤原宗行(一一七四-一二二一)的花押。圖17是鎌倉時代中期任職檢非違使別當的名法官太政大臣德大寺實基(一二○一-七三)的花押,ウ冠下是以「基」的草體(圖18)略化。圖19是實基四代之祖任德大寺家祖的左大臣藤原實能(一○九六-一一五七)的花押
頁98
ウ冠に「能」の草体(図20)の左半部を配したもの(運筆を分かりやすく示すと、図21のようになる)。また図22は右に実能の兄で、鳥羽院政期の権臣八条太政大臣藤原実行(一〇八〇―一一六二)の花押で、やはりウ冠に実名の一字「行」の草体を配してもの。この場合は、「行」の運筆に一工夫あって、本来図16のように左縦線上に打つべき終筆の点を右下に打っている(図23)。おそらく花押全体の形の安定性を考慮したものであろう。なお、「行」字をもつ名人物の花押には、形や運筆の順序に多少のちがいはあっても、この字全体を取り入れたものが多い。右にあげた藤原宗行・同実行の外に、もう一つ後白河院政
ウ冠配上「能」草體(圖20)的左半部(圖21表示其運筆的順序)。圖22是右的實能之兄,鳥羽院政時期的權臣八條太政大臣藤烈實行(一○八○-一一六二)的花押,是ウ冠配上實名中一個字「行」的草體。「行」字的運筆可看出其工夫,原本圖16是從縱線左方勾,最後筆是向右下勾起(圖23),是考量以花押全體的安定性。並且據有「行」字為名的人物,其花押在形式及運筆的順序多少有所不同,以全部字體納入居多。右舉藤原宗行、藤原實行之外,
頁99
初期の院司で、九条兼実の外舅(良通・良経の外祖父)となった藤原季行(一一一四―六二)の花押(図24)を見よう。この花押は図25の実線部分で「行」の草体を表わし、点線部分で「季」の中の「子」を表わしたものであろう。
 以上、実名の文字のウ冠を用いた花押として「宗」(宗長・宗行)字、「実」(実基・実能・実行)字の数例をあげたが、これらの文字を実名にもつ人物が、つねにウ冠を花押に用いるとは限らない。たとえば、源氏将軍第三代の実朝の花押(図26)は、これを分解してみると図27のようにABCの三部分となり、Aは明らかにウ冠だが、Bは「毌」の草体(図
後白河院政初期的院司九條兼實的岳父(良通、良經的外祖父)藤原季行(一一一四-六二)的花押(圖24)。圖24的花押是圖25以實線表示「行」的草體,虛線的部分表示「季」字中的「子」。
以上以實名中的ウ冠作為花押的「宗」(宗長、宗行)字,「實」(實基、實能、實行)的數例,有此實名的人物不限用ウ冠的花押。如,源氏將軍第三代的實朝花押(圖26),以圖27分成A、B、C三部分,A可明白其是ウ冠,B是「毋」字的草體(圖28)
頁100
28)を、Cは「月」を形象化したもの、つまり「実」のウ冠だけではなく「□」をとり、これに「朝」の「月」を配したと見られる。また同じく「実」のの付く名の人で、白河院政期に活躍した権中納言藤原(日野)実光(一〇六九―一一四七)の花押(図29)も、分解してみると図30のようになり、Aは「□」(但しウ冠をワ冠にしている)の、Bは「光」の脚部「ㄦ」の形象化であることが分かる(八三頁、図48の「光」字の花押を参照)。
 さて前記のように、「行」字の名の人物(宗行・実行・季行)が「行」字全体を花押に取り入れることが多いのは、この字の草体が縦線二本に一点を加えるという画数の少なさ
C是「月」的形象化,總之沒有「實」的ウ冠,成為「」,是以「朝」的「月」來組合。同樣有「實」的幾個人,白河院政期權中納言藤原(日野)實光(一○六九-一一四七)的花押(圖29),以圖30來分解,A是「」(但ウ冠改為ワ冠),B是「光」的腳部「ㄦ」的形象化(參照頁八三的「光」字花押)。
前面敘述的「行」字為名的人物(宗行、實行、孝行)大多將「行」全體納入花押,這個字的草體是條縱線加一點,是屬於筆畫數少的,

August 24, 2007
アニメ:卡通
犬夜叉 高橋留美子原畫全集
犬夜叉卡通的世界
目次 原作/卡通 徹底的比較研究-5
犬夜叉原畫集Ⅰ-21
犬夜叉原畫集Ⅱ-101
卡通角色圖鑑-118
美術ボード集-124
オープニング徹底研究-126
『犬夜叉』第1話影片報導-130
高橋留美子&主演配音群「戰國夜晚對談」-132
編輯介紹-136
卡通秀設定資料-139
犬夜叉用詞字典-156

P.5

原作/卡通徹底比較研究
原作是如何以卡通來表現呢?一邊比較原作與卡通,在此書可看到卡通電視化。

頁6

原作/卡通的徹底比較研究
◎ 被壓縮的情報分析◎
在犬夜叉中搶奪四魂之玉的場面,以原作最初的頁數只有2個段落,就表現全部的場景。可是卡通時,第1話アバン場面, 連續重現,可以看到激烈的動作,同時也可以說明某個程度的狀況。為了這個原因,要去發掘原作者省略或是壓縮的描寫的劇情。

撞破森林成為突起來的網。之後的電影是犬夜叉撕裂網子。

在村子的遠景後面,從裡面到面前,用高速的攝景補捉村人的害怕臉孔。

在神社內有用結界守護的四魂之玉。在這個場景下,不減掉速度,用很短且連續的電影來重現。

從犬夜叉入侵神社奪取四魂之玉的場面,全部是卡通オリジナル。

在追逐犬夜叉這一幕,以攝景機來表現水平的電影動作。這時犬夜叉的動作是接近頁7コーマ目的印象。

再次與村人為對手,用高節奏動作的場面。

追逐向上空飛舞的犬夜叉,如爆炸的神社。在這幕是與原作開始有了對應。

伸出犬夜叉的手去奪取四魂之玉。使用透過光線的合成來表現玉的光輝。反映到玉的畫面大概只有數秒而已。

對應在頁7的2個一小段目動作。到此約40秒有17個動作,來演出電影動作。

頁7

第1話 被封印的少年

哈哈哈哈 哈哈哈!

活該。

得到了四魂之玉。

有這個四魂之玉。 我就是真正的妖怪了。

犬夜叉!

啊!桔梗。

頁9

原作/卡通的徹底比較研究
◎ 確認位置的關係來產生臨場感◎

漫畫中可說明部分主角的狀況,之後可以用讀者的想像力來補充臨場感。可是在卡通省略了漫畫中的狀況描寫,不可能演出臨場感。因此要清楚地說明登場人物的現在位置及狀況,必須鋪滿表演的氣氛。

奪取四魂之玉後,飛翔的犬夜叉著地。在p.8的一小段落□是在前面的場面已有說明。

描述一個根據背景動畫的桔梗用弓射擊的動作場面,加上落差來表現射擊犬夜叉的慢動作。

從桔梗到犬夜叉慢慢的以攝景機來移動。在此明確的表現二個人的位置關係,並傳達戰鬥的緊張感。

同時以緩慢的響音來表現弓鳴的效果,攝景是□。成為一個緩和的場面有了慢慢的節奏。

頁10

◎ 場景的追加與置換◎
至今見到的內容中可理解的是,卡通不是忠實的重製原作,也追加適當的場景,去實施攝影角度的變更。特別去強調某個部份場合,為了考量這個最顯著的地方,加入某個意識的場景,又再追加場景。關於描寫桔梗的死因,正是用這個方法。

P11第一個段落的對話場面的對應場景。在原作是以犬夜叉的視線,但在卡通沒有以任何人的視線。

P11從第三個段落,被置換開始以桔梗的對話為場景。

越過村人的背後的楓與桔梗的場景。配合長的對話,去追加場景。

描寫在桔梗後方的積血,用來說明他負傷。

P11第五場景變成俯視的畫面。

桔梗之死。為了前面的場景中人物的高點,引用攝影來反映場景的印象。

對於神的視點的原作,卡通以楓及桔梗的攝影各種視線。為了可看到有效果的,在這個之後繼續的場景以有意識的段落。

頁11

為了這個
四魂之玉

可惡的你,好啊!

姐姐快點治療傷口

受傷了

桔梗大人

二次 再一次 不可落入壞人手中

這個 和我的遺體一起火化

我沒有力量了 因此 這樣比較好 楓妹妹

頁12
四魂之玉就留在我身邊

頁13
◎ 印象的演出◎
漫畫是各式各樣的大小的繪晝加上文字,可看到圖案。卡通是小小的影像累積流逝的時間。其中一個相同的基本構造是建築大的故宦,但是結果是停止的繪畫世界及移動的繪畫世界,在表現的方法上也不同。桔梗火葬的場景與封印犬夜叉時,在原作是以四魂之玉為描寫中心。在卡通則是加入了桔梗火葬的場景。如此作的話少了原作的意圖,在動畫則再現其想法。

在原作的被封印後睡著的犬夜叉,在P10被射中箭的犬夜叉繼續描述這個場景。這樣的意圖是也可以置換場景。

卡通特有的動畫效果是在以光煇的場景等等中常用透過光的技術。在前面的圖案以攝影的影片來重現,在演出時用合成的遮光的東西蓋著,是以攝影光的方法。

在犬夜叉奪取四魂之玉的片段是玉的光。並且,在此改變遮光效果的形狀。

在表現犬夜叉的散魂鐵爪的軌跡等,有可能多彩的表演。

在燃燒很旺盛的炎中的鏡頭中的桔梗。在攝影的移動場合,用了大塊的薄畫。
從四魂之玉的面面,用攝影機慢慢的消失在遠方的火光中的桔梗。火焰及四魂之玉的光輝是以數位合成來處理。

頁14
◎ 演出的速度◎
漫畫是著重在片斷,省略了演出的速度。卡通基本以1秒24個片斷的速度,調整每個動畫的數目來演出。在拍攝實況的電影等,也可看到慢動作的拍攝,這樣的速度演出,在卡通的表現上是可能的。當然卡通的場合中,與拍攝實況的電影是不同的,用在調整動畫的數目,期望場景可以用調整動畫的數目來表現出自由自在的移動速度。卡通是攝影角度場景,可達到控制速度。

P15的一個段落對應的場景。
在這裡也見到切割成的細部場景,演出追逐的緊迫感。
P15對應的三個場景外,又追加段落,說明了百足蜘蛛如風快速移動竹籠般尾巴的狀況。

從移動的竹籠以攝影技巧來水平及垂直上升,在這個場景竹籠是以普通的速度來移動。

由於百足蜘蛛如風快速的移動竹籠般的尾巴。以速度來調節表現在這個場景中感覺竹籠尾巴停留在空中的時間。

頁15
第2話 甦醒的犬夜叉

把四魂之玉給我。

啊!是什麼東西! 我沒有!

啊!

頁16
百足蜘蛛看起來是低等的對手,為何,要做什麼?

咦!

頁18

啊!你?會說話。

用一箭就收拾了,桔梗。

殺我時,看到了。

桔梗?什麼,在說我的名字嗎?

來了。

咦!

頁19

◎ 在黑暗中的表演◎

百足蜘蛛是在夜間襲擊。在村莊的舞台中,是以火把的燈光來照明。為了這個原因,光源要在那裡,要演出反映位置產生的光影。可是竹籠的尾巴逃入了犬夜叉的森林中,是不存在全部的照明。只有一閃一閃的月亮及星星。為了這個原因,表現在畫面上,更強調影子的濃淡。在這個場景,先前的百足蜘蛛追逐劇場節奏中,靜靜地注意這個落差也是很引人興趣的。

August 20, 2007
頁69
Ⅲ一字の花押
Ⅲ一字花押-69
頁70
平安時代の花押で、特定の一字を元にして作られたものは、例は少ないが、比較的早くから現れている。寛弘十年(一〇一三)正月廿六日付の解文の外題に加えられた豊後守藤原孝理の花押(図1)は、「孝」字の草体(図2)の変形である。「」の部分に比して「子」の部分を大きくかつ丸くして、終画の横線を右下がりに長くのばしたところに、この花押の工夫が見られる。次に承暦弐年(一〇七八)弐月弐日付、秦利景の田地売券に見える同人の花押(図3)は、「景」字を元にしたものである。なお、この人の場合、同時の花押署記の通則とちがって、「利景」という実名(名乗)を書いて、その下に花押を居えている点が注目される。次に丹波重康(一〇六五―一一一九)の花押(図4)は、典拠の文書が写しであるため、厳密な花押影とはいい難い点もあるが、これが「康」字であることは動かないところだろう。次には平清盛の父忠盛(一〇九六―一一五三)の花押(図5イ、ロ)がある。見られるように、縦線を第一画の横線の上に出したもの(イ)と、そうでないもの(ロ)とがあるが、いじれにしてもこの人の花押が「忠」字であることは明らかであろう。次の久安四年(一一四八)四月の三春是行起請文に見える花押(図6)は、同じく一字の花押であるが、「行」字の草体(図7)を横にした面白い例である。そしてこの人
在平安時代的花押,以特定的一個字作為花押很少,較早出現的,是寬弘十年(一○一三)正月廿六日所附的解文加上的外題豊後守藤原孝理的花押(圖1)是「孝」字草體(圖2)的變形。「」的部分比「子」的部分大且成為圓形,最後的筆畫橫線向右下長長的延伸。其次承曆貳年(一○七八)貳月貳日付,在秦利景的田地賣卷也見到同樣的花押(圖3),其原本的字是「景」。但是,此人的場合,在當時與花押署記的通則不同,以「利景」實名書寫,在實名下花押。下一個是丹波重康(一○六五-一一一九)的花押(圖4),因為是依典據的文書書寫,其嚴密的花押影印是很難的,這個「康」字是不動的。平清盛之父忠盛(一○九六-一一五三)的花押(圖5イ、ロ)。縱線在第一畫的橫線向上突出(イ),不是(ロ),可明白此人的花押是「忠」字。久安四年(一一四八)四月的三春是行起請文的花押(圖6),同樣是一字花押將「行」的草書體(圖7)橫寫,是有趣的例子。
頁72
の場合も、秦利景と同様、名乗の下に花押を居えている。
 中世の武家で一字の花押を用いた人に北条義時(一一六三―一二二四)がある(図8)。この花押は「義」字の省画によって作られたもので、終画部分の三角形(右下部)は、おそらく「我」の終画部分(図9参照)を表すものであろう。
 北条氏の一族で、元弘の乱に幕府軍の指揮者の一人として参戦した大仏貞直の花押(図10)は、「直」字の草体(図11)を元にして、極端な線形化を試みた作品といえよう。おそらく図11から図12のような形を導き、これより図10を得たのであろう。ここでは、「直」
在一字花押的場合,與秦利景同樣在名字下再花押。
中世的武家用一字花押的是有北條義時(一一六三-一二二四)的圖,是省略筆畫的「義」字,最後以三角形(右下部),在最後畫以「我」(參照圖9)。
北條氏一族中,以元弘之亂指揮幕府軍的大佛貞直(圖10),而「直」的草書體(圖11),嘗試以極端線形化的作品。可能是從圖11到圖12的改變,最後得到圖10。這個字從「直」
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の草体を元にしつつ、上の横線を縦線の上に置き、原字では水平になっている下横線を彎曲させて、中央の円にかけた点に、作者の工夫を見ることができる。ところで、「直」字の線形化で参照されるのは、遥か後代に属する徳川家康(一五四二―一六一六)の花押(図13)である。家康はもと松平氏を称し、今川義元のもとで元服して元信、ついで元康と名乗り、花押は今川義元の花押(図14)に倣ったと見られるもの(図15)を用いたが、永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いの後、今川しと絶って、名乗を「家康」と改め、花押も図13に改めたのである。(中村孝也『徳川家康文書の研究』下巻二参照)。今これを元康時代の図
字草書體的原字改變,上面的橫線放在縱線之上,原字為水平,在下橫線改為彎曲,中央以圖形,可見到作者的工夫。可是參見「直」字的線形化,在遙遠的後代德川家康(一五四二-一六一六)的花押(圖13),家康原來的名字是松平氏,今川義元的成年前為元信,改為元康,以圖15仿效今川義元的花押(圖14)是在永祿三年(一五六○)的桶狹之戰後,今川氏不用,改名為「家康」,花押也改為圖13。(參考中村孝也《德川家康文書の研究》下卷二)。今川與元康時代
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15と比べると、その間に類似点もあって、図15を修正して図13を得たと解されぬでもないが、この二つの花押には決定的な違いがあるある。それは底辺部分であって、図13は底辺を太い水平線でまとめている。この水平線は一体何を表すか。この点に注目すると、図15から図13への移行を単なる形の修正とすることはできない。思うに図13は、「徳」字の草体(図16)の旁部分、もしくは「徳」の原字「□」の草体(図17)(いずれも図11に示した「直」の草体と同形になる)にもとづいて作られたのではあるまいか、そう解釈sるれば、底辺の水平線の説明がつくことだけはまちがいない。なお、家康が徳川と改姓するのは永禄九年十二月、「福徳」印(図18)を用い始めるのは同十二年頃からである。(前掲、中村氏著書下巻二参照)。
 もう一つ、一字の花押を紹介すれば、明徳の乱の立役者、反乱の実の首謀といわれた山名満幸(?-一三九五)の花押(図19)がある。これは「満」字の草体(図20)もしくは草仮名(図21)を線形化し□に、天地二本の直線を加えたものである。この天地二線は何を表現するのか。あるいは「幸」字の草体(図22)の横二線と解することも可能であり、もしそうならば、この花押は一字の花押とはいえなくなるわけだが、今はどの解釈を採ら
(圖15)相比對有其類似點,圖13是修正後成圖15,這二個花押的決定是不同。在底邊的部分,圖13的底邊是粗線的水平線。水平線是表示何意,圖15到圖13不是僅僅外形修正。思考圖13是「德」字的草書體(圖16)的旁邊部分,可能是「德」字原字「」的草書體(圖17)(與圖11所示「直」字的草書體同形)來作成的花押。以此解釋的話,底邊的水平線說明就沒有錯了。並且,在永祿九年十二月開始家康改姓德川,並在十二年用「福德」印(圖18)(參照前揭中村氏著書下卷二)。
再介紹一字的花押,明德之亂的中心人物,叛亂的首謀者山名滿幸(?-一三九五)的花押(圖19)。「滿」字的草書體(圖20)可能是草體假名(圖21)的線形化 (?)加上天地二直線而成。這天地二線表示何意,可能解釋成「幸」字草書體(圖22)的二橫線,這樣的花押應不是一字花押,但在此不採用此解釋,仍視為一字花押。
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ない。
 大仏貞直と山名満幸の花押は、十四、五世紀の武家の花押の中で、一字の草体を極度に線形化した珍しい例であって、当時禅僧の間に流行した中国風(宋元様とよばれる)花押の影響が認められる。
 以上にあげた一字の花押は、徳川家康の場合(図13)を除く外はすべて、その持ち主の実名(名乗)の一字を元にして作られている。これに対して家康は、彼の実名と関係のない「徳」もしくは「□」字を選んでいる。なぜ家康がこの字を選んだかは憶測の域を出ないが、「福徳」印の使用も考え合わせて、少なくとも彼がこの文字の意味するところに強い
大佛貞直與山名滿幸的花押在十四、十五世紀的武家花押中,一字草書體的線形化是十分珍貴的例子,受到當時禪僧之間流行的中國風(宋元的花押樣式)花押的影響。
以上所舉的一字花押,除了德川家康(圖13)外,主要以實際的名字一個字作為花押。相對的家康以實際名字無關的「德」或「」。為何家康選此字,無法猜測出來,但合其用「福德」的印章,與他的文字意義很少關連,表達強烈
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関心、執着をもったから、ということはできよう。
 家康の場合と同じく、実名とは関係のない文字を元にして作った花押で、家康以上に文字選定の理由を明確に推定できるのは、織田信長の花押(図23)である。信長はたびたび花押を変えた人物として知られているが、この花押は永禄八年(一五六五)頃、従来使用していた花押(図24)を一擲して、新たに採用したものである。この花押が何を意味するかを考えるのに、よう参考となるのは、幕末維新新期の活躍で知られる勝海舟の花押(図25)である。これは勝が壮年時に麟太郎と称したことからも気付かれるように、「麟」字の草体(図26)の変形である。つまり図26の偏旁各下半部を左右に開いて、平たくすると図25に近い形になる。そして図25の上部(点線より上の部分)を削ると信長の花押(図23)とほぼ同形となる(この削った部分というのは、元の字に還元してみると偏の「鹿」の一部と旁の「米」に当たる)。つまり信長の花押の元は「麟」字である。信長の「麟」じ選定の理由が、平和の世にのみ出現すると信ぜられた想像上の動物、麒麟に託して、平和への願望を表現するにあったであろうことは容易に推測できるところであり、この花押を使い始めてから二年後永禄十年には「天下布武」の印章を定めている事実を併せ考えれば、
的關心與執著。
與家康同樣的場合,與名字無關的文字作為花押,可明確推定家康選字的理由,織田信長的花押(圖23)。信長常常改變花押,自永祿八年(一五六五)年捨棄使用的花押(圖24),採用新花押。這個花押的意義何在,可以參考活躍於幕末維新期的勝海舟花押(圖25)是其壯年時稱為麟太郎,是「麟」字的草書體(圖26)變形。總之圖26的偏偏旁各下半部以左右張開,平橫的部分與圖25相近。圖25的上部(虛線上部分)削除,與信長的花押(圖23)大約同形(判除的部分還元原字是「鹿」的一部分,及旁邊是「米」)。總之,信長的花押原字是「麟」。信長選擇「麟」字的理由是相信和平之世的出現,寄託於麒麟這種想像的動物,表現出和平的願望,開始使用這個花押二年後的永祿十年定下「天下布武」的印章也應一起來考量
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「麟」字の花押には、自らの力によって平和の世を将来しようとする政治意志がこめられているのかもしれない(第Ⅵ章参照)。
 一字の花押について、平安・鎌倉時代を中心にも少し書いてみる。まず分かりやすい例からあげよう。
平氏政権の時代に摂政関白をつとめて「松殿関白」とよばれた藤原基房(一一四五-一二三〇)の花押(図27)は「房」字の草体(図28)そのものといってもよいような形である。次に十二世紀前半、天治・保延頃の人で刑部卿に昇った藤原家長の花押(図29)は「長」の草体(図30)を元にして、結びの部分に工
「麟」字的花押有注入以自己的力量來求將來之世的和平(參照第Ⅵ章)。
一字花押而言,很少見到以平安、鎌倉時代為中心的花押。首先舉出容易分辨的例子。
平氏政權時代任職攝關白的「松殿關白」藤原基房(一一四五-一二三○)的花押(圖27
是「房」字的草書體(圖28)。下一個是十二世紀前半,天治、保延時期昇任刑部卿的藤原家長花押(圖29),是「長」字的草書體(圖30),在其結的部分可看出其工夫。
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工を凝らしている。筆順を分かりやすく示せば図31のようになる。藤原家長と同じ頃の人、というよりも、ともに並んで鳥羽院庁の別当をつとめた経歴をもつ大蔵卿藤原忠隆の花押(図32)は「忠」字を元にしたもの。心の部分の筆法と形に一工夫している。なお、この花押影は永久四年(一一一六)のものだが、保延四年(一一三八)頃になると、図33のように変形して、いわば洗練されたものとなっている。次は平安末期の人物で「局務の大器、明経の名士」と称賛された清原頼業(一一二二―八九)の花押(図34)は「頼」字の草体(図35)を元にして、旁部「負」を小さくした形である。康治・保元頃の人物で関白(藤
圖31依其筆畫順序可容易區分出來。與藤原家長同時期的人,同時任職鳥羽院廳別當一職,並經歷大藏卿的藤原忠隆的花押(圖32)是「忠」。其心部的筆法及形式下了一番工夫。圖32的花押影是永久四年(一一一六)年的東西,到了保延四年(一一三八)年時,變形成圖33,成為具有洗練的花押。其次是平安末期被稱為「太政官上席、明經之名士」的清原賴業(一一二二-八九)的花押(圖34)是「賴」字的草體(圖35),旁部「負」以小字的形狀。康治、保元時的人物任職關白(藤原忠通)
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原中通)家の家司をつとめた原季兼の花押(図36)は「季」字であって、左下がりに書いて終画を勢いよく右上にはね上げた点に特徴がある。
 次は建久七年(一一九六)の政変に辣腕をふるった「源博陸」通親(一一四九―一二〇二)の花押(図37)も「親」の一字の草体(図38)を元にしたもの。すなわちこの花押の点線上半は「□」に、下半は「見」に当たるが、結びの「ㄦ」の筆順が変わって、下端部が図39のように左回り一筆書きの三角形と点になっている(但し、何ゆえに点が二つになるのか、文字の変化だけでは説明できない)。このような筆順変化の例は前述の北条義時の場
的家司源季兼的花押(圖36),以左向下書寫,最後筆勢向右上點為其特徵。
操控建久七年(一一九六)政變時「源博陸」通親(一一四九-一二○二)花押(圖37)是「親」字的草書體(圖38)。在此花押點線上半是「」,下半是「見」,結的部分是變化筆順的「ㄦ」,下部分是圖39向左回的一筆書寫的三角形。(但為有二個點,在文字變化無法說明)。筆順變化的例子,在前述北條義時
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合にも見られた。
 次に平清盛の子で、南都焼き打ちで知られる重衡(一一五七―八五)の花押(図40)は「重の一字である(九二頁の付記参照)。また、少し溯って天治・長承頃の左大史小槻政重(一〇九三-一一四四)の花押(図41)は「重」字を左に倒して、筆順を全く変えたものである。その筆順を分かりやすくトレースすると図42のようになる。前にあげた三春是行の「行」字の花押と並ぶ一字転倒の例である(但し、三春是行の場合は右倒し)。ところで、面白いことには、「重」字の転倒には後続者があって、戦国時代の廷臣、権中納言庭田重親(一四九五-一五三三)の花押(図43)がそ
的場合也可見到。
平清盛之子火攻南都的平重衡(一一五七-八五)的花押(圖40),是個「重」字。(參照九二頁的付記)回溯到天治、長承時的左大史小槻政重(一○九三-一一四四)年其花押(圖41)是「重」字向左傾倒,且筆順全變。正常的筆順是圖42。前揭三春是行的「行」字花押,並且轉倒的例子。(但,三春是行是向右倒)。然而,有趣的是「重」字的轉倒是後來的人,戰國時代的廷臣、權中納言庭田重親(一四九五-一五三三)的花押(圖43)。
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れである。この花押には「重」字が左に半ば傾けた形で書きこまれている。その部分だけを取り出す図44のようになる。なお、この人の花押つまり図43から、起筆の「□」だけを残して、図44を取り除くと、図45のようになる。これの左の糸の捩れたような形を花押作成上の特異な運筆と見れば(図72についての後述部分も参照)、図45の全形はおそらく「親」字を表していよう(図38参照)。すなわち庭田重親の花押は、実名の二字をそのまま書きこんだもの(但し、二字の各起筆部分はダプらせてある)と見られる。ここでは「重」字の転倒の例としてあげたまでである。
 次には源平争乱期、有能な院司で内大臣に
這個花押的「重」字是左半邊傾斜。圖44只取出部分。並且此人的花押,總之是由圖43開始,起筆是「」,除去圖44,成為圖45。左旁的糸成為扭曲狀,是很特別的運筆方式(參照圖72),圖45全部形態來說可能是表示「親」字(參考圖38)。庭田重親的花押是以實名的二個字寫入(但是二個字的起筆部分)重疊,「重」是有倒轉的樣式。
源平爭亂期,有能力的院司昇任內大臣
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まで昇った中山忠親(一一三一-九五)の花押(図46)はおそらく「忠」の一字であろう。「中」の部分が大きく、「心」の主体は小さく、最後の二つの点でかがまた大きく書かれている。分かりやすく筆順を示すと図47のようになる。また、同じく源平争乱期の人で、『平家物語』義仲入洛の行だりに「猫間中納言」と書かれている藤原光隆(一一二七-一二〇一)の花押(図48)は「光」字の花押化と見てよいであろう。
 次に、一字の花押といっても、字の全体ではなくて、字の一部を花押化する例が少なくない。実名の二字を合わせて作る。いわゆる二合の花押においては、文字の部分を花押化するのがむしろ通例といってもよいほどであるが、一字の花押においても、そのような例をあげることができる。
 まず長治二年(一一〇五)の文書に署判を加えている右大史中原資成の花押(図49)は「次」の変形であり、平治・永万の頃、美福門院・八条院の院司をつとめた藤原資隆の花押(図50)もやはり「次」字の変形であろう。資隆の花押の縦線三本に注目すると、あるいは「隆」字と解されないでもないが(この点は一〇六頁参照)、書き出し部分「□」との調和を重視して「次」字と解したい。
中山忠親(一一三一-九五)的花押(圖46),可能是「忠」一個字。「忠」的部分較大,「心」的主體較小,最後二點又書寫很大。可以圖47輕易分辨其順序。並且,在源平爭亂的同時期人,《平家物語》中,源義仲進入京都時書寫「貓間中納言」藤原光隆(一一二七-一二○一)的花押(圖48)是「光」字花押化。
所謂一字花押,並不是字的全體,不少例子是指字的一部分花押。以實名兩個字合成,謂之二合花押,毋寧是通例較好的,以一字花押中也有此例子。
長治二年(一一○五)的文書加上署判是右大史中原資成的花押(圖49),為「次」的變形,平治、永方時期任職美福門院、八條院院司的藤原資隆花押(圖50)也是「次」的變形。資隆的花押要注意的是三條縱線,或許可理解「隆」字(此點可參照頁一○六),書寫的「」可視為「次」字。
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 次に藤原資隆とほぼ同時代の人で前出政重の子、左大史小槻永業(?-一一六四)の花押(図51)は「業」字の一部「□」、後白河上皇の近臣として政界に活躍した五條大納言藤原邦綱(一一二二―八一)の花押(図52)は、右半部に着目すれば「綱」の異体「□」の一部「止」の草体(左半、つまり書き出し部分は□偏)、そして後鳥羽天皇(一一八〇―一二三九)の花押(図53)は天皇の諱(尊成)の「尊」字の一部「□」をそれぞれ用いたものにちがいない(ちなみに中国では「業」の簡体字は「□」)。
 次に藤原邦綱より少し後て後白河院政の要人として義経問題、守護地頭問題などで政
與藤原資隆大約是同時代的人前出政重之子左大史小槻永業(?-一六六四)的花押(圖51)是「業」字的一部分「」,作為活躍於政界的後白河上皇的近臣五條大納言藤原邦綱(一一二二-八一)的花押(圖52)是右半部「綱」的異體「」的一部分「止」的草書體(左半部總之是糸的偏旁),後鳥羽天皇(一一八○-一二三九)的花押(圖53)是天皇的諱名(尊成)的「尊」字的一部「酋」,應不會錯的。(如在中國的「業」簡體字是「」)。
比藤原邦綱少,任要職在其後的後白河院政的義經問題、守護地頭問題等
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局を動かした大蔵卿高階泰経(一一三〇―一二〇一)の花押(図54)、泰経と同時代の人物で治承四年(一一八〇)の安芸国庁宣の署判を加えている大介菅原在経の花押(図55)は、どちらも「経」字の一部「巛」を三本の縦線として作られたものであろう。というのは、古くは十一世紀半ば天喜頃の伊賀守小野守経(図56)をはじめとして、十二世紀後半、仁安頃、僧義経(図57)、そして源義経(図58)など、縦線三本を主体とする花押の例がいくつもみられるからである。なお、小野守経の花押はウ冠に縦三線、二人の義経の花押は「義」の書き出し「□」に縦三本をそれぞれ組み合わせたもので、縦三線で「経」字を表
搖動政局的大藏卿高階泰經(一一三○-一二○一)的花押(圖54),與泰經同時代人物治承四年(一一八○)的安藝國廳宣在其署判是大介菅原在經的花押(圖55),是以「經」的一部分「巠」作三條縱線。在早期十一世紀半天喜時期的伊賀守小野守經(圖56)開始,十二世紀後半仁安時期的僧人義經(圖57)、源義經(圖58)等都是以三條縱線為主體的花押。並且,小野守經的花押是ウ冠的三縱線,二個義經的花押以「義」來書寫「」與縱三線組合,在縱三線中表示「經」字。
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わしている。念のためにもう一つ例証をあげると、これは花押ではなくて自署なのだが、藤原朝経(権中納言、九七三―一〇二九)は図59のように書いている。つまり「朝」はそのままだが、「経」は左の鉤のついた一線で糸偏を表わし、残りの三線で「巠」を表している。
 実名に「経」字をもつ人たちの花押に縦線三本の共通点をもつ例のあることを右に指摘したわけだが、この点をもっと一般化して、もし実名に共通の文字をもつ複数の人物が、その文字を元にして花押を作るならば、それらの人々の花押の間に類似点が生まれるといえないだろうか。筆順や省画のいがい、一字
為了念舉出一個例子,不是花押是自署,藤原朝經(權中納言,九七三-一○二九)圖59,總之是「朝」,「經」是左方的鉤,用一條線表示糸偏旁,剩下的三條線表示「巠」。
在實名中有「經」字的人其花押,都有三條縱線是其共通點,在右邊已指出,這點已經一般化,若實名有共通的文字,二人以上的花押之間不會有相同點的情形。用筆順序及省略筆畫的不同,一字
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のどの部分を元にするかのちがいで、類似性は打ち消されうるわけだから、実名に共通の文字があるからといって、必ず花押に類似点が出てくるとはいえまいけれど、何ほどかの類似点は期待できるのではないか。そのような観点から、同じ文字を元にして作られた複数の人物の花押を例示してみよう。このように複数の花押を比較し、類似点を指摘して、それらの花押のもとづくを明らかにする(つまり花押を読む)方法は、二字合成の花押、いわゆる二合の花押の読解にいて最も効果があると思うのだが、それは次章に譲って、ここでは一字の花押を中心に例示する。まず第一例は「遠」字の花押である。
 図60は大江信遠(応保二年[一一四五]同時の下野守)、図61菅野季遠(久安三年〔一一四七〕当時の左少史、のち右大史)、図62中原宗遠(天養二年[一一四五当時の左大史])、図63は伊賀国黒田荘の歴史を語る際に、巨大な私領主の典型として、その名を逸することのできない藤原実遠(康平六年〔一〇六三〕没)の花押である。この四人の花押はいずれも「遠」字の草体を元にしているために、全体に似通った形をしている。いいかえれば、四人の花押はすべて「遠」を原字とする草仮名「を」に集約される形である。
 第二例は「兼」字の花押である。図64は源平争乱期の王朝貴族を代表する人物の一人で
的部分是不同的,否認其相似性,在實名共通通文字,一定會出現花押的類似點,無法期待類似點的程度。從此觀點,以作為同樣文字的不同人物花押為例,比較不同的花押,指出類似點,基於明白花押文字(總之是閱讀花押)的方法,二字合成的花押所謂二合花押的解讀最有效果,在下一章節再談,這裡以一字花押為中心來舉例。首先第一例是「遠」的花押。
圖60大江信遠(應保二年〔一一六二〕當時的下野守),圖61菅野季遠(久安三年〔一一四七〕當時的左大史)、圖63是伊賀國黑田莊歷史中作為巨大的私有領主的典型藤原實遠(康平六年〔一○六三〕沒)的花押。這四個人的花押因為都是以「遠」的草體,所以全體都類似。以四人的花押來說全是以「遠」原字的草體假名「を」為其形。
第二例是「兼」字的花押,圖64源平爭亂時期的代表王朝貴族人物
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ある九条兼実(一一四九―一二〇七)の花押、図65は岡屋関白、近衛兼経(一二一〇―五九)の花押、図66はさきにあげた忠親の子、権大納言中山兼宗(一一六三―一二四二)の花押である。三者とも筆法、筆順が同じで、いずれも「兼」字の草体にもとづくと考えられる。「兼」字の草体は図67のようになるが、これが花押化される場合には、さらに変化が加えられることが多い。たとえば鎌倉初期の人物、権中納言三条長兼(建保二年〔一二一四〕出家、『三長記』に記主)の花押(図68)は「長」と「兼」を合わせたもので、一字の花押ではないけれども、その中の「兼」の部分は図69のように、草体よりもさらに簡略化されている。
九條兼實(一一四九-一二○七)的花押,圖65是岡屋關白的近衛兼經(一二一○-五九)的花押,圖66是先前所舉忠親之子權大納言中山兼宗(一一六三-一二四二)的花押。三人的筆法及用筆順序都相同,全都以「兼」的草體來考量。「兼」字的草體是圖67,以此為花押的場合,再加以變化的情形很多。如鎌倉初期的人物權中納言三條長兼(建保二年〔一二一四〕出家,注釋《三長記》)的花押(圖68)是「長」與「兼」的組合,並非一字花押,「兼」的部分是圖69,由草體進一步簡略化。
August 13, 2007
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ことと相関関係をもつ花押史上の新現象をもう少しあげてみよう。
 まず花押の形状についていえば、筆勢の鈍化した肉太な花押が多くなる。それは、古くからのように、一筆で書くとか、一気に筆を走らすという書き方ではなくて、丹念に墨を塗り形を整える書き方で仕上げたと思われる花押であって、武田信玄(図107)、上杉謙信(図108)など戦国大名にとくに多く見られる。そしてこの傾向が進めば、やがて花押の代筆が行われるようになる。江戸時代に大名が花押を署するのに、その大部分を側近の小姓などが書いて、大名自身は最後にわずかに筆を加えて仕上げをするというやり方が行わ
首先是以花押形狀來說,花押的筆勢不尖銳較鈍,線條較粗。古代是以一筆書寫,新花押缺乏一氣呵成的書寫方式,將心意用墨填寫成花押,並加以修飾,可從戰國大名如武田信玄(圖107)、上杉謙信(圖108)等,特別多見此種花押。進一步是出現了花押的代筆。江戶時代大名的花押大部分是其身旁的職役者書寫,大名僅僅是最後的修飾完成。
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れたというのがそれである。
 花押の印章化
 次には花押と印章の接近現象であって、(一)花押を版刻にして墨を塗って押すもの、(二)花押を双鉤式(籠字式)に刻して、これを押した上で填墨するもの、(三)花押を印文の如く見なして印章に取り入れたものなどがある。今、(一)(二)を花押とよび、(二)をとくに籠字の花押型とよび、(三)を花押印とよんでおく。実は(一)の花押型は割合早くから使用されたらしく、現在、鎌倉時代のものが四例知られている。(荻野三七彦『印章』)。永仁三年(一二九五)が二例、正安二年(一三〇〇)、元応二年(一三二〇)各一例である。このうち、永仁三年と正安二年の計三例は某寺(伊木寿一氏によれば永仁三年の一通は仁和寺旧蔵文書というから、仁和寺かもしれない)一切経御供米の請取状の袖に、おそらく供米請取の証として、押されている。おそらくこれらの花押型は、請取状の如く同種の文書を一時に多数発行するに当たって、いちいち花押を署する煩を避ける便法として用いられたのであろう。とこ
花押的印章化-48
花押有著接近印章化的現象,(一)以版刻花押再塗墨押印、(二)刻以雙鉤式(籠字式),再填上墨汁、(三)以花押刻在印章上如印文。現在(一)(二)稱為花押型,特別是(二)稱為籠字花押,(三)則稱為花押印。實際上(一)是較早使用,現存四例是鎌倉時代的花押(荻野三七彥《印章》)。永仁三年(一二九五)有二個例子,正安二年(一三○○)、元應二年(一三二○)各有一個例子。其中永仁三年和正安二年共計三例是某寺(伊木壽一氏的花押仁和寺舊藏文書)一切經御供米的請取狀,可能是證明取得供米的證明印押。花押型如一時發行大量的同樣文書使用,為避免頻繁使用花押的便利方法。
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ろで、このような花押型は何の影響で、こしくはどのような背景をもって生まれたものであろうか。この点については、ほとんど同文の文書を一度に多数発行する必要から生まれた度牒(僧侶に得度の証として付与する文書)のような文書版刻の風を指摘する見方と、中国の個人印または花押型の影響を考える見方とがある。後者についていえば、明の陶宗儀の著した『輟耕録』という書に、元の時代、蒙古人、色目人(欧人、西アジア人)の在官者でみずから花押を署えない者が、象牙や木に花押を刻してこれを用いたとあるし、宋.元より渡来の禅僧や宋.元に渡って帰国したわが禅僧らによって、彼地の個人印使用の風が日本にもたらされ、その影響のもとに俗人も個人印を用い、やgてはそれを花押の代用として使用するようになったことは印章史の上でほぼ求められるところであるから、花押型の出現を中国の影響と見ることも十分可能である。さて戦国時代になると、花押型は武士の間に相当用いられたらしく、奥州磐城地方の武将岩城親隆、古河公方、足利高基、織田信雄.信孝兄弟などの使用例が知られており、江戸時代に入ればいっそう盛んに用いられたことが新井白石の『同文通考』、屋代弘賢の『古今要覧稿』などに見えている。なお、薩摩の島津義久.同義弘や仙台藩主伊達綱宗.同宗村などの花押型の実物が今日残ってい
然而,這個花押型有何影響,或其產在的背景為何。就此而言,大約是產生於大量發行的同樣文書如度牒(取得僧侶出家證明給與的文書),這樣的文書版刻盛行,又受到中國個人印影響花押型。以中國印而言,明陶宗儀著《輟耕錄》,元代蒙古人、色目人(歐州、西亞)人為官時,自己無法花押,以象牙及木頭彫刻花押來用,透過宋元時來日的禪僧及去中國歸國的禪僧帶來中國個人印使用的風氣,這個同時影響僧人以外的世俗之人,隨著在印章史上代替了花押,花押型可能受到中國影響而出現。進入戰國,武士間很多使用花押,如奧州磐城地方的武將岩城親隆、古河公方足利高基、織田信雄、信孝兄弟,由新井白石著《同文通協》、屋代弘賢《古今要覽稿》可見進入江戶時代更是盛行。並且,薩摩島津義久、同義弘及仙台藩主伊達綱宗、同宗村等的花押型實物到今日仍存留下來(圖109)。
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る(図109)。
 次に(二)の籠字式花押型は江戸時代に入って盛んに用いられたようで、伊達綱宗のものは原物(真鍮製)が今日残っている(図110)。時には常陸の佐竹氏の一族楯岡義久の、籠字式花押型の中の印文を刻した(天正十六年〔一五八八〕もののような、凝った趣向の花押もある(図111)。
 次に(三)の花押印としては荻野が紹介された文明十八年(一四八六)の熊野の御師大石光陽坊幸済のものが現存最古のようである。
 これは将棋の木印で「幸」字の下に花押を刻している。降っては文禄三年(一五九四)の浅野忠吉の黒印で、横長の方形に、上
(二)籠字式花押型盛行於江戶時代,現今存留伊達綱宗的花押印(以銅鉛製作)(圖110)。當時常陸佐竹氏的一族楯岡義久以籠字式花押型來刻印文(天正十六年〔一五八八〕)表現出其志向的花押(圖111)。
(三)荻野氏說明以花押印而言,文明十八年(一四八六)熊野御師大石光陽坊幸濟是現存最古老的花押印。以將棋的駒型木印刻成「幸」字的花押。之後文祿三年(一五九四)淺野忠吉的黑怎,以橫長的方形印上
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半部に「忠吉」の二字、下半部に花押を刻している。
 次に花押の性質の変化は、花押の用法にも現れる。役職の花押の出現がこれだある。応永十三年(一四〇六)、春日社造替料木の関々の過所に押された「唐院(花押)」すなわち「唐院」の文字の下に花押を刻したもの(前出『印章』)は、役職用の花押というべき性質のものである。ついで文明十四年(一四八二)の文書に初めて現れる伊勢山田の行政機関「三方」の花押がある。この文書は案文であるため、花押の形様は分からないが、延徳三年(一四九一)になると「三方」の下に花押を三つ横に並べた判刻の花押、いわゆる山田三ツ判が現れる(図112)。同じ伊勢の大湊では、永禄初年から「老若」と称する合議組織が一個の花押型を用いて、これを「公界のいんはん(印判)」と称している。山田の三ツ判、大湊の公界印判、いずれも地方都市自治体の役職の証標であって、花押が本来もっていた個人的性質は全く失われて、役職印と同じ性質のものとなっているのである。
 以上によって、さきにあげに織田信長の「麟」字の花押、竹中重治の「千年おゝとり」の花押のような、本人の名とは関係のない理想.願望の文字を選び、これを元にして花押
半部是「忠吉」二字,下半部刻花押。
表現出花押性質的變化及其用法,出現了職役的花押。應永十三年(一四○六)興建春日社時負責檢查建材的機構其刻印「唐院」文字下再刻花押(出自《印章》一書),即是職役用的花押。到了文明十四年(一四八二)的文書出現了伊勢山田其行政機關「三方」的花押。這種文書是為了案文而作,其形式無法辨視,延德三年(一四九一)在「三方」下的花押是以橫式三個花押並排刻版,出現山田三判(圖112)。同樣的伊勢大湊從永祿初年稱為「老若」的合議織的花押用「公界印判」。山田三判及大湊的公界印判,是作為地方都市自治體的役職證明,失去花押本來僅為個人代表的特徵,成為與職役印同樣性質的東西。
根據上述,先前所舉織田信長的「麟」字花押,竹中重治的「千年おゝとり」的花押,與本人姓名無關,是選擇其理想、願望的文字,而元來花押製作的方法大約與戰國武將印文的選定是沒有改變的。
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を作る方法が、戦国武将の印文選定とほとんどかわりないものであることが、よく理解されるであろう。
 花押と印章の接近、実は花押の印章化の問題と関連して、花押と印章をどののように使い分けたかという問題が出てくるが、この点はまだよく分からない。一般的には、個人印が花押の代用として文書に使われ出したという歴史にかんがみて、書札の上で印章は花押より軽く見なされたといえよう。十六世紀末になると、一つの文書に花押と印章を併せて押署する例が出てくるが、江戸時代に入って書かれた故実書から推測すると、まず印章を押し、ついで花押を署したらしく、これも軽より重への順に従ったものと考えられるのである。
花押與印章的接近,事實上花押印章化其關連的問題,可知兩者使用上的區別是無法分辨。一般來說個人印代替花押從歷史文書來比較,書信上用印章的情形比花押少見。十六世紀末,出現文書中花押與印章同時使用的情形,進入江戶時代的文書,先押印章再花押,是由輕至重的順序決定先後。
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四 江戸時代の概況
 新型の花押の簇生した十六世紀をうけて十七世紀、江戸時代に入ると、急速に花押はいわゆる明朝体一色に変わる。明朝体とは天地の二線を特徴とし、一般に筆画は少なく簡単である。徳川家康がこの型を用いてより(図113)急速に広まり、ほぼ江戸時代前期の武家花押の基本型となり、天皇、公家や公家出身の僧侶の一部にもこれが用いられた。松浦静山の『甲子夜話』はこの花押型の盛行を述べ
四 江戶時代的概況-53
新型的花押大量產生是在十六世紀進入十七世紀時的江戶時代,急速的改變成為明朝體。明朝體的特徵是有天地二條線,一般筆畫很少,較簡單。如德川家康型(圖113)快速擴張,大約成為江戶前期武家花押的基本型,一部分天皇、公家及公家出身的僧侶也使用其型。松浦靜山《甲子夜話》記述了這種花押型的盛行,
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て、これを徳川判とよんでいる。ところで、この型を明朝体とよぶのは前記の伊勢貞丈あたりからのようで、明の太祖がこの型の花押を用いたことに由来するという。しかしすでに示したように、宋.元にならった十四、五世紀禅僧の花押の中にこの型があり、俗人にもわずかながら例証があるから、徳川家康の場合も明の太祖という特定個人の花押を模したというよりは、中国風もしくは影響下にある禅僧様を導入したと見るべきであろう。なお、この花押は「徳」の旁部分の草体を元にしていると思われる。
 ところが江戸時代中期になると、底線を引くがずに、運筆の終りの右部分を丸く張り出す
稱之為德川判。稱為明朝體是前記伊勢貞丈開始,因用了明太祖花押型才有此說法。倣效宋元風的花押,是以十四、十四五世紀禪僧的花押,俗人僅少數使用的例子,德川家康以模仿明太祖特定個人風格的花押,也許受到中國風傳入的禪僧樣式花押影響。並且,此花押原來是「德」的偏旁的草書體。
到了江戶時代中期,底線不再拉直,在運筆最後時,
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形が流行し始めて、これが後期.末期には上級武士の花押の基本型となった観がある(図124、125)。次に江戸時代の花押について特筆すべきことは、陰陽道の人や密教系の禅僧などが、花押作りの専門家として人々の需めに応じて、陰陽五行説などによる花押作成を行ったことである。中世紀以前にも、他人の依頼を受けて花押作成に当たる人がいたであろうことは察せられるが、それが専門化して、しかも運勢判断をこめて花押を作成するようになるのは、おそらく十六世紀終り頃からであろう。今日、この種の花押作成法を説いた書としては、天正十六年(一五八八)の奥書のある『判型口伝書』が最も古いようである。
開始流行右邊以圓形張開,並成為江戶後期、末期上級武士花押的基本型(圖124、125)。其次是江戶時代特別要注意是陰陽道及密教的僧侶等,專門製作花押因應的人所需,以陰陽五行說來製作花押。中世以前,受人所託製作花押,可能到了十六世紀末期形成專門化的情形,是加入其運勢判斷作成花押。今日各種花押作成法,以天正十六年(一五八八)的《判形口傳書》最古老。
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 もう一つ、江戸時代に入って花押の用法が大きく変わることに注意しなければならない。一口にいえば花押をもちいる頻度が著しく減退する。武士が幕府や藩に提出する誓紙などには花押を用いるが、一般の公文書では印を用いることが少なくない。私信に至っては印章も用いず、花押も書かないものが激増する。明らかに花押の性質は変わってしまって、日常気軽に使用すべきものではないと考えられたのである。人によっては私信用と公用と二種の花押を併用した場合もある(花押の併用は前代にもその例がある)。
 終りに、江戸時代も寛永頃になると、農村文書における百姓の花押が急に減るように思われる。中世以前に身分による花押使用可否の制があったかどうか、現在まだ明らかでないが、江戸時代に入って印判(印章)が普及して、百姓町人が公式の届書等に印判を押すことや、その印影(すなわち印鑑)を名主にあらかじめ届けておくことが定められると、それと裏腹に百姓町人の花押使用が禁止されたのではなかろうか。
 明治元年(一八六八)十一月、新政府は諸大名に対して、花押は必ず自筆をもって認むべきこをを令し、ついで同六年七月、来たる十月以降は人民相互に諸証書に爪印・花押等を用いることを禁じ、実印を使用すべきこと、実印なき証書は裁判上の証拠とはならぬ旨
又有一個進入江戶時代的花押用法很大的變化是必須注意的,所謂一口花押的頻率已逐漸減退。武士對幕府及藩提出的誓言用紙等使用花押,一般公文書多使用印章。至於私信是不用印章,不書寫花押的情形大量增加,可明白花押的性質已有所改變,在日常方面應已不再使用。在私信與公家信併用二種花押的情形(花押併用在前代已有例子)。
終期,江戶時代的寬永年,百姓在農村文書方面使用花押也急速減少。中世以前由於其身分可判別是否使用花押,現在無法明瞭,進入江戶時代印判(印章)普及,城市百姓在公式的申請書上押印,這個印影(即印鑑)是提出文書的人,相反的是禁止城市百姓使用花押。
自明治元年(一八六八)十一月到明治六年七月,新政府對於大名命令要自己書寫花押,到了十月以後禁止人民彼此間的證書用爪印、花押,改用刻名字的印章,
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の太政官布告を発した。その後、自署捺印か捺印だけでようかの議論が行われたが、花押復活論は現れず、結局、実生活での花押使用は江戸時代をもって終った。但し、明治六年七月の太政官布告はのち廃止となり、それにともなって花押を署した証書も裁判上の証拠力をある程度認められるようになった。
 なお維新後、明治十八年までの太政官制度時代は、大臣・参議以下の書類承認の証には捺印が圧倒的に多く花押の使用はきわめて少ないが、内閣制度が発足してのちは大臣副署や閣議書類のサイン用に花押が用いられるようになり、閣議書類については今日でもその慣例が守られている。また戦前陸軍の参謀ら
並發布太政官布告無實印在法律上的證書是無效的。之後,自己押印的議論實行,花押不再使用,最後在實際生活中花押結束於江戶時代。但在明治六年七月廢止太政官布告,花押在證書上某種程度有其效力。
並且維新後,到明治十八年太政官制度時代,大臣、參議以下的公文書多以押印,花押使用很少,到了內閣制度發達時,大臣副署及閣議文書的簽名以花押來簽名,到今天仍是慣例。並且,戰前陸軍參謀
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もいつのころからか花押を用いていたようである。
也使用花押。
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Ⅱ裏返し文字の花押
Ⅱ翻面文字的花押-59
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 花押はサインの一種である。日本の場合は、中国に学んで、実名の草体化を進める形から始まって、種々の作り方の花押が現れた。時期的には十世紀前半頃から用い始められて、江戸時代の末に及び、明治以後も一部の人々の間に用いられて今日に至っている。
 花押の研究はこれまで主てして、史料研究の基礎作業として行われた。たとえば個人を用いて、正確な花押影を蒐集整理して、花押照合用の台帳(いわゆる花押鑑)を作製し、これを用いて、文書の真偽を鑑別したら、文書に据えられた花押の人名を判定したり、時には花押の変化に着目して、無年記の文書の実年代を推定したりする類いである。このような研究は、東京大学の史料編纂所による『大日本史料』『大日本古文書』の編纂をはじめとして、多くの史料、古文書の研究編纂に測り知れない貢献をなしてきており、今後ますますその発展が望まれるところである。
 ところで花押は、改めていうまでもなく、それを用いる個人が自分を他人から区別する独自性の主張をこめた作品であるから、もしわれわれが一つ一つの花押について、それにこめられた意味を理解し、また、個々人の独自性の主張にもかかわらず、なおかつある集団全体に、はたまたある時代の人々全体に通ずる花押の意味、性質のあることを確認し、
花押是一種簽名。在日本的花押是學自中國,開始於名字的草書體,花押則以各式各樣的形式出現。從十世紀前半期開始到江戶時代末期,明治以後一部分的人使用一直到今天。
花押的研究,主以史料研究為基礎作業,如蒐集及整理個人的花押,製作花押比對用的花押簿(花押鑑),用來鑑別文書的真偽,以文書上的花押人名來判定,有時要注意花押的變化,用來推定沒有記錄年代的文書實際年代。此類研究以東京大學史料編纂所的《大日本史料》、《大日本古文書》編纂為開始,古文書的研究編纂成為不可知的貢獻,今後期後以此為發展。
可是花押至今未改的,是用來區別自己與他人獨特的作品,如果一個個去理解花押的意義,儘管有著個人的獨特性主張,但集合團體可得到時代全體花押的意義及性質,
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これらを理解することができるならば、花押は、さきに見たような史料研究のための史料として利用されるだけではなく、それ自体一次的、直接的な陳述史料として利用される道が開けるにちがいない。これが私の懐いている構想、というよりはむしろ夢んも近い願望である。
 一つ一つの花押を読む作業は、まず一つ一つの花押の成り立ち、作り方を調べることから始めなければならない。以下に述べるところは、文字を裏返して作られたと思われる花押の数例についての報告である。ここでは、元の字を読み取るだけに作業をとどめており、字の意味を読み取る作業には及んでいない。
 北条早雲(一四三二―一五一九)世に北条早雲とよびならわされている伊勢宗瑞(俗名長氏)の花押は、図1がよく知られた形であるが、百瀬今朝雄・田辺久子両氏の精査によれば(『神奈川県史研究』三四号「小田原北条氏花押考」)、図2がより早い時期の宗瑞の花押であるという。両者を比較対照してみて、図2の花押を手直しして図1の花押を作ったと解
可以如此理解的話,花押不僅是史料上被研究,作為自體一次的、直接的陳述史料可以利用此來開創新道是不會錯的。這是我自己懷包的構想,無寧是與夢接近的願望。
一個個花押研讀的作業,首先是一個個花押的成立,是調查花押製作的方法所必須的。以下所述,將花押返回文字的例子作為報告。僅止於解讀花押元來的字,不作花押字的解讀。
北條早雲(一四三二-一五一九)世是北條早雲和伊勢宗瑞(俗名長氏)的花押,圖1可知道其外形,根據調查百瀨今朝雄、田邊久子兩人(《神奈川縣史研究》三四號〈小田原北條氏花押考〉圖2是早期宗瑞的花押。兩者比較對照,圖2是圖1部分的修臥
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することは、さぼど困難ではないだろう。従って今のところ、宗瑞の花押としては図2が原形、こしくは原形に最も近いものと見てよい。そこで図2について観察する。今図2を裏返して立ててみると、図3のようになる。そこで筆順や線画のつながり具合を一応考慮外に置いて、大よその骨格を考えると、図4のようになり、それは「長」字の草体(図5イ)の変形とみることができる。参考までに当時の文書から、「長」字草体の一例を図6(「信長」)に示す。ところで、図3の右上部の細い縦線(図4......で示し部分)は何を表すのだろうか。「長」字草体(図5イ)第一画の右から上へはねあげた形を取り入れたと
並不是那麼困難。今天圖2宗瑞的花押可能是最早的原形。以圖2觀察,圖3是圖2其立起來。筆順及線條的考量外,其他如骨架也要考量,成為圖4,這是「長」字的草書體(圖5イ的變形)。參考當時的文書,圖6「長」的草書體是「信長」的表現。可是圖若上部細細的縱線(圖4的虛線)是作何意思呢?「長」字的草書體(圖5イ)從第一畫由右向上提
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も解釈できるが、むしろ「長」字に「氏」字を重ねたことによる「氏」の終画ではあるまいか。当時の文書では「氏」はしばしば図7のように書かれている。結局、図3でいえば左上部の点だけは、何を表現したのか分からない。その点を除いていえば、宗瑞の花押は彼の俗名「長氏」を原字として作られたと解釈できそうである。
 終わりに、図3から図4を求める場合に、筆順や線画のつながり具合を無視したこと、具体的にいうと、図3では中央縦斜線が中間で一旦切れていて、図4のよに一筆で上下貫通していないとか、図3では右から左へ張り出して下りてきた彎曲の線が中間でとまあって、
可以理解是「長」字作為「氏」字的重疊使用的最後筆畫,當時文書的「氏」常常是圖7方式書寫。最後是圖3左上部的點來談,無法解釋其意。除了此點,宗瑞的花押應是其俗名「長氏」來解釋。
最後從圖3到圖4,不要看其筆順及線條是否吻合,具體而言圖3從中央以縱斜線畫成兩半,圖以一筆使上下不能貫通,圖3從右向左外張止於中間向下彎曲的線
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図4のように右までのびていないとかについて、一言説明すると、花押を作る場合、本来の文字の筆順や線画の接合にはこだわらない例が多く、むしろそのような点を無視することによって、原字の推定が困難になるように配慮したのではあるまいか、と私は現在のところ考えている。
 朝倉教景(宗滴 一四七―一五五五)越前朝倉氏の一族。越前を中心に北陸各地に転戦とでも知られる。図8はこの人物の在俗時の花押、そして図9は同人が出家して宗滴と名乗った時期の花押である。ただし、教景が出家を界として、花押を図8から図9に変えたかどうかは、史料過少のため確言できない。
 さて図8を裏返してみると、図10のような形となる。これを頭部の三角形(山の形)とその下の部分とに分けてみると、三角形の頂点から底辺に垂直に線が下りて、その右半分が塗りつぶされている。この塗りつぶしたにどんな意味がこめられているのかは分からない
,圖4不是向右延伸,以此來說明製作花押,不是必要符合本來的文字中筆順及線條的接合,其例很多。把無視上述的觀點,我認為推定原字是很困難的。
朝倉教景(宗滴一四七六-一五五五)是越前朝倉氏的一族以越前為中心,轉戰北陸各地,以武名來討伐一向宗的門徒一揆,此事記於《朝倉宗滴話記》。圖8是朝倉教景在俗時的花押,圖9是改名為宗滴時出家的花押。只是,教景出家時從圖改到圖9的史料過少,無法斷言一定如此。
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ので、その点を今考慮の外に置くと、この頭部の原型は▲となり、これは北条早雲のところで示した「長」の草体(図ハ)と通ずるところがあって、「長」字を表していると思われる。それでは三角形の下の部分は何を表すか。この形から「年」字の草体(図11)を思い出すことはさして困難ではないだろう。ただ厄介なのは、縦線の中ほどから右斜め下に突き出た鉤形の解釈である。あるいは、左右のバランスを考え、終画の収め方に工夫を凝らした結果かと想像されないでもない。
 以上のようにして図8は、「長年」の二字の裏返しと解される。
其次以圖8翻面來看,如圖10的形狀。頭頭是三角形(山形)與下半部作為區分,從三角形的頂點到底邊的垂直線畫下,右半邊塗墨,這部分無法理解其意,把這問題放下,頭的原型△(三角中有一線分兩邊),這是北條早雲其花押「長」字的草書體(圖5ハ)。三角形下部分表示什麼。從此形來看應是「年」的草書體(圖11)是不困難的。只是麻煩在縱線向右斜下突出的鉤形解釋。或者考量左右平衡,最後一畫收筆是將其心意凝結的意思。
以上圖8是可分析成「長年」二個字。
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次に図9は何を表すか。横長の図9をそのまま起こして縦長の形にるすと図12となり、これを裏返すと図13となる。図12の右上部(点線より右の部分)の意味は分からないが、それを除く部分は「年」字の草体の変形かと思われる。ところが図13は全体で「長」字に見えるが(図9と北条早雲の花押図1と酷似していることに注意)左上部(点線より左の部分)を除いた形でも「長」と読める。結局図9は、そのまま立てれば「年」、これを裏返せば「長」と読めるように工夫したものではなかろうか。つまり、図9は図8を変形しつつ、依然として図8の場合と同じ「長年」の二字を、花押にこめたもののようである。
圖9作何表示呢?橫長圖9將之轉成縱向成為圖12,若是翻面則成為圖13。圖12右上部(由點線右半部)無法知其意,除此部分之外應是「年」草體字的變形。可是圖13全體是「長」(圖與北條早雲的花押圖1很相似),除此部分左上部(點線的左邊)應是「長」字。結局是圖9,將此圖形立起「年」,翻面讀成「長」。總之圖9是圖漸漸的變形,圖8同樣是「長年」形成的花押。
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なお、図8から図9へいつ変わったか明らかでないが、もしそれが教景出家の時であるとすると、縦長の花押を横にすることに出家の意味を託したと解釈できるかもしれない。
 近衛家熙(予楽院一六六七―一七三六)基熙の子で、名筆をもって知られる。図14がこの人の花押である。これを裏返して少し角度を変えて、横長の下向き彎曲の形にすると図15となる。これの底部すなわち下向き彎曲(はおそらく「心」が「□(連火」)かのいずれかと推測されるから、この人の名乗の一字「熙」の脚部と符合する。とすると、中央部のBに似た形は「臣」と見てよういから、図15は、頭部の□を除いて、「熙」字を表すと解せられる。参考までに「熙」字の草体を示す(図16)。それではこの頭部の□は何かといえば、おそらくウ冠の「□」の部分を天地逆にした形であろう。ウ冠は言うまでもなく「家」字のそれである。
並且不明瞭從圖8變到圖9,若是教景在出家時的話,由縱長的花押改成橫式,是否寄託成出家的意思。
近衛家熙(予樂院一六六七-一七三六)是基熙之子,是一個名書法家,圖14是其花押。這個花押翻面加上改變些角度,再將橫式向下彎曲成為圖15。花押的底部即是下向彎曲的線(可能是「心」或「火」(四個點連火)」,此人的名字一「熙」的腳部與此符合。中央部分的B與「臣」相似,圖15的除去頭部「山」,可表示「熙」字。參考圖16「熙」字的草書體。圖15的頭部是指何者,可能是「ウ冠」寶蓋頭「」的天地顛倒,這個寶蓋不是「家」字所用。