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ID:guyuan
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目前分類: 2008年04月的文章    檢視方式: 列表 摘要
April 28, 2008

因為趣味的文具箱10,頁76~79介紹此部電影的鋼筆情節,試著搜尋,找到了電影檔,雖然沒字幕,但還是試著看了。這是第一次,沒先看有字幕的再聽聲音,去練聽力。以前看字幕,是因為大多配有字幕,不想看也難,好像聽懂(從字幕上),但這次雖不見得每個對話都懂,郤也聽懂7、8成,好像突然聽懂了。

關於鋼筆的部分,電影中可沾墨試寫(我在誠品信義只能沾開水試寫,看不出筆墨是否滑順),不過沒合乎之前趣味文具箱介紹談試筆要「坐」著試的鐵則,也許這點就不是作者所能理解的,牌子的部分不介紹。在情境中,兩位女主角用的都是大筆(筆身粗)要談是女生用「大筆」,不曉得若手小點會不會覺得太大點?竹內結子寫字時不上蓋,而沢尻リエカ則上蓋寫字。

另外在販筆店,不像臺灣專櫃一支筆一大區塊,是一系列排在一起。感覺有點「老店」的味道。

不過特別是男主角喜歡上的是筆店老闆的筆,我想是他磨過或調過,比較上手。也有社長在磨筆的場景。

總之是值得看的一部感人的電影,沒有特別覺得灑狗血的情節,唯一小缺點,男主角哭的有點假,沒流出淚。另那小學生,也有點生疏,不自然。
April 24, 2008
頁240
用姓及名的各一個字組合成的花押有勝田主計及田邊治通。大藏官僚出身的寺內(大正五)、清浦(大正十三)內閣藏相,在田中內閣(昭和三)任文相的勝田主計(一八六九-一九四八)的花押(圖263)翻面成縱行如圖264,可明白其實線部分是「月」的偏旁草書體。殘留的虛線是何意思,可能是短的三條橫線是「月」的縱線(實線是虛線加上去的部分),表示「計」的草書體(參照264與「斗」的形狀相似)。
頁241
即此花押是「勝」的偏部加上「計」,進一步翻面成橫長的作品,有凝聚力。
出身遞信官僚被舉為平沼內閣的書記官長,轉任遞相,在第三次近衛內閣任內相田邊治通(一八七八-一九五○)的花押(圖265),上是「田」下配「通」,「通」的「」作為底線,是比較容易理解的花押。花押「田」上橫線是「」的變形,「田」與「通」中央由一筆縱線貫通(圖266),可見其功夫。
平假名及片假名的使用-241
使用平假名的花押,首先是姓(含有其一部分)以假名書寫的有曾根荒助、宇垣一成及井野碩哉。
長州藩士之子所生,明治三十年代伊藤、山縣內閣任法相、農商相,日俄戰爭時,為桂內閣的藏相,負責軍費用的調度曾根荒助(一八四九-一九一○)的花押
頁242
(圖267)一見可知其是書寫「そ」,接續「ね」。
從大正末到昭和初年任清浦、加藤(高明)、若槻、濱口四代內閣的陸相,被稱為「政界的彗星」,昭和十二年因陸軍反對組閣困難的宇垣一成(一八六八-一九五六)的花押(圖268),可以用圖269來分解,左邊是「う」右邊是「か」,加上天地二線,天的橫婚是「」部分的縱直線,加上左右的斜線(虛線的部分)讀成「木」。此花押以姓的假名書寫。
頁243
農林官僚出身,從第二次近藤內閣到東條內閣連續任為農相,戰後成為法相的井野碩哉(一八九一-一九八○)的花押(圖270),圖271是其分解,由「井」加上「の」合成,加上底線(但是「井」的第二畫橫線與「の」重疊),並且此花押的筆順如圖271。
以假名書寫名字(含其一部分)合成的,有野田卯太郎、奧田義人及八代六郎的花押。
年輕時進入自由黨,不久成為政友會最高幹部原內閣(大正七)的遞相,護憲三派內閣(大正十三)任商工相
頁244
野田卯太郎(一八五三-一九二七)的花押(圖272),圖273的實線是「う」,無誤,其他虛線部分無法解釋。在其中加入「タ」,進一步左橫斜線合成表示「田」。
    以農商務省出身的官僚山本內閣(大正二)時任文相,後來被舉為法相,作東京市長有名的奧田義人(一八六○-一九一七)的花押(圖274)是「よ」與「人」的合成,「人」也讀作「し」,是其下功夫的地方,可讀成「よし人」。
山本內閣瓦解後,在第二次大隈內閣(大正三)
頁245
任海相,シーメンス事件之後為海軍大將八代六郎(一八六○-一九三○)的花押(圖275)是「ろ」加入「くら」的形如圖276,「ら」是「郎」的草書體,表示「ろく郎」。
羅馬字的花押-245
最後舉幾個羅馬字的花押,作為政黨政治家的政友會幹事長,在田中內閣(昭和二)成為遞相,在岡田內閣(昭和十一)再度為遞相「人情大臣」望月圭介(一八六七-一九四一)花押(圖277),姓以「m」加上底線。
由文部官僚歷任京城、九州帝大學校長,米內閣(昭和十五)文相松浦鎮次郎(一八七二-一九四五)的花押與望月大約同形用「m」的花押。
歷任朝日新聞副社長、放送協會會長之後,被舉為鈴木終戰內閣的海南情報局長下村宏(一八七五-一九五七)的花押(圖279)明白其是「H」與「&」即其名組合(圖280)。
最後是昭和初年活躍於英、法、美的駐在財務官「津島」中心、小磯、東久邇兩內閣的藏相津島壽(一八八-一九六七)的花押(圖280)是「J」(橫倒)與「T」(倒轉)即名字的組合(圖282)。「」的頭右端是細,右下方的點無法理解其意。
95.11.1初稿
初稿發表處-248
笠松宏至,解說-「前人未踏」的花押研究-249
用字索引-259
人名索引-266
圖像大部分,東京大學史料編纂所《花押かかみ》
平凡社《書の日本史 第九卷》〈花押総覧〉


頁249
解説―「前人未踏」の花押研究               笠松宏至
 ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
 もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
頁250
書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
 即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
 このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
頁251
八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
 それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
 「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
頁252
私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
 こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
 では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
 まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
頁253
の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
 そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
 佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
 これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
頁254
ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
 そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
 しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
 そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
頁255
結んでいる。
 佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
 文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
 花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
 「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
頁256
が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである 
                   (かさまつ ひろし/日本中世史)
                             92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。

(笠松宏至/日本中世史)97.2.2

April 15, 2008
頁32
百利金M800
在1987年登場,從翌年1988開始販賣。與M400一同スーベレーン基礎樣式。握把等的裝飾M805有三色,2007年M805ダークブルー及M405同時停止製造。
Spec:長 收納時全長142mm 蓋子長約67mm,書寫時(本體只有128mm,加蓋子166mm)。筆身粗細:最大圓周14mm 軸徑12.5mm 重量 全體29克 蓋子只有8克 墨水:活塞式
相對洗練的萬寶龍設計,百利金是以圓筒形為基本,感覺較樸素。可是它也是很圓滑沒有角的設計,僅一眼看輪廓,可理解百利金的力道強勁,是可滿足百利金愛用的人。
筆夾也如百利金鳥的嘴,感到很幽默,成為百利金最大的特長,各種手打
頁33
的工程,縞柄也不只是實用的傳說。
從1930年代到60年代,應該是鋼筆販賣的全盛時期,各家公司的鋼筆有各種顏色的變化。可是現在的製品大體上重視效率(也有其他的理由),鋼筆沒有豐富的顏色變化。
這樣以效率優先的業界流行下,百利金的線條含有的顏色變化,M800與銀夾的M805有6種顏色,由此可感覺到百利金的氣概。
憂心而取出殘留在個性時代的鋼筆業界中,百利金的カラー展開。這也是表現出百利金思考鋼筆的製作方法,從百利金的印象感覺鋼筆是在書寫工具之上。
如此說是不怕造成誤解,我認為M800是有良心的鋼筆。與其他公司高價的筆中,只有M800不變守在5萬日幣,特別應提到其實用性。
與146大約是同尺寸有著最舒適的平衡筆身,握在前端或中央附近,長時間書寫不感到疲勞,書寫時的趣味是有著恰好的硬度,筆尖以滑順而感到好心情。
這可能是所有者要使用後才能理解的,一旦書寫時,滑順的吸墨機構,在尾巴加上蓋子,請在喜好的紙張上用M800書寫。永遠的愛用者收藏後可以秘密的享受其樂趣。

現代筆的兩雄,M800與146的比較。兩者都用金屬的活塞式吸墨器,重量也大致相同。平衡也很好,特別是習慣某種程度的鋼筆也能輕易的把持,認為書寫很容易。並且M800筆尖比M1000稍硬,有著剛好的硬度。收納時,146比M800長,本體尺寸M800多3mm,裝蓋子時尺寸也差6mm。

在德國也受到歡迎:得到1997的鋼筆オブ・ザ・イヤー獎。
1997年在歐洲發行的鋼筆愛好的雜誌Scriptum,得到世界初鋼筆人氣比賽(2129名筆者投票),「M800綠縞」得到壓導性第1名。第2名是萬寶龍149。

April 15, 2008
頁30
萬寶龍146
從1948生產到1949年(由於資料有不同)。在60年代一度停產,到70年代復活。現行的稱為「ル・グラン」,使用金銀鐵的不同素材,成為SOLITAIRE 的基礎。與149對照,筆尖較柔順。
感覺萬寶龍的角度圓滑的設計表現出洗練的一面。研磨仔細的筆身沒有縫隙,之間看不到間隔。
整隻萬寶隆目標可能是是圓滑,進而完美的專業的細節以146是合乎此條件。設計之外,拿著時也有最高的平衡,進而希望能理解為完美的筆。
146重30克,在拿著鋼筆也很輕鬆。過重時,手也會疲勞,過輕為了加筆壓也會疲勞。
並且筆身直徑13mm,持有時不用費力,適度的粗。這是研究機關協力開發,與某國產目標的原子筆有同樣的粗細,是有科學的根據。
146書寫的趣味,149相較下不堅硬,拿著感覺柔順、剛好適中。這果然與149不同的味道。
以完壁而無縫細的細節與計算平衡,及適度的堅硬與柔順。146全體下調和,重視自己的樣式與平衡,是為了選擇人的鋼筆。

April 14, 2008
〈百利金1000〉,《趣味的文具箱》,第八號,2007年10月,頁28~。
頁28
與149匹敵的最大尺寸的M1000在1997年誕生,スーベレーン依次為M400 M800 M1000登場。M1000有綠縞及黑色兩種,以スーベレーン的縞軸是以樹脂及化學纖維一層層的加上去再截斷,僅選用線條鮮明的部分來繞成圓桶狀。
種類 長度:合蓋時全長約146mm、蓋子長約70mm,書寫時(筆身僅136mm,加上筆蓋約177mm)。 筆身粗:最大周徑15.5mm,軸徑約14mm。重量:全體約33克,蓋子9克。墨水是活塞上墨。(容量約1.5cc)
頁29
為了享受書寫樂趣的筆,筆頭是百利金的鋼筆。特別是M1000是這個追求樂趣的模型。
同樣的大尺寸(146及M800等的筆身平衡更大的筆)的149,比較其性質上,萬寶龍與百利金思考的地方不同。
以大筆尖的149來書寫比較M1000的大筆尖是在量產的樣式中可以有最柔和、纖細的書寫味道,這是此筆強烈的個性,十分有魅力的地方。
享受書寫樂趣時,是繫在用心書寫的文字。傳達細心書寫的文字印象,對方也可得到優雅的氣氛,自己自身也能得到舒緩的心情。
大抵在販賣的場景中,重點是作為現在書寫工具,百利金的鋼筆特別是M1000不只是單單在長期書寫上,希望可以從書寫文字上從心中可忘記繁忙的現代,是百利金給人的印象。
我們為何受到鋼筆的誘惑,這是百利金M1000所造成的。
比較左邊的照片M1000的筆尖,比起149的筆尖(照片右)較少彎曲,表現出腰是柔細的「搖曳」等。讓不習慣鋼筆的人寫出好味道是很難的,在現行選擇的樣式中,得到「究極鋼筆」的評價。
April 14, 2008
購買VISCONTI鋼筆的人不將筆當作書寫工具,是購買以持有享受快樂,及感情。不只是書寫的工具,列出想要擁有的欲望,以此持續製作鋼筆。因此流行性很高,充滿藝術的佛羅倫斯的街道,及結合了美麗的工作室的精神。
NEW PRODUCT ディヴァインプロポーションDivine 調和第2彈
論述“ディヴィーナブラック”:在2006年以黃金比(1:0.618)的設計,販賣ディヴァインプロポーション已經1年了。黑色x銀色的ディヴィーナブラック登場。ベッキオ說明開發的秘密。

尾軸與筆身沒有區別,表現一體成形之美,ディヴァインプロポーション。為了使墨水吸入方式為按押及觸摸˙下降注入系統,要很努力去開發筆身。
換氣扇是必要的,關閉蓋子時,線很堅牢的固定,可以理解其重視外觀的感覺,開發出フォルムForme不亂的ディヴァインプロポーション。設計上花了1年,進一步開發系統1年。
新產品ディヴィーナブラック是以純銀埋入線中,這個線溝是以老鷹的尾巴為外形,在前端以工具雕刻,以銀糊剝開,貼上。這個工具是ディヴァインプロポーション專用,自家公司製作的東西。前端的刀尖是使用1.2mm與小的鑽石。比起製作手錶的工具有更高的技術。並且改良了蓋子的開關及變的滑順。
從9個月前開始,製作300張設計圖,從此可知其美麗的外形。並且為了注意多數筆的誤差,有專門一道一道的檢查,只要通過檢查的筆才能注入全銀至線溝內。這是以機械來作業,但最後的“確認”是用人的眼及手來完成。

April 13, 2008
〈VISCONTIビスコンテイ〉,《趣味的文具箱》,第八號,2007年10月,頁19~。
頁19
製作才色兼“美”的鋼筆,開朗的人們
13~18世紀時有許多歷史的建築物及古都義大利佛羅倫斯。從以前盛行皮革、製鞋、陶器等工業,著名的街上有著技術很好的師父。從佛羅倫斯的中心,開車約15分,可看到悠閒、寧靜的住宅街道。在這之中有棟綻放異彩的別墅。圍繞在翠綠及十分安靜的地方,是自1988年創業以來的VISCONTI工作室。兼備著美麗的設計與獨一的功能。VISCONTI的書寫工具是由如義大利太陽般開朗的師父們細心的製作出來。
頁20
介紹
VISCONTI產品不是義大利生產是“佛墨倫斯生產”
自1988年創業已19年,VISCONTI持續製作與其他品牌不同,有著個性美的鋼筆。是從何處有著這樣的想法呢?進一步專致於VISCONTI這個品牌。

創立VISCONTI之前,我是在コレクター鋼筆,鋼筆及文具店的店長。在當時的店前,販賣著以派克、waterman、萬寶龍為主的鋼筆。
我思考著作出自己的鋼筆,因此在當時單純的無法獲得鋼筆的心得。剛剛有著很類似的外形,並沒有獨創的設計。可是作出了優美設計的鋼筆。
時時浮現出想法。我有著許多各樣式的喜好,例如機車比賽、滑雪、山野騎車及閱讀,因此從普通的遊戲及個人的興趣,可以活躍製作VISCONTI文具。
進一步在VISCONTI,有另一個特徵是墨水吸入的方式。在90年代以動力注入器及新月式注入器,一再研究其他品牌所沒有的方式。以墨水吸入方式給與鋼筆使用上可享受的樂趣,這是很重要的順序,。也關心細部分,根據客人想要的,製作出書寫工具。以前是作為其他品牌OEM(替他牌生產)。從這時開始對於設計、材料、新的組合零件的開發不妥協。與其他品牌比較,希望降低價格,VISCONTI的品質郤不降低,斷絕OEM。僅僅這點VISCONTI自豪其高超的技術。
鋼筆不僅是書寫的道具上。我覺得在表現上也容易注入他的想法,於是容易傳達。以畫家繪畫油畫,希望將鋼筆之美表現如同油畫般的感覺。由裝飾品也成為接近表現個人的東西。VISCONTI的產品98%是在佛
頁21
羅倫斯市內作成。佛羅倫斯的環境很好,因為人才也多可作出高品質的VISCONTI產品。不是「義大利製」而印上「佛羅倫斯製」,以表現高超的技術。
購買VISCONTI鋼筆的人不將筆當作書寫工具,是購買以持有享受快樂,及感情。不只是書寫的工具,列出想要擁有的欲望,以此持續製作鋼筆。因此流行性很高,充滿藝術的佛羅倫斯的街道,及結合了美麗的工作室的精神。

April 8, 2008
頁221
―一九二四)の花押(図200)は「彦」の草体(図201A)そのまま。大蔵官僚から加藤(友)内閣(大正十一)の蔵相にあげられ、ついで日銀総裁となった市来乙彦(一八七二―一九五四)の花押(図202)は「彦」の草体の終筆を底線としたもの。また、内閣官僚から政界に入って戦中の衆議院議長、敗戦時の厚相をつとめた岡田忠彦(一八七八―一九五八)の花押(図203)は、やはり「彦」の草体(図201B)を元にしつつ、終わりの「」を「」の形にしたところに工夫が見られる。平沼閥の検事として頭角を現し、昭和十二―十四年の間、林・近衛・平沼三代の内閣で法相に任じた塩野季彦(一八八〇―一九四九)の花押(図204)
是「彥」的草書體(圖201A)的樣式。從大藏官僚,被推舉為加藤(友)內閣(大正十一)的大藏大臣,成為日銀總裁的市來乙彥(一八七二-一九五四)的
的花押(圖202)是「彥」的草書體加上底線。從內閣官僚進入政界,在戰時為眾議院議長,戰敗時的厚相岡田忠彥(一八七八-一九五八)的花押(圖203),果然是「彥」的草書體(圖201B),最後的「」是成為「」,可見其功夫。平沼閥的檢事時表現其能力,在昭和十二-十四年間,歷任林、近衛、平沼三代內閣的法相鹽野季彥(一八八○-一九四九)的花押(圖204)
頁222
は、起筆を著しく省画しつつ(図201C参照)、「」を岡田の場合と同じ形に変えている。

〔雄〕 この字を用いたものに尾崎行雄・桜内幸雄の花押がある。“憲政の神様”尾崎幸雄(一八五九―一九五四)の花押(図205)は「雄」草体(図206)そのもの。また、財界から政界に転じて民政党に属し、商工(第二次若槻内閣)・農林(平沼内閣)・大蔵(米内内閣)等大臣に歴任した桜内幸雄(一八八〇―一九四七)の花押(図207)は、左の木偏のように見える部分(図208の点線より左)が「幸」の草体で、右の部分が「雄」(図206A)だから、これは名の二字の合成である。
起筆省略其畫(參照圖201C),「」與岡田同形。
〔雄〕字使用的有尾崎行雄、櫻內幸雄的花押。被稱為「憲政之神」的尾崎行雄(一八五九-一九五四)的花押(圖205)是「雄」的草書體(圖206)。從財政轉入政治界,屬於民政黨,任商工(第二次若槻內閣)、農林(平沼內閣)、大藏(米內內閣)等大臣的櫻內幸雄花押(圖207),左邊是木的偏旁(圖208虛線的左邊)是「幸」的草書體,右邊是「雄」(圖206A),由名字的二個字合成。
頁223
 〔千〕 この字を用いたものに渡辺千冬・江木千之・千石興太郎の花押がある。昭和四―六年(浜口・第二次若槻内閣法相)をつとめた渡辺千冬(一八七六―一九四〇)の花押(図209)は、裏返して縦長にしてみると「千」の字が見えてくる(図210の実線部分)。そして、他の部分(同上点線部分)を横にすれば「辺」の形象化が見られる。つまり、この花押は「辺」の中に「千」を入れたもののようである。次に、内務官僚からあげられて清浦内閣の文相となった江木千之(一八五三―一九三二)の花押(図211)は「工」の右に「千」を配し、左の縦曲線で「」(サンズイ)を表わ
〔千〕用此字花押的有渡邊千冬、江木千之、千石興太郎。昭和四-六年(濱口、第二次若槻內閣)的法相渡邊千冬(一八七六-一九四○)的花押(圖209),「千」是翻面且縱長(圖210實線的部分),其他的部分(虛線的部分)橫的是「邊」的形象化。總之,這個花押是以「邊」加上「千」置入其中。從內務官僚被舉的清浦內閣文相的江木千之(一八五三-一九三二)的花押(圖211)是「工」的右邊加上「千」,左邊的縱曲線表示「」(三點水)
頁224
したもの、つまり「江」と「千」の合成(図212)である。また、産業組合運動を興して大政翼賛会総務となり、敗戦直後の農相をつとめた千石興太郎(一八七四―一九五〇)の花押(図213)は「千」と「石」の合成である(図214)。
 同じ文字を用いた複数の花押における類型性や異同の観察は以上にとどめて、以下には、之・不・民・丙・孝・苗・宙・岑・孫・寧・礼などの文字を用いた花押を一つずつあげてみよう。
 東条内閣の情報局総裁、ついで外相、敗戦時の南京駐在大使の谷正之(一八八九―一九六
總之,是「江」與「千」的合成(圖212)。振興產業組合運動,成為大政翼會總務,戰敗之後任職農相的千石興太郎(一八七四-一九五○)的花押(圖213)是「千」與「石」合成(圖214)。
僅止在用同樣文字在複數花押類型性及異同的觀察,之、不、民、丙、孝、苗、宙、岑、孫、寧、禮等文字的花押,一字舉一個。
東條內閣的情報局長,及歷任外相、在戰敗時駐南京大使谷正之
頁225
二)の花押(図215)は「之」の篆書(図216)を元にしたもの。
 尾張藩出身の文部官僚、明治十三年司法卿
(一八八九-一九六二)的花押(圖215)原字是「之」的篆書(圖216)。
尾張藩出身的文部官僚,明治十三年任司法卿,在明治二十四年成為法相(第一次松方內閣)田中不二麿(一八四五-一九○九)花押(圖217)以「否」加上底線及點,或可能是點與底線振示「二」。
出身佐賀藩的大久保利通原參議昇為司法卿,在明治二十年代歷任樞密院議長、法相、文相等的大木喬任(一八三二-九九)的花押是翻面圖219,「民」的形象化,大木是選「民」字
頁226
因其俗名為「民平」。
明治陸軍創設期的軍人,第一次(明治二十四)、第二次(明治二十九)松方內閣陸相高島鞆之助(一八四四-一九一六)號為「革丙」(「鞆」的分解),其花押(圖220)是「丙」形象化加底線。
從自由民權家成為自由黨、政友會的幹部,明治四十一年眾議院議長、同四十四年成為文相(第二次西園寺)長谷場純孝(一八五四-一九一四)的花押(圖221)是用「孝」,「子」的部分有些變形。平安中期人物藤原孝理
頁227
的「孝」兩者比對,形象化有大大的不同。
參與東京專門學校(之後的早稻田大學)的創設、第二次大隈內閣的文相及早稻田大學總長的高田早苗(一八六○-一九三八)的花押(圖222)用「苗」字,運筆可見其功夫。
山口縣出身的律師,戰敗後成為東久邇、幣原兩內閣的法相岩田宙造(一八七五-一九六六)的花押(圖224)由「宙」的ウ冠與「由」的第一畫重疊,由的最後一畫是底線,岩石宙造的「由」中心線不突出,成為「田」形,含有姓「田」的意思。
昭和六-十一年間任犬養、齋藤、岡田三代內閣的海相海軍大將大角岑生(一八七六-一九四一)的花押(圖225)其原字是「岑」,最後二筆畫成為點,加上底線,另一是底線是最後筆畫成為「生」。
從內務官僚進入政治圈,任職民政黨濱口內閣商工相的俵孫一(一八六九-一九四四)的花押(圖226)是羅馬字,為「孫」的草體(圖227)
頁229
加底線表示「一」,是「孫一」的形象化。
久留米藩主的嫡男,貴族院的革新派,第一次近衛內閣的農相、大政翼賛會事務總長、作定有馬賴義之父有馬賴寧(一八八四-一九五七)的花押(圖228)分解圖是圖229,除去「寧」的最後二筆(丁),大約是忠實的形象化。
從大藏官僚進入政界的憲政會、民政黨領袖,組閣二次,是戰時的重要人物若槻禮次郎(一八六六-一九四九)的花押(圖230)是「禮」的草體(圖231),「示」的偏旁較小,旁邊較大,特別是最後的筆畫為大的底線,筆畫順序有些功夫(圖232)。若槻也用「禮」草書體作為花押(圖233)。
頁230
三 大臣的花押(三)-230
下面是二字合成、用平假名及羅馬字。
二字合成的花押-230
首先是二字合成,用名字的二個字,山縣有朋系官僚重要人物,從第一次桂內閣(明治三十四)到第二次大隈內閣(大正四),歷任遞信、農商務(二任)、內務(二任)大臣大浦兼武(一八五○-一九一八)的花押(圖234)。「兼」的右下加上小的「武」草書體(平假名「む」)(圖235)(虛線右是「む」)
頁231
「武」的草書體,第一次見到會以為是「」的變形(以圖236分解就容易了)。全體向左傾斜是其功夫的地方。這個時代的花押以手一筆書寫再修飾珍貴且筆畫多的花押,顯示其榮耀。
開設帝國議會以來的代議士,立憲同志會、憲政會的重鎮、第二次大隈內閣的遞相箕浦勝人(一八五四-一九二九)的花押(圖237)也是其名的二個字,「勝」的最後筆畫是「人」的第一畫與之重疊,有少許變形程度的形象化。
頁232
鹿兒島藩士之子,由內務官僚立身任第一次山本內閣(大正二)書記官長,第二次山本內閣(大正十二)鐵道相山之內一次(一八六六-一九三二)花押(圖239)有著天地二線的明朝體,天線是取名的「一」,左橫的二點是「次」的「」(二水),底線是「次」的最後筆畫移過去(圖240的虛線)。
憲政會、民政黨最高幹部濱口、第二次若槻民政黨內閣遞相,純粹是政黨政治家小泉又次泉(一八六五-一九五一)的花押(圖241),與山之內的作法有點類似。小泉的「又」第二畫的部分是「次」的旁部「欠」
頁233
最後筆畫是山之內一樣同底線(圖242)。「次」的「」(二水)省略。
犬養、齋藤內閣的陸相成為皇道派首領「呼風的哲將」,在二二六事件聲望低落,會說話的陸軍大臣男爵荒木貞夫(一八七七-一九六六)的花押(圖243)分解成圖244,上部是「貞」,下部是「夫」,最後筆畫移動成底線,總之是「貞夫」的形象化。
作為東條的左右手,從第二次近衛內閣到東條內閣(昭和十六-十八)成為企畫院總裁,擔任戰時統制經濟的責任者,陸軍中將鈴木貞一(一八八八-一九八九)的花押(圖245),
頁234
是天的橫線是名字的「一」,下部分是翻面再立起,「貞」的最後二筆畫省略。右邊的點與虛線D表示「貞」的最後二筆畫。虛線ABC的部分,是為了全體形態的假線。
軍人中,被期待才幹,作為皇道派有力者,在二二六事件中退役,日中戰爭開發時,在上海被起用稱為「覆面將軍」陸軍中將柳川平助(一八七九-一九四五)的花押(圖247)分解為圖248,上部是「平」,下部是「力」(「助」的偏旁)。「平」在花押化之時,縱線不突出下部,是通例。因此,「平」與「王」的外形相近。國派的政黨田中政友會內閣鐵道相小川平吉(一八六九-一九四二)是「平」的花押(圖249)為其例。僅止於突出的程度。柳川的花押筆順可能如圖248。
作為個好的東京市長,廣田內閣拓務相、阿部內閣的鐵道相,俳號青嵐永田秀次郎(一八七六-一九四三)的花押(圖250)容易理解,圖解成圖251。實線的部分是「秀」的草書體,虛線部分是「二」的形象化,總之這個花押
頁236
是「秀」與「二」合成。
從大藏官僚任平沼、東條、小磯三代內閣的藏相,戰敗之後被舉為宮內相石渡莊太郎(一八九一-一九五○)的花押(圖252),分解如圖253,上部是「莊」,下部是「太」各別的形象化。
姓氏文字的合成花押,所謂維新三傑之一,出身於薩摩,薩摩最沒人氣的政治家大久保利通(一八三○-一八七八)的花押(圖254),並無法解讀十分,試著去敘述,此花押分解如圖255
頁237
右邊的實線可明白是「久」,左邊的實線與右邊的實線「久」的第三畫(右下長長的外張)合成「大」字。即此花押是「大」與「久」,可是含有的底線(虛線的部分)有何意義無法理解。中間部分是與「千」相似的形體,採用「利」的偏旁「禾」,無法成案,僅可解讀其花押含「大」與「久」字。此花押是大久保於明治七年時所用,不久變成圖256,「久」的判讀變的困難。
以外務官僚立身,第二次伊藤內閣(明治二十七)的內相、第二次松方內閣(明治二十九年)的遞相野村靖(一八四二-一九○九)的花押(圖257),分解圖(圖258)虛線上部分是「林」為「埜」(野)的一部分,虛線下部分是「村」的旁邊,表示「寸」,即此為花押為「林」加上「寸」。
第二次、第三次近衛內閣(昭和十五、十六)任海相,決定是否對美開戰,在大臣室中僅讀漢籍的海軍大將及川古志郎(一八八三-一九五八)
頁239
的花押(圖259),分解成圖260,實線部分表示「及」,「及」的第一裡的左斜線與中央部分的二條縱線表示「川」,加上底線。殘留的部分(虛線所示四個地方)無法理解。
二二六事件後從廣田內閣財界被起用於文相,特別的人事平生釟三郎(一八六○-一九四六)的花押(圖261),是「平」之下加上「生」(圖262)是平凡的花押,「平」的二點成為長的橫線,相反的下面的橫線變短是「平」字的變化,全體以一個字可見其功夫。
April 5, 2008
〈請「作出這樣的顏色!」墨水工作室〉,《趣味的文具箱》,第7號,2007年5月,頁56~。
頁56
不滿足現有的墨水,試著去享受「只有自己顏色」的筆跡。希望建議這樣的人是寫樂鋼筆的墨水工作室。寫樂˙石丸治先生是有其魅力的墨水混合。

以175種調製方法,調出喜好的顏色,是寫樂鋼筆的墨水工作室。在日本全國的文具店巡迴服務,只在客人聚集時展開。
墨水品牌的石丸治先生受到委託,而調製墨水。以號碼作為管理,作出墨水,在店中以號碼記錄,由石丸先生調製的墨水。價格50c.c1260日元。
頁57
原創性墨水是以混合形成:要製成的喜好的混合墨水,試著在日本橋三越「世界的鋼筆展」會場提出需求。

關於墨水的問題Q&A

石丸先生在寫樂鋼筆有開發出各樣式的墨水,從一般常見來提問墨水的問題。
Q1.墨水是什麼成分?
A.一般的墨水百分之九十是水,剩下的百分之十是染料及其他成分。防止凝固,書寫滑順的補助劑,及防霉的成分。
Q2.為何放在桌上的墨水顏色會改變呢?
A.由於光線會淡化墨水的染料。因為當日光直射時,墨水會退水,應放在光線無法直射的地方保存。
Q3.裝有紅色的墨水的鋼筆,再加入別顏色的墨水,還是有紅色的殘留。
A.紅色墨水是以低濃度的染料,郤可呈現鮮豔的顏色。可以很少的分量就反現出亮麗的顏色,以水來稀釋,總會留下顏色。在使用紅色墨水的筆尖,請特別要清洗乾淨。若是以一隻專用紅色墨水的鋼筆,也是不錯的作法。
Q4.瓶口有凝固的墨水,使用上沒問題嗎?
A.因為染料及添加劑的原料有凝固的成分,水分蒸發後部分會凝固。加入水的話使用上沒問題,擔心殘留的細粉,可擦拭去凝固的部分再使用。
Q5打開塵封已久的墨水瓶,突然有衝鼻的味道,是什麼原因造成的呢?
A.吸入墨水時,打開了瓶蓋,有些塵粉落入瓶內。造成一些雜菌的孳生,最好保存在陰暗的地方。開封使用後,最好在一年半年內使用完畢。
Q6.為何數個月前寫的文字,紙上的顏色會改變呢?
A.由於光造成退色之外,也會因紙質的原因產生變化。染料是酸性的,鹼性也會造成反應。要保存長時間墨水不變色的話,最好使用中性紙。
Q7.聽說青色的墨水較不易退色,也較能防水,為何呢?
A.以前在社內處理「丹寧酸酸鐵的墨水」,所謂暗號墨水在酸化後加上的顏色,不易退色,增加防水性。丹寧酸第一鐵是無色透明的溶液,與空氣中的酸素結合,丹寧酸第二鐵是向墨色物質作化學變化。這無色透明的溶液加上染料的顏色,成為青色的元素靛藍色(藍色)。溶液中的硫酸無顏色,只是負責將顏色付著上,使染料加在墨水中。丹寧酸鐵不加在墨水青色,其他染料也一樣,請思考一下。97.4.5
April 4, 2008
〈最美的書寫,追求理想的鋼筆〉,《趣味的文具箱》,第7號,2007年5月,頁50~。
頁50
比誰有能力更早可以發現最適合的鋼筆達人。川口先生說盡力去理解鋼筆這才是鋼筆的魅力。
川口明弘(かわくち あきひろ)1947年出生於鹿兒島,進入寫樂鋼筆公司後,以設計及開發鋼筆為職,自1990年代起成為鋼筆醫生,開始修理、調整鋼筆的服務,在日本全國巡迴工作。

「萬年筆クリニック」(鋼筆診所)(舊稱ペンクリニック),從90年代開始以寫樂鋼筆推廣鋼筆普及活動。在全國的文具店及百貨公司中,修理及調整鋼筆的服務。川口明弘先生開始鋼筆診所時,作為診療所,在全國來回飛行。川口先生在1971年以設計鋼筆,進入寫樂鋼筆公司。之後也負責書寫文具的全面企畫及開發。構思新的書寫工具,首先為了聚集人群,在文具店的前面開始接待客人。為了思考設計,而實際去觀察人們拿筆的角度,及專注其施力大小的研究。總是拿著筆壓計。經過許多年,才了解各樣式的人所最適合的鋼筆。這樣的鋼筆達人川口先生有著鋼筆的魅力存在。

比起其他的書寫工具,鋼筆的魅力是什麼?
書寫美麗的文字的工具。鋼筆使用毛細管現象的構造使墨水能流出。但是真正的鋼筆是不用加上多餘的力氣即可書寫。使用鋼筆的日本人平圴筆壓是200公克。對於這點原子筆是5-600公克。使用原子筆及鉛筆的筆壓是鋼筆的3倍,總之要使用相當的力量。持續書寫,容易疲癆,無法寫出美麗的文字。書寫日文時,結果筆在日常使用是很難的。因此,鋼筆成為不費力,最好的書寫工具。
頁51
不費力的書寫是鋼筆最低的條件嗎?
不加筆壓無法出水的鋼筆,我覺得不是我的鋼筆。鋼筆是僅僅筆的重量,不加上不合理的筆壓,在接觸紙張時,因為毛細管現象而流出墨水。
要加上額外的力量於筆尖時,是為了增加成粗線幅。過多的墨水及不起毛細管現象。進一步加入筆壓,與開起筆尖,以筆尖的左右內側,在紙上書寫文字。
原本使用很好的鋼筆是很容易,但無法流出墨水的鋼筆書寫上就愈來愈難了。

鋼筆是不費力的最好的書寫工具。

拿鋼筆到鋼筆診所中,最多的問題是什麼?
墨水的不出水問題是最多的。在診所中解決這樣的作業。書寫困難的鋼筆,是在長時間放置時,導致墨水凝結。這時要理解其問題,使內部清潔。完成後,使鋼筆可以再度書寫。自己不研磨筆尖的作業。不研磨而能使之很好書寫,是最棒的。古董筆使用上一定要使它與自己契合,以這樣的話來做調整鋼筆。

不研磨而調整鋼筆的作業方式是什麼呢?
清除在內部殘水凝固的墨水,使其清潔。筆尖不合的話,調整左右的平衡。在切割的地方以最適合的間隔距離。調整筆尖與筆心的位置及連接點等。洗淨內部,是指強力分解過分凝固的地方,不以不合理的分解,用超音波洗淨機可達到清洗的效果。多數的客人在短時間內就可以治好其鋼筆,總之以有效率的方式來思考解決的作法。
我的工作是「想要有更好書寫的鋼筆」。
也有內部清潔,但郤不易書寫的鋼筆嗎?
有這樣的鋼筆。無法出墨的原因,是要調整筆尖的不合與筆心的位置,大概兩者要能對應。新的但不清潔的鋼筆,也無法出墨,無法馬上使用。這是鋼筆無法表現其性能的狀態。
加以內部的清潔及調整筆尖,僅以筆的重量,墨水可以滑順的書寫出來。
修理的方法是如何學習的呢?
大多是自己學的。因為做設計的工作,可以理解鋼筆的內部構造。毛細管現象,全部是從前輩學習得知。因為在工廠的緣故,鋼筆的細部構造都可以進入頭腦記憶中。
頁52
有何建議持有無法出墨的鋼筆讀者嗎?
請馬上來鋼筆診所!若無法來時,簡單用水浸泡,反復做這個動作。在筆心的中心有直線的切割溝,要清潔。在側邊有空氣溝。一般在墨水溝那裡凝固。其次在空氣溝凝固。空氣溝凝固時,墨水完全無法流出來。特別是早期的墨水凝固時,因為墨水的粒子較大,在清除時有點困擾。在吸入式的情形,凝固時,不合理的吸墨會造成損壞,要注意這點。
書寫最美麗的字,對於這個人最好的鋼筆是一定存在的。
浸水的時間有基準嗎?
過分清洗是不好的,沒這回事。墨水過分凝固時,請花多點時間來溶化它。只是木頭筆身等天然材料的鋼筆,可能要注意較好。
鋼筆診所開始時,是怎樣企畫的?
現在的碓井初秋社長企畫的。進入90年代,因為設計機器的普及,「每個人都可以想要使用鋼筆」而構想出來鋼筆診所。
鋼筆診所的目標是什麼呢?
希望有可以書寫美麗字體的鋼筆,有許多客人來鋼筆診所。完全沒使用鋼筆,改用鋼筆寫字時,可以寫出美麗的字,鋼筆漸漸地被使用。這是鋼筆診所第一的目標。鋼筆的確是可以寫出好字,有魅力的文具。改變鋼筆字也改變。但是寫出美字,是最好的鋼筆存在的要件。97.4.4
最適合鋼筆的條件是什麼?
在接觸紙的角度與施力的平衡、線幅的粗細、墨水的種類都是決定鋼筆的條件。自己在最短的時間內,合乎所需的組合。
繼續修理別家公司鋼筆的話,自家的鋼筆不是賣不出去,這是有何考量?
全不考慮這點。持續修復別人家的鋼筆,使其書寫容易。因為寫樂鋼筆也進一步使其書寫容影,一定要試著去用看看,我認為僅僅如此。從不向診所的客人說「請買寫樂鋼筆」,只給「希望能更好寫的鋼筆」是我的工作。在日本全國沒有使用的鋼筆,僅是保存很多。因為不捨筆尖用貴重金屬作成。只是與擁有的人數相同量的鋼筆來思考。要讓鋼筆復活,還要努力。
對於愛用鋼筆的讀者有何希望。
偶爾用鋼筆的話,這是不對的,要將自己寫入文章,有自己的意識,用青色的墨水書寫文字,同時傳遞感情到對方,年輕的客來也會增加。確實的將情緒加入在新的書寫工具,年輕人漸漸地希望使用鋼筆。用手書寫文字留下來的東西。如筆記或書信,10年後、20年後再看的話,可感受到當時的心情。如此的話,會希望寫出美麗的文字,我認為這是每個人都要想做的事。自己接觸鋼筆的各種層面後,總之選擇自己最適合的鋼筆。
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