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April 24, 2008
頁240
用姓及名的各一個字組合成的花押有勝田主計及田邊治通。大藏官僚出身的寺內(大正五)、清浦(大正十三)內閣藏相,在田中內閣(昭和三)任文相的勝田主計(一八六九-一九四八)的花押(圖263)翻面成縱行如圖264,可明白其實線部分是「月」的偏旁草書體。殘留的虛線是何意思,可能是短的三條橫線是「月」的縱線(實線是虛線加上去的部分),表示「計」的草書體(參照264與「斗」的形狀相似)。
頁241
即此花押是「勝」的偏部加上「計」,進一步翻面成橫長的作品,有凝聚力。
出身遞信官僚被舉為平沼內閣的書記官長,轉任遞相,在第三次近衛內閣任內相田邊治通(一八七八-一九五○)的花押(圖265),上是「田」下配「通」,「通」的「」作為底線,是比較容易理解的花押。花押「田」上橫線是「」的變形,「田」與「通」中央由一筆縱線貫通(圖266),可見其功夫。
平假名及片假名的使用-241
使用平假名的花押,首先是姓(含有其一部分)以假名書寫的有曾根荒助、宇垣一成及井野碩哉。
長州藩士之子所生,明治三十年代伊藤、山縣內閣任法相、農商相,日俄戰爭時,為桂內閣的藏相,負責軍費用的調度曾根荒助(一八四九-一九一○)的花押
頁242
(圖267)一見可知其是書寫「そ」,接續「ね」。
從大正末到昭和初年任清浦、加藤(高明)、若槻、濱口四代內閣的陸相,被稱為「政界的彗星」,昭和十二年因陸軍反對組閣困難的宇垣一成(一八六八-一九五六)的花押(圖268),可以用圖269來分解,左邊是「う」右邊是「か」,加上天地二線,天的橫婚是「」部分的縱直線,加上左右的斜線(虛線的部分)讀成「木」。此花押以姓的假名書寫。
頁243
農林官僚出身,從第二次近藤內閣到東條內閣連續任為農相,戰後成為法相的井野碩哉(一八九一-一九八○)的花押(圖270),圖271是其分解,由「井」加上「の」合成,加上底線(但是「井」的第二畫橫線與「の」重疊),並且此花押的筆順如圖271。
以假名書寫名字(含其一部分)合成的,有野田卯太郎、奧田義人及八代六郎的花押。
年輕時進入自由黨,不久成為政友會最高幹部原內閣(大正七)的遞相,護憲三派內閣(大正十三)任商工相
頁244
野田卯太郎(一八五三-一九二七)的花押(圖272),圖273的實線是「う」,無誤,其他虛線部分無法解釋。在其中加入「タ」,進一步左橫斜線合成表示「田」。
以農商務省出身的官僚山本內閣(大正二)時任文相,後來被舉為法相,作東京市長有名的奧田義人(一八六○-一九一七)的花押(圖274)是「よ」與「人」的合成,「人」也讀作「し」,是其下功夫的地方,可讀成「よし人」。
山本內閣瓦解後,在第二次大隈內閣(大正三)
頁245
任海相,シーメンス事件之後為海軍大將八代六郎(一八六○-一九三○)的花押(圖275)是「ろ」加入「くら」的形如圖276,「ら」是「郎」的草書體,表示「ろく郎」。
羅馬字的花押-245
最後舉幾個羅馬字的花押,作為政黨政治家的政友會幹事長,在田中內閣(昭和二)成為遞相,在岡田內閣(昭和十一)再度為遞相「人情大臣」望月圭介(一八六七-一九四一)花押(圖277),姓以「m」加上底線。
由文部官僚歷任京城、九州帝大學校長,米內閣(昭和十五)文相松浦鎮次郎(一八七二-一九四五)的花押與望月大約同形用「m」的花押。
歷任朝日新聞副社長、放送協會會長之後,被舉為鈴木終戰內閣的海南情報局長下村宏(一八七五-一九五七)的花押(圖279)明白其是「H」與「&」即其名組合(圖280)。
最後是昭和初年活躍於英、法、美的駐在財務官「津島」中心、小磯、東久邇兩內閣的藏相津島壽(一八八-一九六七)的花押(圖280)是「J」(橫倒)與「T」(倒轉)即名字的組合(圖282)。「」的頭右端是細,右下方的點無法理解其意。
95.11.1初稿
初稿發表處-248
笠松宏至,解說-「前人未踏」的花押研究-249
用字索引-259
人名索引-266
圖像大部分,東京大學史料編纂所《花押かかみ》
平凡社《書の日本史 第九卷》〈花押総覧〉
頁249
解説―「前人未踏」の花押研究 笠松宏至
ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
頁250
書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
頁251
八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
頁252
私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
頁253
の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
頁254
ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
頁255
結んでいる。
佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
頁256
が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである
(かさまつ ひろし/日本中世史)
92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。
(笠松宏至/日本中世史)97.2.2
用姓及名的各一個字組合成的花押有勝田主計及田邊治通。大藏官僚出身的寺內(大正五)、清浦(大正十三)內閣藏相,在田中內閣(昭和三)任文相的勝田主計(一八六九-一九四八)的花押(圖263)翻面成縱行如圖264,可明白其實線部分是「月」的偏旁草書體。殘留的虛線是何意思,可能是短的三條橫線是「月」的縱線(實線是虛線加上去的部分),表示「計」的草書體(參照264與「斗」的形狀相似)。
頁241
即此花押是「勝」的偏部加上「計」,進一步翻面成橫長的作品,有凝聚力。
出身遞信官僚被舉為平沼內閣的書記官長,轉任遞相,在第三次近衛內閣任內相田邊治通(一八七八-一九五○)的花押(圖265),上是「田」下配「通」,「通」的「」作為底線,是比較容易理解的花押。花押「田」上橫線是「」的變形,「田」與「通」中央由一筆縱線貫通(圖266),可見其功夫。
平假名及片假名的使用-241
使用平假名的花押,首先是姓(含有其一部分)以假名書寫的有曾根荒助、宇垣一成及井野碩哉。
長州藩士之子所生,明治三十年代伊藤、山縣內閣任法相、農商相,日俄戰爭時,為桂內閣的藏相,負責軍費用的調度曾根荒助(一八四九-一九一○)的花押
頁242
(圖267)一見可知其是書寫「そ」,接續「ね」。
從大正末到昭和初年任清浦、加藤(高明)、若槻、濱口四代內閣的陸相,被稱為「政界的彗星」,昭和十二年因陸軍反對組閣困難的宇垣一成(一八六八-一九五六)的花押(圖268),可以用圖269來分解,左邊是「う」右邊是「か」,加上天地二線,天的橫婚是「」部分的縱直線,加上左右的斜線(虛線的部分)讀成「木」。此花押以姓的假名書寫。
頁243
農林官僚出身,從第二次近藤內閣到東條內閣連續任為農相,戰後成為法相的井野碩哉(一八九一-一九八○)的花押(圖270),圖271是其分解,由「井」加上「の」合成,加上底線(但是「井」的第二畫橫線與「の」重疊),並且此花押的筆順如圖271。
以假名書寫名字(含其一部分)合成的,有野田卯太郎、奧田義人及八代六郎的花押。
年輕時進入自由黨,不久成為政友會最高幹部原內閣(大正七)的遞相,護憲三派內閣(大正十三)任商工相
頁244
野田卯太郎(一八五三-一九二七)的花押(圖272),圖273的實線是「う」,無誤,其他虛線部分無法解釋。在其中加入「タ」,進一步左橫斜線合成表示「田」。
以農商務省出身的官僚山本內閣(大正二)時任文相,後來被舉為法相,作東京市長有名的奧田義人(一八六○-一九一七)的花押(圖274)是「よ」與「人」的合成,「人」也讀作「し」,是其下功夫的地方,可讀成「よし人」。
山本內閣瓦解後,在第二次大隈內閣(大正三)
頁245
任海相,シーメンス事件之後為海軍大將八代六郎(一八六○-一九三○)的花押(圖275)是「ろ」加入「くら」的形如圖276,「ら」是「郎」的草書體,表示「ろく郎」。
羅馬字的花押-245
最後舉幾個羅馬字的花押,作為政黨政治家的政友會幹事長,在田中內閣(昭和二)成為遞相,在岡田內閣(昭和十一)再度為遞相「人情大臣」望月圭介(一八六七-一九四一)花押(圖277),姓以「m」加上底線。
由文部官僚歷任京城、九州帝大學校長,米內閣(昭和十五)文相松浦鎮次郎(一八七二-一九四五)的花押與望月大約同形用「m」的花押。
歷任朝日新聞副社長、放送協會會長之後,被舉為鈴木終戰內閣的海南情報局長下村宏(一八七五-一九五七)的花押(圖279)明白其是「H」與「&」即其名組合(圖280)。
最後是昭和初年活躍於英、法、美的駐在財務官「津島」中心、小磯、東久邇兩內閣的藏相津島壽(一八八-一九六七)的花押(圖280)是「J」(橫倒)與「T」(倒轉)即名字的組合(圖282)。「」的頭右端是細,右下方的點無法理解其意。
95.11.1初稿
初稿發表處-248
笠松宏至,解說-「前人未踏」的花押研究-249
用字索引-259
人名索引-266
圖像大部分,東京大學史料編纂所《花押かかみ》
平凡社《書の日本史 第九卷》〈花押総覧〉
頁249
解説―「前人未踏」の花押研究 笠松宏至
ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
頁250
書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
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八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
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私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
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の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
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ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
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結んでいる。
佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
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が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである
(かさまつ ひろし/日本中世史)
92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。
(笠松宏至/日本中世史)97.2.2
April 8, 2008
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―一九二四)の花押(図200)は「彦」の草体(図201A)そのまま。大蔵官僚から加藤(友)内閣(大正十一)の蔵相にあげられ、ついで日銀総裁となった市来乙彦(一八七二―一九五四)の花押(図202)は「彦」の草体の終筆を底線としたもの。また、内閣官僚から政界に入って戦中の衆議院議長、敗戦時の厚相をつとめた岡田忠彦(一八七八―一九五八)の花押(図203)は、やはり「彦」の草体(図201B)を元にしつつ、終わりの「」を「」の形にしたところに工夫が見られる。平沼閥の検事として頭角を現し、昭和十二―十四年の間、林・近衛・平沼三代の内閣で法相に任じた塩野季彦(一八八〇―一九四九)の花押(図204)
是「彥」的草書體(圖201A)的樣式。從大藏官僚,被推舉為加藤(友)內閣(大正十一)的大藏大臣,成為日銀總裁的市來乙彥(一八七二-一九五四)的
的花押(圖202)是「彥」的草書體加上底線。從內閣官僚進入政界,在戰時為眾議院議長,戰敗時的厚相岡田忠彥(一八七八-一九五八)的花押(圖203),果然是「彥」的草書體(圖201B),最後的「」是成為「」,可見其功夫。平沼閥的檢事時表現其能力,在昭和十二-十四年間,歷任林、近衛、平沼三代內閣的法相鹽野季彥(一八八○-一九四九)的花押(圖204)
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は、起筆を著しく省画しつつ(図201C参照)、「」を岡田の場合と同じ形に変えている。
〔雄〕 この字を用いたものに尾崎行雄・桜内幸雄の花押がある。“憲政の神様”尾崎幸雄(一八五九―一九五四)の花押(図205)は「雄」草体(図206)そのもの。また、財界から政界に転じて民政党に属し、商工(第二次若槻内閣)・農林(平沼内閣)・大蔵(米内内閣)等大臣に歴任した桜内幸雄(一八八〇―一九四七)の花押(図207)は、左の木偏のように見える部分(図208の点線より左)が「幸」の草体で、右の部分が「雄」(図206A)だから、これは名の二字の合成である。
起筆省略其畫(參照圖201C),「」與岡田同形。
〔雄〕字使用的有尾崎行雄、櫻內幸雄的花押。被稱為「憲政之神」的尾崎行雄(一八五九-一九五四)的花押(圖205)是「雄」的草書體(圖206)。從財政轉入政治界,屬於民政黨,任商工(第二次若槻內閣)、農林(平沼內閣)、大藏(米內內閣)等大臣的櫻內幸雄花押(圖207),左邊是木的偏旁(圖208虛線的左邊)是「幸」的草書體,右邊是「雄」(圖206A),由名字的二個字合成。
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〔千〕 この字を用いたものに渡辺千冬・江木千之・千石興太郎の花押がある。昭和四―六年(浜口・第二次若槻内閣法相)をつとめた渡辺千冬(一八七六―一九四〇)の花押(図209)は、裏返して縦長にしてみると「千」の字が見えてくる(図210の実線部分)。そして、他の部分(同上点線部分)を横にすれば「辺」の形象化が見られる。つまり、この花押は「辺」の中に「千」を入れたもののようである。次に、内務官僚からあげられて清浦内閣の文相となった江木千之(一八五三―一九三二)の花押(図211)は「工」の右に「千」を配し、左の縦曲線で「」(サンズイ)を表わ
〔千〕用此字花押的有渡邊千冬、江木千之、千石興太郎。昭和四-六年(濱口、第二次若槻內閣)的法相渡邊千冬(一八七六-一九四○)的花押(圖209),「千」是翻面且縱長(圖210實線的部分),其他的部分(虛線的部分)橫的是「邊」的形象化。總之,這個花押是以「邊」加上「千」置入其中。從內務官僚被舉的清浦內閣文相的江木千之(一八五三-一九三二)的花押(圖211)是「工」的右邊加上「千」,左邊的縱曲線表示「」(三點水)
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したもの、つまり「江」と「千」の合成(図212)である。また、産業組合運動を興して大政翼賛会総務となり、敗戦直後の農相をつとめた千石興太郎(一八七四―一九五〇)の花押(図213)は「千」と「石」の合成である(図214)。
同じ文字を用いた複数の花押における類型性や異同の観察は以上にとどめて、以下には、之・不・民・丙・孝・苗・宙・岑・孫・寧・礼などの文字を用いた花押を一つずつあげてみよう。
東条内閣の情報局総裁、ついで外相、敗戦時の南京駐在大使の谷正之(一八八九―一九六
總之,是「江」與「千」的合成(圖212)。振興產業組合運動,成為大政翼會總務,戰敗之後任職農相的千石興太郎(一八七四-一九五○)的花押(圖213)是「千」與「石」合成(圖214)。
僅止在用同樣文字在複數花押類型性及異同的觀察,之、不、民、丙、孝、苗、宙、岑、孫、寧、禮等文字的花押,一字舉一個。
東條內閣的情報局長,及歷任外相、在戰敗時駐南京大使谷正之
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二)の花押(図215)は「之」の篆書(図216)を元にしたもの。
尾張藩出身の文部官僚、明治十三年司法卿
(一八八九-一九六二)的花押(圖215)原字是「之」的篆書(圖216)。
尾張藩出身的文部官僚,明治十三年任司法卿,在明治二十四年成為法相(第一次松方內閣)田中不二麿(一八四五-一九○九)花押(圖217)以「否」加上底線及點,或可能是點與底線振示「二」。
出身佐賀藩的大久保利通原參議昇為司法卿,在明治二十年代歷任樞密院議長、法相、文相等的大木喬任(一八三二-九九)的花押是翻面圖219,「民」的形象化,大木是選「民」字
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因其俗名為「民平」。
明治陸軍創設期的軍人,第一次(明治二十四)、第二次(明治二十九)松方內閣陸相高島鞆之助(一八四四-一九一六)號為「革丙」(「鞆」的分解),其花押(圖220)是「丙」形象化加底線。
從自由民權家成為自由黨、政友會的幹部,明治四十一年眾議院議長、同四十四年成為文相(第二次西園寺)長谷場純孝(一八五四-一九一四)的花押(圖221)是用「孝」,「子」的部分有些變形。平安中期人物藤原孝理
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的「孝」兩者比對,形象化有大大的不同。
參與東京專門學校(之後的早稻田大學)的創設、第二次大隈內閣的文相及早稻田大學總長的高田早苗(一八六○-一九三八)的花押(圖222)用「苗」字,運筆可見其功夫。
山口縣出身的律師,戰敗後成為東久邇、幣原兩內閣的法相岩田宙造(一八七五-一九六六)的花押(圖224)由「宙」的ウ冠與「由」的第一畫重疊,由的最後一畫是底線,岩石宙造的「由」中心線不突出,成為「田」形,含有姓「田」的意思。
昭和六-十一年間任犬養、齋藤、岡田三代內閣的海相海軍大將大角岑生(一八七六-一九四一)的花押(圖225)其原字是「岑」,最後二筆畫成為點,加上底線,另一是底線是最後筆畫成為「生」。
從內務官僚進入政治圈,任職民政黨濱口內閣商工相的俵孫一(一八六九-一九四四)的花押(圖226)是羅馬字,為「孫」的草體(圖227)
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加底線表示「一」,是「孫一」的形象化。
久留米藩主的嫡男,貴族院的革新派,第一次近衛內閣的農相、大政翼賛會事務總長、作定有馬賴義之父有馬賴寧(一八八四-一九五七)的花押(圖228)分解圖是圖229,除去「寧」的最後二筆(丁),大約是忠實的形象化。
從大藏官僚進入政界的憲政會、民政黨領袖,組閣二次,是戰時的重要人物若槻禮次郎(一八六六-一九四九)的花押(圖230)是「禮」的草體(圖231),「示」的偏旁較小,旁邊較大,特別是最後的筆畫為大的底線,筆畫順序有些功夫(圖232)。若槻也用「禮」草書體作為花押(圖233)。
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三 大臣的花押(三)-230
下面是二字合成、用平假名及羅馬字。
二字合成的花押-230
首先是二字合成,用名字的二個字,山縣有朋系官僚重要人物,從第一次桂內閣(明治三十四)到第二次大隈內閣(大正四),歷任遞信、農商務(二任)、內務(二任)大臣大浦兼武(一八五○-一九一八)的花押(圖234)。「兼」的右下加上小的「武」草書體(平假名「む」)(圖235)(虛線右是「む」)
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「武」的草書體,第一次見到會以為是「」的變形(以圖236分解就容易了)。全體向左傾斜是其功夫的地方。這個時代的花押以手一筆書寫再修飾珍貴且筆畫多的花押,顯示其榮耀。
開設帝國議會以來的代議士,立憲同志會、憲政會的重鎮、第二次大隈內閣的遞相箕浦勝人(一八五四-一九二九)的花押(圖237)也是其名的二個字,「勝」的最後筆畫是「人」的第一畫與之重疊,有少許變形程度的形象化。
頁232
鹿兒島藩士之子,由內務官僚立身任第一次山本內閣(大正二)書記官長,第二次山本內閣(大正十二)鐵道相山之內一次(一八六六-一九三二)花押(圖239)有著天地二線的明朝體,天線是取名的「一」,左橫的二點是「次」的「」(二水),底線是「次」的最後筆畫移過去(圖240的虛線)。
憲政會、民政黨最高幹部濱口、第二次若槻民政黨內閣遞相,純粹是政黨政治家小泉又次泉(一八六五-一九五一)的花押(圖241),與山之內的作法有點類似。小泉的「又」第二畫的部分是「次」的旁部「欠」
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最後筆畫是山之內一樣同底線(圖242)。「次」的「」(二水)省略。
犬養、齋藤內閣的陸相成為皇道派首領「呼風的哲將」,在二二六事件聲望低落,會說話的陸軍大臣男爵荒木貞夫(一八七七-一九六六)的花押(圖243)分解成圖244,上部是「貞」,下部是「夫」,最後筆畫移動成底線,總之是「貞夫」的形象化。
作為東條的左右手,從第二次近衛內閣到東條內閣(昭和十六-十八)成為企畫院總裁,擔任戰時統制經濟的責任者,陸軍中將鈴木貞一(一八八八-一九八九)的花押(圖245),
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是天的橫線是名字的「一」,下部分是翻面再立起,「貞」的最後二筆畫省略。右邊的點與虛線D表示「貞」的最後二筆畫。虛線ABC的部分,是為了全體形態的假線。
軍人中,被期待才幹,作為皇道派有力者,在二二六事件中退役,日中戰爭開發時,在上海被起用稱為「覆面將軍」陸軍中將柳川平助(一八七九-一九四五)的花押(圖247)分解為圖248,上部是「平」,下部是「力」(「助」的偏旁)。「平」在花押化之時,縱線不突出下部,是通例。因此,「平」與「王」的外形相近。國派的政黨田中政友會內閣鐵道相小川平吉(一八六九-一九四二)是「平」的花押(圖249)為其例。僅止於突出的程度。柳川的花押筆順可能如圖248。
作為個好的東京市長,廣田內閣拓務相、阿部內閣的鐵道相,俳號青嵐永田秀次郎(一八七六-一九四三)的花押(圖250)容易理解,圖解成圖251。實線的部分是「秀」的草書體,虛線部分是「二」的形象化,總之這個花押
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是「秀」與「二」合成。
從大藏官僚任平沼、東條、小磯三代內閣的藏相,戰敗之後被舉為宮內相石渡莊太郎(一八九一-一九五○)的花押(圖252),分解如圖253,上部是「莊」,下部是「太」各別的形象化。
姓氏文字的合成花押,所謂維新三傑之一,出身於薩摩,薩摩最沒人氣的政治家大久保利通(一八三○-一八七八)的花押(圖254),並無法解讀十分,試著去敘述,此花押分解如圖255
頁237
右邊的實線可明白是「久」,左邊的實線與右邊的實線「久」的第三畫(右下長長的外張)合成「大」字。即此花押是「大」與「久」,可是含有的底線(虛線的部分)有何意義無法理解。中間部分是與「千」相似的形體,採用「利」的偏旁「禾」,無法成案,僅可解讀其花押含「大」與「久」字。此花押是大久保於明治七年時所用,不久變成圖256,「久」的判讀變的困難。
以外務官僚立身,第二次伊藤內閣(明治二十七)的內相、第二次松方內閣(明治二十九年)的遞相野村靖(一八四二-一九○九)的花押(圖257),分解圖(圖258)虛線上部分是「林」為「埜」(野)的一部分,虛線下部分是「村」的旁邊,表示「寸」,即此為花押為「林」加上「寸」。
第二次、第三次近衛內閣(昭和十五、十六)任海相,決定是否對美開戰,在大臣室中僅讀漢籍的海軍大將及川古志郎(一八八三-一九五八)
頁239
的花押(圖259),分解成圖260,實線部分表示「及」,「及」的第一裡的左斜線與中央部分的二條縱線表示「川」,加上底線。殘留的部分(虛線所示四個地方)無法理解。
二二六事件後從廣田內閣財界被起用於文相,特別的人事平生釟三郎(一八六○-一九四六)的花押(圖261),是「平」之下加上「生」(圖262)是平凡的花押,「平」的二點成為長的橫線,相反的下面的橫線變短是「平」字的變化,全體以一個字可見其功夫。
―一九二四)の花押(図200)は「彦」の草体(図201A)そのまま。大蔵官僚から加藤(友)内閣(大正十一)の蔵相にあげられ、ついで日銀総裁となった市来乙彦(一八七二―一九五四)の花押(図202)は「彦」の草体の終筆を底線としたもの。また、内閣官僚から政界に入って戦中の衆議院議長、敗戦時の厚相をつとめた岡田忠彦(一八七八―一九五八)の花押(図203)は、やはり「彦」の草体(図201B)を元にしつつ、終わりの「」を「」の形にしたところに工夫が見られる。平沼閥の検事として頭角を現し、昭和十二―十四年の間、林・近衛・平沼三代の内閣で法相に任じた塩野季彦(一八八〇―一九四九)の花押(図204)
是「彥」的草書體(圖201A)的樣式。從大藏官僚,被推舉為加藤(友)內閣(大正十一)的大藏大臣,成為日銀總裁的市來乙彥(一八七二-一九五四)的
的花押(圖202)是「彥」的草書體加上底線。從內閣官僚進入政界,在戰時為眾議院議長,戰敗時的厚相岡田忠彥(一八七八-一九五八)的花押(圖203),果然是「彥」的草書體(圖201B),最後的「」是成為「」,可見其功夫。平沼閥的檢事時表現其能力,在昭和十二-十四年間,歷任林、近衛、平沼三代內閣的法相鹽野季彥(一八八○-一九四九)的花押(圖204)
頁222
は、起筆を著しく省画しつつ(図201C参照)、「」を岡田の場合と同じ形に変えている。
〔雄〕 この字を用いたものに尾崎行雄・桜内幸雄の花押がある。“憲政の神様”尾崎幸雄(一八五九―一九五四)の花押(図205)は「雄」草体(図206)そのもの。また、財界から政界に転じて民政党に属し、商工(第二次若槻内閣)・農林(平沼内閣)・大蔵(米内内閣)等大臣に歴任した桜内幸雄(一八八〇―一九四七)の花押(図207)は、左の木偏のように見える部分(図208の点線より左)が「幸」の草体で、右の部分が「雄」(図206A)だから、これは名の二字の合成である。
起筆省略其畫(參照圖201C),「」與岡田同形。
〔雄〕字使用的有尾崎行雄、櫻內幸雄的花押。被稱為「憲政之神」的尾崎行雄(一八五九-一九五四)的花押(圖205)是「雄」的草書體(圖206)。從財政轉入政治界,屬於民政黨,任商工(第二次若槻內閣)、農林(平沼內閣)、大藏(米內內閣)等大臣的櫻內幸雄花押(圖207),左邊是木的偏旁(圖208虛線的左邊)是「幸」的草書體,右邊是「雄」(圖206A),由名字的二個字合成。
頁223
〔千〕 この字を用いたものに渡辺千冬・江木千之・千石興太郎の花押がある。昭和四―六年(浜口・第二次若槻内閣法相)をつとめた渡辺千冬(一八七六―一九四〇)の花押(図209)は、裏返して縦長にしてみると「千」の字が見えてくる(図210の実線部分)。そして、他の部分(同上点線部分)を横にすれば「辺」の形象化が見られる。つまり、この花押は「辺」の中に「千」を入れたもののようである。次に、内務官僚からあげられて清浦内閣の文相となった江木千之(一八五三―一九三二)の花押(図211)は「工」の右に「千」を配し、左の縦曲線で「」(サンズイ)を表わ
〔千〕用此字花押的有渡邊千冬、江木千之、千石興太郎。昭和四-六年(濱口、第二次若槻內閣)的法相渡邊千冬(一八七六-一九四○)的花押(圖209),「千」是翻面且縱長(圖210實線的部分),其他的部分(虛線的部分)橫的是「邊」的形象化。總之,這個花押是以「邊」加上「千」置入其中。從內務官僚被舉的清浦內閣文相的江木千之(一八五三-一九三二)的花押(圖211)是「工」的右邊加上「千」,左邊的縱曲線表示「」(三點水)
頁224
したもの、つまり「江」と「千」の合成(図212)である。また、産業組合運動を興して大政翼賛会総務となり、敗戦直後の農相をつとめた千石興太郎(一八七四―一九五〇)の花押(図213)は「千」と「石」の合成である(図214)。
同じ文字を用いた複数の花押における類型性や異同の観察は以上にとどめて、以下には、之・不・民・丙・孝・苗・宙・岑・孫・寧・礼などの文字を用いた花押を一つずつあげてみよう。
東条内閣の情報局総裁、ついで外相、敗戦時の南京駐在大使の谷正之(一八八九―一九六
總之,是「江」與「千」的合成(圖212)。振興產業組合運動,成為大政翼會總務,戰敗之後任職農相的千石興太郎(一八七四-一九五○)的花押(圖213)是「千」與「石」合成(圖214)。
僅止在用同樣文字在複數花押類型性及異同的觀察,之、不、民、丙、孝、苗、宙、岑、孫、寧、禮等文字的花押,一字舉一個。
東條內閣的情報局長,及歷任外相、在戰敗時駐南京大使谷正之
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二)の花押(図215)は「之」の篆書(図216)を元にしたもの。
尾張藩出身の文部官僚、明治十三年司法卿
(一八八九-一九六二)的花押(圖215)原字是「之」的篆書(圖216)。
尾張藩出身的文部官僚,明治十三年任司法卿,在明治二十四年成為法相(第一次松方內閣)田中不二麿(一八四五-一九○九)花押(圖217)以「否」加上底線及點,或可能是點與底線振示「二」。
出身佐賀藩的大久保利通原參議昇為司法卿,在明治二十年代歷任樞密院議長、法相、文相等的大木喬任(一八三二-九九)的花押是翻面圖219,「民」的形象化,大木是選「民」字
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因其俗名為「民平」。
明治陸軍創設期的軍人,第一次(明治二十四)、第二次(明治二十九)松方內閣陸相高島鞆之助(一八四四-一九一六)號為「革丙」(「鞆」的分解),其花押(圖220)是「丙」形象化加底線。
從自由民權家成為自由黨、政友會的幹部,明治四十一年眾議院議長、同四十四年成為文相(第二次西園寺)長谷場純孝(一八五四-一九一四)的花押(圖221)是用「孝」,「子」的部分有些變形。平安中期人物藤原孝理
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的「孝」兩者比對,形象化有大大的不同。
參與東京專門學校(之後的早稻田大學)的創設、第二次大隈內閣的文相及早稻田大學總長的高田早苗(一八六○-一九三八)的花押(圖222)用「苗」字,運筆可見其功夫。
山口縣出身的律師,戰敗後成為東久邇、幣原兩內閣的法相岩田宙造(一八七五-一九六六)的花押(圖224)由「宙」的ウ冠與「由」的第一畫重疊,由的最後一畫是底線,岩石宙造的「由」中心線不突出,成為「田」形,含有姓「田」的意思。
昭和六-十一年間任犬養、齋藤、岡田三代內閣的海相海軍大將大角岑生(一八七六-一九四一)的花押(圖225)其原字是「岑」,最後二筆畫成為點,加上底線,另一是底線是最後筆畫成為「生」。
從內務官僚進入政治圈,任職民政黨濱口內閣商工相的俵孫一(一八六九-一九四四)的花押(圖226)是羅馬字,為「孫」的草體(圖227)
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加底線表示「一」,是「孫一」的形象化。
久留米藩主的嫡男,貴族院的革新派,第一次近衛內閣的農相、大政翼賛會事務總長、作定有馬賴義之父有馬賴寧(一八八四-一九五七)的花押(圖228)分解圖是圖229,除去「寧」的最後二筆(丁),大約是忠實的形象化。
從大藏官僚進入政界的憲政會、民政黨領袖,組閣二次,是戰時的重要人物若槻禮次郎(一八六六-一九四九)的花押(圖230)是「禮」的草體(圖231),「示」的偏旁較小,旁邊較大,特別是最後的筆畫為大的底線,筆畫順序有些功夫(圖232)。若槻也用「禮」草書體作為花押(圖233)。
頁230
三 大臣的花押(三)-230
下面是二字合成、用平假名及羅馬字。
二字合成的花押-230
首先是二字合成,用名字的二個字,山縣有朋系官僚重要人物,從第一次桂內閣(明治三十四)到第二次大隈內閣(大正四),歷任遞信、農商務(二任)、內務(二任)大臣大浦兼武(一八五○-一九一八)的花押(圖234)。「兼」的右下加上小的「武」草書體(平假名「む」)(圖235)(虛線右是「む」)
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「武」的草書體,第一次見到會以為是「」的變形(以圖236分解就容易了)。全體向左傾斜是其功夫的地方。這個時代的花押以手一筆書寫再修飾珍貴且筆畫多的花押,顯示其榮耀。
開設帝國議會以來的代議士,立憲同志會、憲政會的重鎮、第二次大隈內閣的遞相箕浦勝人(一八五四-一九二九)的花押(圖237)也是其名的二個字,「勝」的最後筆畫是「人」的第一畫與之重疊,有少許變形程度的形象化。
頁232
鹿兒島藩士之子,由內務官僚立身任第一次山本內閣(大正二)書記官長,第二次山本內閣(大正十二)鐵道相山之內一次(一八六六-一九三二)花押(圖239)有著天地二線的明朝體,天線是取名的「一」,左橫的二點是「次」的「」(二水),底線是「次」的最後筆畫移過去(圖240的虛線)。
憲政會、民政黨最高幹部濱口、第二次若槻民政黨內閣遞相,純粹是政黨政治家小泉又次泉(一八六五-一九五一)的花押(圖241),與山之內的作法有點類似。小泉的「又」第二畫的部分是「次」的旁部「欠」
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最後筆畫是山之內一樣同底線(圖242)。「次」的「」(二水)省略。
犬養、齋藤內閣的陸相成為皇道派首領「呼風的哲將」,在二二六事件聲望低落,會說話的陸軍大臣男爵荒木貞夫(一八七七-一九六六)的花押(圖243)分解成圖244,上部是「貞」,下部是「夫」,最後筆畫移動成底線,總之是「貞夫」的形象化。
作為東條的左右手,從第二次近衛內閣到東條內閣(昭和十六-十八)成為企畫院總裁,擔任戰時統制經濟的責任者,陸軍中將鈴木貞一(一八八八-一九八九)的花押(圖245),
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是天的橫線是名字的「一」,下部分是翻面再立起,「貞」的最後二筆畫省略。右邊的點與虛線D表示「貞」的最後二筆畫。虛線ABC的部分,是為了全體形態的假線。
軍人中,被期待才幹,作為皇道派有力者,在二二六事件中退役,日中戰爭開發時,在上海被起用稱為「覆面將軍」陸軍中將柳川平助(一八七九-一九四五)的花押(圖247)分解為圖248,上部是「平」,下部是「力」(「助」的偏旁)。「平」在花押化之時,縱線不突出下部,是通例。因此,「平」與「王」的外形相近。國派的政黨田中政友會內閣鐵道相小川平吉(一八六九-一九四二)是「平」的花押(圖249)為其例。僅止於突出的程度。柳川的花押筆順可能如圖248。
作為個好的東京市長,廣田內閣拓務相、阿部內閣的鐵道相,俳號青嵐永田秀次郎(一八七六-一九四三)的花押(圖250)容易理解,圖解成圖251。實線的部分是「秀」的草書體,虛線部分是「二」的形象化,總之這個花押
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是「秀」與「二」合成。
從大藏官僚任平沼、東條、小磯三代內閣的藏相,戰敗之後被舉為宮內相石渡莊太郎(一八九一-一九五○)的花押(圖252),分解如圖253,上部是「莊」,下部是「太」各別的形象化。
姓氏文字的合成花押,所謂維新三傑之一,出身於薩摩,薩摩最沒人氣的政治家大久保利通(一八三○-一八七八)的花押(圖254),並無法解讀十分,試著去敘述,此花押分解如圖255
頁237
右邊的實線可明白是「久」,左邊的實線與右邊的實線「久」的第三畫(右下長長的外張)合成「大」字。即此花押是「大」與「久」,可是含有的底線(虛線的部分)有何意義無法理解。中間部分是與「千」相似的形體,採用「利」的偏旁「禾」,無法成案,僅可解讀其花押含「大」與「久」字。此花押是大久保於明治七年時所用,不久變成圖256,「久」的判讀變的困難。
以外務官僚立身,第二次伊藤內閣(明治二十七)的內相、第二次松方內閣(明治二十九年)的遞相野村靖(一八四二-一九○九)的花押(圖257),分解圖(圖258)虛線上部分是「林」為「埜」(野)的一部分,虛線下部分是「村」的旁邊,表示「寸」,即此為花押為「林」加上「寸」。
第二次、第三次近衛內閣(昭和十五、十六)任海相,決定是否對美開戰,在大臣室中僅讀漢籍的海軍大將及川古志郎(一八八三-一九五八)
頁239
的花押(圖259),分解成圖260,實線部分表示「及」,「及」的第一裡的左斜線與中央部分的二條縱線表示「川」,加上底線。殘留的部分(虛線所示四個地方)無法理解。
二二六事件後從廣田內閣財界被起用於文相,特別的人事平生釟三郎(一八六○-一九四六)的花押(圖261),是「平」之下加上「生」(圖262)是平凡的花押,「平」的二點成為長的橫線,相反的下面的橫線變短是「平」字的變化,全體以一個字可見其功夫。
March 2, 2008
頁201
に転じ、政友会総裁、総理大臣となった田中義一の花押(図110)は「義」の略体(図111)を形象化して天地二線を加えたもののようである。
海軍では、大正年間数次の内閣に海軍大臣に任じ、大正十一年総理大臣となった加藤友三郎の花押(図112)は実線部分が「友」を表わし、点線部分が「郎」を表し、これに底線を加えている(図113)。また日露戦争に偉功をたて、大正年間大将に進み、海軍大臣となった村上格一の花押(図114)は「各」の草体(図115)を形象化して底線を加えたものであろう。
降って、大正十年陸軍大臣、陸軍大将つい
,成為政友會總裁及總理大臣的田中義一的花押(圖110)是「義」的略體(圖111)的形象化,加上天地二線。
在海軍中,於大正年間數次任職海軍大臣,在大正十一年成為總理大臣的加藤友三郎花押(圖112)實線表示「友」,虛線表示「郎」,加上底線(圖113)。日俄戰爭中建立功績,大正年間進昇大將,成為海軍大臣的村上格一花押(圖114)是「各」的草書體(圖115)形象化,加上底線。
大正十年陸軍大臣,在陸軍大將時
頁203
で朝鮮総督となった山梨半造の花押(図116)は「利」(実線部分)に天地二線(点線部分)と右上に点を加えたもの(図117)。「越境将軍」「喰い逃げ内角」など芳しからぬ声価を残した陸軍大将、総理大臣の林銑十郎の花押(図118)は「林」の草体(図119)を形象化して底線を加えたもの。阿部内閣の陸軍大臣、敗戦時の元帥、第二総軍司令官畑俊六の花押(図121)は「俊」の草体(図122)を形象化しつつ、「しゆん」を含ませたものに天地二線を加えて一工夫している(図124)。朝鮮総督から東条退陣のあとを受けて首相となった小磯国昭の花押(図125)は「国」の「玉」を上に出し、「口」(くにがまえ)を少し変形させ、
成為朝鮮總督的山梨半造花押(圖116)是「利」(實線部分),及天地二線(虛線部分),加上右上的點(圖117)。留下不好名聲「不負責的內閣」「越境將軍」的陸軍大將、總理大臣林銑十郎的花押(圖118)是「林」的草書體(圖119)形象化,加上底線。阿部內閣時的陸軍大臣、敗戰時的元帥、笫二總軍司令官畑俊六花押(圖121)是「俊」的草書體(圖122)的形象化,含「しゆん」,再加上天地線(圖124)。從朝鮮總督到東條退陣後,成為首相的小磯國昭花押(圖125),是「國」的「玉」在上方突出,「口」較少變形,
頁204
「日」(点線部分)をその中に入れた、なかなか凝ったもの(図126)。また関東軍参謀長を経て近衛内閣の陸軍大臣となり、極東裁判で死刑となった板垣征四郎の花押(図127)は「勇」の古体(図128)を形象化したもののようである。
海軍大将、海軍大臣、そして二・二六事件で危うく死を免れた首相岡田啓介の花押(図129)は「啓」の古体(図130)にもとづき「石」を形象化し底線を加えたもの。もう一人、望みなき日米交渉を託された海軍中将、駐米大使野村吉三郎の花押(図131)は「吉」の終画を底線とした平凡なもの。
「日」(虛線部分)置入中間,有其凝聚力(圖126)。歷經關東軍參謀長的近衛內閣陸軍大臣,在極東裁判時被處死刑的板垣征四郎花押(圖127),是「勇」的古體(圖128)形象化。
海軍大將、海軍大臣在二二六事件免於死亡的首相岡田啟介花押(圖129)是「啟」的古體(圖130)為基礎,將「石」形象化加上底線。被寄託日美交涉的海軍中將駐美大使野村吉三郎的花押(圖131)是「吉」的最後筆畫為底線,十分平凡。
頁205
戦後の大臣たち
戰後大臣的花押-205
まず吉田茂の花押(図132)は「茂」を多少形象化した程度の簡単なもの。なお吉田はこれに底線をくわえたもの(図133)も用いている。戦前、京大事件の時の文部大臣で、戦後紆余曲折を経てようやく総理大臣となったけ鳩山一郎の花押(図134)は「一郎」(「郎」は「ら」となる)に底線をを加えたもの(図135、同じ「一郎」を形象化した一九〇頁、本野一郎のものと比較されたい)。戦前、朝日新聞主筆、副社長、小磯内閣の情報局総裁、戦後は保守合同に挺身して自由民主党を結成した直後急死した緒方
首先是吉田茂的花押(圖132),多少有「茂」的形象化,程度上簡單。吉田,也加上底線(圖133)。戰前,京大事件時的文部大臣,歷經戰後的曲折,成為總理大臣鳩山一郎花押(圖134),為「一郎」(「郎」是「ら」)加上底線(圖135,頁一九○同樣「一郎」的本野一郎比較)。戰前朝日新聞主筆、副社長、小磯內閣的情報局總裁,戰後挺身保守合同,結成自由民主黨之後,急死的緒方
頁206
竹虎の花押(図136)は難解だが、「方」に、普通底線を加えるところを斜線を加えたのではなかろうか(図137)。そして「方」の中に「オ」を含めたとも見られる。幣原内閣の農相として農地改革に取り組み、改進党・民主党の中心となり日中交流に尽くした松村謙三の花押(図138)は「謙」の草体を用いて、終画を長くして底線としたもの(一八七頁、安達謙蔵の花押と対比されたい)。岸信介の花押(図139)は「介」を用いて天地二線を加えたものだが、左の縦線と終末の点は「信」の人偏を表すのであろうか。戦前は自由民主党首脳の一人として活躍した松野鶴平の花押(図140)は
竹虎的花押(圖136)很難解,「方」加上普通的底線(圖137),在「方」中含「才」字。幣原內閣的農相處理農地改革,成為改進常、民主黨的中心,盡力於日中交流的松村謙三的花押(圖138)是用「謙」的草書體,最後再畫長底線(請比對頁一八七安達謙藏的花押)。岸信介的花押(圖139)用「介」字再加上天地二線,左方的縱線與最後的點表示「信」的人字偏旁。戰後任米內內閣鐵道相,戰後活躍於自由民主黨首腦的松野鶴平花押(圖140)
頁207
「つる」に底線で、品川弥二郎の花押を思い出させる。戦前、東洋経済新報に拠って自由主義の論陣を張り、戦後は自民党総裁選で二・三位連合で岸を破って首相となったもの、病を得て六十日で退陣した石橋湛山の花押(図141)は、「湛」の草体(図142)に底線を加えたもの(「湛」の終わりの部分に運筆の工夫が加えられている)。
月給倍増論で民心をつかんだ池田勇人の花押(図143)は「勇」の草体(図145)を形象化したもので、運筆は模写(図144)の点線で示したような順序になっている。戦後大臣の花押中秀逸の作へはなかろうか。内閣持続最長不倒を誇った佐藤栄作の花押(図146)は
「つる」加底線,由品川彌二郎的花押思考出來。戰前,據東洋經濟新報主張自由主義,戰後在自民黨總裁選舉的破解二、三位連合,成為首相,因病六十日而退位的石橋湛山的花押(圖141)是以「湛」字為草書體(圖142)加上底線(「湛」的最後部分有運筆的工夫)。
以月給倍增論收民心的池田勇人的花押(圖143)是「勇」的草書體(圖145)的形象化,模寫其運筆以(圖144)的虛線表示其順序。戰後大臣的花押中秀逸之作,以內閣持續最長的佐藤榮作花押(圖146)
頁208
「左」と「藤」の草体(図147)を重ねて底線を加えたもの。代議士連続五十年を超えた「議会の子」三木武夫の花押(図148)は、「m」に底線を加えたものであることが、初期の花押(図149、模写)でよく分かる。三木退陣のあと、念願の首相の座についた福田赳夫の花押(図150)は「田」(「福」の一部でもある)に底線を加えたように見えるが、初期のもの(図151、模写)を見えると、「フクタ」の三字(クとタを重ねる)に底線を加えたもののようである。
是「左」與「藤」的草書體(圖147)重疊加底線。超過五十年代議士「議會之子」三木武夫的花押(圖148)是「m」加底線,初期的花押(圖149模寫)可知。三木武夫退陣後,有希望成為首相的福田赳夫的花押(圖150)的「田」(「福」的一部分)加底線。初期花押(圖151模寫),是三個字「フクタ」(ク和タ重疊)加底線。
頁209
二 大臣の花押(続)
二 大臣的花押(續)-209
一八八五年(明治十八)内閣制度発足以降の大臣の花押を材料として、近代の花押をなお詳しく観察してみたい。まず、一字の花押を中心にして、同じ字を用いた複数の花押を比較検討する。
一字の花押
〔毅・敏〕まず「毅」の花押を取り上げてみる。先に紹介した犬養毅の花押(図152)は「毅」の草体(図153)を元にしたものだが(一八四頁参照)、長州陸軍の巨頭・元帥・陸軍大将として大正五年首相となった寺内正毅(一八五二―一九一九)の花押(図154)は、
一八八五年(明治十八)內閣制度開始以來,用大臣的花押作為材料,詳細觀察近代的花押。首先,以一字花押為中心,用同樣的字來比較不同的花押。
一字花押-209
〔毅、敏〕首先是「毅」字花押,先前介紹犬養毅的花押(圖152)的「毅」草書體(圖153)(參照頁一八四),以長州陸軍的重要人物、元帥、陸軍大將的身份,在大正五年成為首相的寺內正毅(一八五二-一九一九)的花押(圖154),
頁211
「毅」の草体を元にしつつ、第一画の点を右横に移して天地二線の間に縦線三本を配する図形化した形(図155)となっている。犬養と寺内の対照とやや似ているのが「敏」の草体を花押化した河野敏鎌と武富時敏の対照である。土佐藩の出身で、明治二十年代、農商務・司法・内務・文部等の大臣に歴任した河野敏鎌(一八四四―一八九五)の花押(図156)は「敏」の草体(図158)に底線を加えたもの。これに対して、佐賀県の出身で第二次大隈内閣(大正三)の逓相・蔵相をつとめた武富時敏(一八五五―一九三八)の花押(図157)は、元は同じ「敏」だが、着しく図形化した形(図159)となっている。
〔敬〕 さきに紹介した原敬の花押(図160)は「苟」の草体を形象化だが(一八二頁参照)、裁判官から検事に転じ、第一次桂内閣(明治三十六)の法相、下って大正三―九年宮内相となった波多野敬直(一八五〇―一九二二)の花押はほとんど「敬」の草体(図162)そのまま。また商法の教授から官僚に転じて司法・文部・農商務の諸相を歴任した岡野敬次郎(一八六五―一九二五)の花押(図163)は「苟」をやや図形化した形。また渋沢栄一の孫で日銀総裁、敗戦直後の蔵相、常民文化の研究と常民資料の保存に尽瘁した渋
漸漸以「毅」的草書體,向右橫移第一畫的點,天地線之間加上三條縱線再圖形化(圖155)。犬養及寺內的對照有點相似,「敏」的草書體花押化,以河野敏鎌及武富時敏來對照,土佐藩出身,在明治二十年代歷任農商務、司法、內務、文部等大臣的河野敏鎌(一八四四-一八九五)的花押(圖156)是「敏」的草書體(圖158)加上底線。對照出身佐賀縣,任職第二次大隈內閣(大正三)的遞相、藏相武富時敏(一八五五-一九三八)的花押(圖157)是與「敏」同樣,成為圖形化(圖159)。
〔敬〕之前介紹的原敬花押(圖160)是「苟」字草書體的形象化(參照頁一八二),從裁判官轉任檢事,在第一次桂內閣(明治三十六年)任法相,在大正三年-九年成為內務大臣波多野敬直(一八五○-一九二二)花押(圖161)大概是「敬」的草書體(圖1622)。從商法教授轉任官僚,歷任司法、文部、農商務諸相的岡野敬次郎(一八六五-一九二五)花押(圖163)是「苟」的圖形化。澁澤榮一之孫在日銀總裁,戰敗後盡力於百姓文化研究及保存的
頁213
沢敬三(一八九六―一九六三)の花押(図164)は縦の彎曲線が四本となっている(図165)が、これも「敬」の草体(図162)にもとづくもの。そして中の小さな横線二本と底線とで名の「三」を表している。
〔致〕 この字を用いたものに、裁判官から検事に転じ第三次桂内閣(大正元)、寺内内閣(大正五)の法相に任じ、また法政大学学長としても知られた松室致(一八五二―一九三一)の花押(図106)がある。これは「致」の草体(図167)の終画を底線に変えた形である。
〔青〕「敏」を用いた武富時敏の花押と似た形のものに、明治前期の外交官で明治二十二―三十三年の間に三度外相に任じた青木周蔵(一八四四―一九一四)の花押(図168)がある。これはおそらく底線と左部分で「主」、右部分で「月」を表す(図169)、すなわち全体で「青」を表わし、それに天の一線を加えたものであろう。しかし、同じ「青」を用いても、昭和五、六年の海相(浜口内閣・第二次若槻内閣)安保清種(一八七〇―一九四八)の場合(図170)は、「月」の第二画を大きく右に張り出し、中の二点を右上の点と底線とに変
澁澤敬三(一八九六-一九六三)花押(圖164)是以四條縱的彎曲線(圖165),是「敬」的草書體(圖162),較小的二條橫線與底線,表示名字的「三」。
〔致〕的字,從裁判官任檢事,在第三次桂內閣(大正元)、寺內內閣(大正五年)任職法相,也是法政大學校長松室致(一八五二-一九三一)的花押(圖166)。是「致」(圖166)的草書體,其最後筆晝變形成底線。
〔青〕用「敏」字的武富時敏的花押類似,明治前期的外交官,在明治二十-三十三年間三度任職外務大臣的青木周藏(一八四四-一九一四)花押(圖168),可能是底線在左部分是「主」,右部分是「月」(圖169),全體表示青,再加上天一線。可是,同樣用「青」,在昭和五、六年任職海軍大臣(濱口內閣、第二次若槻內閣)的安保清種(一八七○-一九四八)(圖170),其「月」的第二畫是向右外張,右上的點是中間二點加底線
頁214
えたものとなっているし(図171)、大蔵官僚から企画院総裁・蔵相となり、初代の大東亜相に任じた青木一男(一八八九―一九八二)の場合(図172)は、「青」に底線を加えた、簡単明瞭、お義理のような花押である。
もう一つ武富時敏の花押と似た形のものに、財界人で斉藤内閣の商工相に任ぜられ、足利尊氏賛美論で右翼の攻撃にさらされた中島久万吉(一八七三―一九六〇)の花押(図173)がある。これは、分解すると図174のようになって、「久万」の二字に底線を加えたことが分かる(「久」の第三画と「万」の第二画とが重なる)。
變形(圖171)。從大藏官僚成為企畫院總裁、大藏大臣,任第一次的大東亞相青木一男(一八八九-一九八二)(圖172)是「青」加上底線,簡單明瞭,含義理的花押。
與武富時敏相似的花押,在財政界任齋藤內閣的商工相時,因足利尊氏讚美論受到右翼攻擊的中島久萬吉(一八七三-一九六○)的花押(圖173),分解成圖174,是「久萬」加上底線。(「久」的)第三畫與「萬」的第二畫重疊。)
頁215
〔謙・廉〕 いずれも「兼」を主体とする字である。「謙」には、すでに紹介した安達謙蔵(図175、一八七頁参照)、松村謙三(図176、二〇六頁参照)の外に、小松謙次郎の花押(図177)があり、「廉」には中小路廉の花押(図178)がある。逓信官僚から貴族院議員となり、清浦内閣(大正十三)の鉄道相に任じた小松謙次郎(一八六三―一九三二)の花押は、「謙」の草体(図179)を用いて、終画を底線にした形で、ほとんど松村謙三の花押と同形である。また、検事から転じて逓信省ついで内務省につとめ、第三次桂内閣、寺内内閣の両度農商務相に任じた仲小路廉(一八六六―一九二四)の場合は「」(マダレ)に「兼」の草体を配
〔謙、廉〕全部以「兼」為主體的,已經介紹過的安達謙藏(參照頁一八七圖175)、松村謙三(圖176,參照頁二○六)之外,小松謙次郎的花押(圖177),「廉」是仲小路廉的花押(圖178),從遞信官僚成為貴族院議員清浦內閣(大正十三)任職鐵道相小松謙次郎(一八六三-一九三二)的花押是「謙」的草書體(圖179),以底線為最後筆畫,形體上大約是與松村謙三的花押同形。從檢察官轉任遞信省,任職於內務省,並在第三次桂內閣、寺內內閣兩度任農商務相的仲小路廉(一八六六-一九二四)「」(マダレ)是配上「兼」的草書體
頁217
したものだが、「」で「」を表し、その横線と「兼」の草体の第一画を重ねている。なお、筆順を図180で示す。
〔忠〕 この字を用いたもの町田忠治・三土忠造・石黒忠篤・広瀬久忠らの花押がある。憲政会・民政党の幹部として農相・商工相に任じ、民政党最後の総裁となった町田忠治(一八六三―一九四六)の花押(図181)はとくに説明するでもない「忠」そのもの。新聞記者から政友会に入り文部・大蔵等の大臣を歴任した三土忠造(一八七一―一九四八)の花押(図182)は、「心」に当る部分を(・の形に変えて底線を加えたのと、終わりの筆順に一工夫しているのが特徴である(図183に筆順を示す)。農林官僚から第二次近衛内閣(昭和十五)の農相、鈴木終戦内閣の農商務相となった。“農政の神様”石黒忠篤(一八八四―一九六〇)の花押(図184)は「忠」の下に「馬」の草体(図185)をつけた二合体。内閣官僚から平沼内閣(昭和十四)の厚相にあげられた広瀬久忠(一八八九―一九七四)の花押(図166)も「久」と「忠」を重ねて形象化したもの(図187)。
以「」表示「」,其橫線與「兼」的草書體第一畫重疊,筆順如圖180。
〔忠〕字的使用有町田忠治、三土忠造、石黑忠篤、廣瀨久忠等。憲政會、民政黨的幹部及任職農相、商工相,為民政黨最後的總裁町田忠治(一八六三-一九四六)的花押(圖181)無法明確的說明。從新聞記者進入政友會,歷任文部、大藏等大臣三土忠造(一八七一-一九四八)的花押(圖182)以「心」為部分(變形成˙加上底線),最後的筆畫下了工夫(筆順如圖183)。從農林官僚成為第二次近衛內閣(昭和十五年)的農相、鈴木終戰內閣的農商務相,被稱為「農政之神」的石黑忠篤(一八八四-一九六○)的花押(圖184)是「忠」下面加上「馬」的草書體(圖185)的二合體。從內務官僚被推舉為平沼內閣厚生大臣的廣瀨久忠(一八八九-一九七四)的花押(圖186)是「久」加上「忠」的重疊形象化。
頁218
〔英〕 この字を用いたものに小松原英太郎・馬場鍈一・安井英二の花押がある。新聞界から転じて官界に入り、第二次桂内閣(明治四十一)の文相として南北朝正閏問題の政治的処理に当った小松原英太郎(一八五二―一九一九)の花押(図188)は、終わりの二画「人」を左右二つの点に変えた形(図189)。広田内閣(昭和十一)の蔵相として、軍事費の急膨張を容れた馬場財政の主、馬場鍈一(一八七九―一九三七)の花押(図190)は、図191のような筆順で、点線の左が「金」、右が「英」の「人」を省いた形である。内務官僚から第一次近衛内閣(昭和十二)の文相、第二次近衛内閣の内相に任ぜられた安井英二(一八九
〔英〕字的使用有小松原英太郎、馬場一、安井英二的花押。從新聞界轉任官界,在第二次桂內閣(明治四十一)任文相,處理南北朝正閏問題的小松原英太郎(一八五二-一九一九)的花押(圖188),最後二筆畫「人」變成左右兩點(圖189)。廣田內閣(昭和十一年)成為藏相,造成軍事費急速膨漲的馬場財政之主的馬場一(一八七九-一九三七)的花押(圖190),圖191是其筆順,虛線左邊是「金」,右邊是「英」省略「人」的部分。從內務官僚、第一次近衛內閣(昭和十二)的文相,任第二次近衛內閣的內相安井英二(一八九○
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〇―一九八二)の花押(図192)もほぼ小松原のものと同じだが、点を三つにしている(図193)のが小異といえようか。
〔直〕 この字を用いたものに片岡直温と星野直樹の花押がある。第一次若槻内閣(大正十五)の蔵相として昭和二年金融恐慌を誘発した国会失言で知られる片岡直温(一八五九―一九三四)の花押(図194)は「尚」のように見えるが、古く「直」を用いた大仏貞直(執権北条氏の一族)や徳川家康の花押(七二―七三頁参照)と同じく「直」の草体(図195)を元にしたもので、第一画の横線を二つの点に変えたところに工夫が見られる。戦時期革新官
-一九八二)的花押(圖192)大約與小松原的同樣,有三個點(圖193)是小小不同處。
〔直〕之使用的花押有片岡直溫及星野直樹。第一次若槻內閣(大正十五)藏相,及昭和二年國會失言導致金融恐慌的片岡直溫(一八五九-一九三四)的花押(圖194),是如「尚」字,是古代的「直」與大佛貞直(執權北條氏一族)及德川家康的花押(參照頁七二-七三)同樣是「直」的草書體(圖195),第一畫的橫線變成二個點,是其下功夫之處。戰時革新官
頁220
僚の雄として企画院総裁、東条内閣(昭和十六)の書記官長に任じた星野直樹(一八九二―一九七八)の花押(図196)はこれに比べて全くの走り書き風(図197)である。なお、内務官僚出身で幣原内閣(昭和二十)の書記官長・国務相となった次田大三郎(一八八三―一九六〇)の花押(図198)は「直」に似ているけれども、これは「大」と「三」の合成(図199)である。
〔彦〕この字を用いたものに伊集院彦吉・市来乙彦・岡田忠彦・塩野季彦の花押がある。薩摩出身の外交官で、第二次山本内閣(大正十二)の外相となった伊集院彦吉(一八六四
僚之雄企畫院總裁、東條內閣(昭和十六)任書記官長的星野直樹(一八九二-一九七八)的花押(圖196)是以快寫的方式書寫(圖197)。以內務官僚出身,成為幣原內閣(昭和二十)的書記官長、國務相的次田大三郎(一八八三-一九六○)的花押(圖198)與「直」字相似,可是是「大」與「三」的合成(圖199)。
〔彥〕字使用的有伊集院彥吉、市來乙彥、岡田忠彥、野季彥的花押。以薩摩藩出身的外交官,成為第二次山本內閣(大正十二)的外相伊集院彥吉(一八六四-一九二四)
に転じ、政友会総裁、総理大臣となった田中義一の花押(図110)は「義」の略体(図111)を形象化して天地二線を加えたもののようである。
海軍では、大正年間数次の内閣に海軍大臣に任じ、大正十一年総理大臣となった加藤友三郎の花押(図112)は実線部分が「友」を表わし、点線部分が「郎」を表し、これに底線を加えている(図113)。また日露戦争に偉功をたて、大正年間大将に進み、海軍大臣となった村上格一の花押(図114)は「各」の草体(図115)を形象化して底線を加えたものであろう。
降って、大正十年陸軍大臣、陸軍大将つい
,成為政友會總裁及總理大臣的田中義一的花押(圖110)是「義」的略體(圖111)的形象化,加上天地二線。
在海軍中,於大正年間數次任職海軍大臣,在大正十一年成為總理大臣的加藤友三郎花押(圖112)實線表示「友」,虛線表示「郎」,加上底線(圖113)。日俄戰爭中建立功績,大正年間進昇大將,成為海軍大臣的村上格一花押(圖114)是「各」的草書體(圖115)形象化,加上底線。
大正十年陸軍大臣,在陸軍大將時
頁203
で朝鮮総督となった山梨半造の花押(図116)は「利」(実線部分)に天地二線(点線部分)と右上に点を加えたもの(図117)。「越境将軍」「喰い逃げ内角」など芳しからぬ声価を残した陸軍大将、総理大臣の林銑十郎の花押(図118)は「林」の草体(図119)を形象化して底線を加えたもの。阿部内閣の陸軍大臣、敗戦時の元帥、第二総軍司令官畑俊六の花押(図121)は「俊」の草体(図122)を形象化しつつ、「しゆん」を含ませたものに天地二線を加えて一工夫している(図124)。朝鮮総督から東条退陣のあとを受けて首相となった小磯国昭の花押(図125)は「国」の「玉」を上に出し、「口」(くにがまえ)を少し変形させ、
成為朝鮮總督的山梨半造花押(圖116)是「利」(實線部分),及天地二線(虛線部分),加上右上的點(圖117)。留下不好名聲「不負責的內閣」「越境將軍」的陸軍大將、總理大臣林銑十郎的花押(圖118)是「林」的草書體(圖119)形象化,加上底線。阿部內閣時的陸軍大臣、敗戰時的元帥、笫二總軍司令官畑俊六花押(圖121)是「俊」的草書體(圖122)的形象化,含「しゆん」,再加上天地線(圖124)。從朝鮮總督到東條退陣後,成為首相的小磯國昭花押(圖125),是「國」的「玉」在上方突出,「口」較少變形,
頁204
「日」(点線部分)をその中に入れた、なかなか凝ったもの(図126)。また関東軍参謀長を経て近衛内閣の陸軍大臣となり、極東裁判で死刑となった板垣征四郎の花押(図127)は「勇」の古体(図128)を形象化したもののようである。
海軍大将、海軍大臣、そして二・二六事件で危うく死を免れた首相岡田啓介の花押(図129)は「啓」の古体(図130)にもとづき「石」を形象化し底線を加えたもの。もう一人、望みなき日米交渉を託された海軍中将、駐米大使野村吉三郎の花押(図131)は「吉」の終画を底線とした平凡なもの。
「日」(虛線部分)置入中間,有其凝聚力(圖126)。歷經關東軍參謀長的近衛內閣陸軍大臣,在極東裁判時被處死刑的板垣征四郎花押(圖127),是「勇」的古體(圖128)形象化。
海軍大將、海軍大臣在二二六事件免於死亡的首相岡田啟介花押(圖129)是「啟」的古體(圖130)為基礎,將「石」形象化加上底線。被寄託日美交涉的海軍中將駐美大使野村吉三郎的花押(圖131)是「吉」的最後筆畫為底線,十分平凡。
頁205
戦後の大臣たち
戰後大臣的花押-205
まず吉田茂の花押(図132)は「茂」を多少形象化した程度の簡単なもの。なお吉田はこれに底線をくわえたもの(図133)も用いている。戦前、京大事件の時の文部大臣で、戦後紆余曲折を経てようやく総理大臣となったけ鳩山一郎の花押(図134)は「一郎」(「郎」は「ら」となる)に底線をを加えたもの(図135、同じ「一郎」を形象化した一九〇頁、本野一郎のものと比較されたい)。戦前、朝日新聞主筆、副社長、小磯内閣の情報局総裁、戦後は保守合同に挺身して自由民主党を結成した直後急死した緒方
首先是吉田茂的花押(圖132),多少有「茂」的形象化,程度上簡單。吉田,也加上底線(圖133)。戰前,京大事件時的文部大臣,歷經戰後的曲折,成為總理大臣鳩山一郎花押(圖134),為「一郎」(「郎」是「ら」)加上底線(圖135,頁一九○同樣「一郎」的本野一郎比較)。戰前朝日新聞主筆、副社長、小磯內閣的情報局總裁,戰後挺身保守合同,結成自由民主黨之後,急死的緒方
頁206
竹虎の花押(図136)は難解だが、「方」に、普通底線を加えるところを斜線を加えたのではなかろうか(図137)。そして「方」の中に「オ」を含めたとも見られる。幣原内閣の農相として農地改革に取り組み、改進党・民主党の中心となり日中交流に尽くした松村謙三の花押(図138)は「謙」の草体を用いて、終画を長くして底線としたもの(一八七頁、安達謙蔵の花押と対比されたい)。岸信介の花押(図139)は「介」を用いて天地二線を加えたものだが、左の縦線と終末の点は「信」の人偏を表すのであろうか。戦前は自由民主党首脳の一人として活躍した松野鶴平の花押(図140)は
竹虎的花押(圖136)很難解,「方」加上普通的底線(圖137),在「方」中含「才」字。幣原內閣的農相處理農地改革,成為改進常、民主黨的中心,盡力於日中交流的松村謙三的花押(圖138)是用「謙」的草書體,最後再畫長底線(請比對頁一八七安達謙藏的花押)。岸信介的花押(圖139)用「介」字再加上天地二線,左方的縱線與最後的點表示「信」的人字偏旁。戰後任米內內閣鐵道相,戰後活躍於自由民主黨首腦的松野鶴平花押(圖140)
頁207
「つる」に底線で、品川弥二郎の花押を思い出させる。戦前、東洋経済新報に拠って自由主義の論陣を張り、戦後は自民党総裁選で二・三位連合で岸を破って首相となったもの、病を得て六十日で退陣した石橋湛山の花押(図141)は、「湛」の草体(図142)に底線を加えたもの(「湛」の終わりの部分に運筆の工夫が加えられている)。
月給倍増論で民心をつかんだ池田勇人の花押(図143)は「勇」の草体(図145)を形象化したもので、運筆は模写(図144)の点線で示したような順序になっている。戦後大臣の花押中秀逸の作へはなかろうか。内閣持続最長不倒を誇った佐藤栄作の花押(図146)は
「つる」加底線,由品川彌二郎的花押思考出來。戰前,據東洋經濟新報主張自由主義,戰後在自民黨總裁選舉的破解二、三位連合,成為首相,因病六十日而退位的石橋湛山的花押(圖141)是以「湛」字為草書體(圖142)加上底線(「湛」的最後部分有運筆的工夫)。
以月給倍增論收民心的池田勇人的花押(圖143)是「勇」的草書體(圖145)的形象化,模寫其運筆以(圖144)的虛線表示其順序。戰後大臣的花押中秀逸之作,以內閣持續最長的佐藤榮作花押(圖146)
頁208
「左」と「藤」の草体(図147)を重ねて底線を加えたもの。代議士連続五十年を超えた「議会の子」三木武夫の花押(図148)は、「m」に底線を加えたものであることが、初期の花押(図149、模写)でよく分かる。三木退陣のあと、念願の首相の座についた福田赳夫の花押(図150)は「田」(「福」の一部でもある)に底線を加えたように見えるが、初期のもの(図151、模写)を見えると、「フクタ」の三字(クとタを重ねる)に底線を加えたもののようである。
是「左」與「藤」的草書體(圖147)重疊加底線。超過五十年代議士「議會之子」三木武夫的花押(圖148)是「m」加底線,初期的花押(圖149模寫)可知。三木武夫退陣後,有希望成為首相的福田赳夫的花押(圖150)的「田」(「福」的一部分)加底線。初期花押(圖151模寫),是三個字「フクタ」(ク和タ重疊)加底線。
頁209
二 大臣の花押(続)
二 大臣的花押(續)-209
一八八五年(明治十八)内閣制度発足以降の大臣の花押を材料として、近代の花押をなお詳しく観察してみたい。まず、一字の花押を中心にして、同じ字を用いた複数の花押を比較検討する。
一字の花押
〔毅・敏〕まず「毅」の花押を取り上げてみる。先に紹介した犬養毅の花押(図152)は「毅」の草体(図153)を元にしたものだが(一八四頁参照)、長州陸軍の巨頭・元帥・陸軍大将として大正五年首相となった寺内正毅(一八五二―一九一九)の花押(図154)は、
一八八五年(明治十八)內閣制度開始以來,用大臣的花押作為材料,詳細觀察近代的花押。首先,以一字花押為中心,用同樣的字來比較不同的花押。
一字花押-209
〔毅、敏〕首先是「毅」字花押,先前介紹犬養毅的花押(圖152)的「毅」草書體(圖153)(參照頁一八四),以長州陸軍的重要人物、元帥、陸軍大將的身份,在大正五年成為首相的寺內正毅(一八五二-一九一九)的花押(圖154),
頁211
「毅」の草体を元にしつつ、第一画の点を右横に移して天地二線の間に縦線三本を配する図形化した形(図155)となっている。犬養と寺内の対照とやや似ているのが「敏」の草体を花押化した河野敏鎌と武富時敏の対照である。土佐藩の出身で、明治二十年代、農商務・司法・内務・文部等の大臣に歴任した河野敏鎌(一八四四―一八九五)の花押(図156)は「敏」の草体(図158)に底線を加えたもの。これに対して、佐賀県の出身で第二次大隈内閣(大正三)の逓相・蔵相をつとめた武富時敏(一八五五―一九三八)の花押(図157)は、元は同じ「敏」だが、着しく図形化した形(図159)となっている。
〔敬〕 さきに紹介した原敬の花押(図160)は「苟」の草体を形象化だが(一八二頁参照)、裁判官から検事に転じ、第一次桂内閣(明治三十六)の法相、下って大正三―九年宮内相となった波多野敬直(一八五〇―一九二二)の花押はほとんど「敬」の草体(図162)そのまま。また商法の教授から官僚に転じて司法・文部・農商務の諸相を歴任した岡野敬次郎(一八六五―一九二五)の花押(図163)は「苟」をやや図形化した形。また渋沢栄一の孫で日銀総裁、敗戦直後の蔵相、常民文化の研究と常民資料の保存に尽瘁した渋
漸漸以「毅」的草書體,向右橫移第一畫的點,天地線之間加上三條縱線再圖形化(圖155)。犬養及寺內的對照有點相似,「敏」的草書體花押化,以河野敏鎌及武富時敏來對照,土佐藩出身,在明治二十年代歷任農商務、司法、內務、文部等大臣的河野敏鎌(一八四四-一八九五)的花押(圖156)是「敏」的草書體(圖158)加上底線。對照出身佐賀縣,任職第二次大隈內閣(大正三)的遞相、藏相武富時敏(一八五五-一九三八)的花押(圖157)是與「敏」同樣,成為圖形化(圖159)。
〔敬〕之前介紹的原敬花押(圖160)是「苟」字草書體的形象化(參照頁一八二),從裁判官轉任檢事,在第一次桂內閣(明治三十六年)任法相,在大正三年-九年成為內務大臣波多野敬直(一八五○-一九二二)花押(圖161)大概是「敬」的草書體(圖1622)。從商法教授轉任官僚,歷任司法、文部、農商務諸相的岡野敬次郎(一八六五-一九二五)花押(圖163)是「苟」的圖形化。澁澤榮一之孫在日銀總裁,戰敗後盡力於百姓文化研究及保存的
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沢敬三(一八九六―一九六三)の花押(図164)は縦の彎曲線が四本となっている(図165)が、これも「敬」の草体(図162)にもとづくもの。そして中の小さな横線二本と底線とで名の「三」を表している。
〔致〕 この字を用いたものに、裁判官から検事に転じ第三次桂内閣(大正元)、寺内内閣(大正五)の法相に任じ、また法政大学学長としても知られた松室致(一八五二―一九三一)の花押(図106)がある。これは「致」の草体(図167)の終画を底線に変えた形である。
〔青〕「敏」を用いた武富時敏の花押と似た形のものに、明治前期の外交官で明治二十二―三十三年の間に三度外相に任じた青木周蔵(一八四四―一九一四)の花押(図168)がある。これはおそらく底線と左部分で「主」、右部分で「月」を表す(図169)、すなわち全体で「青」を表わし、それに天の一線を加えたものであろう。しかし、同じ「青」を用いても、昭和五、六年の海相(浜口内閣・第二次若槻内閣)安保清種(一八七〇―一九四八)の場合(図170)は、「月」の第二画を大きく右に張り出し、中の二点を右上の点と底線とに変
澁澤敬三(一八九六-一九六三)花押(圖164)是以四條縱的彎曲線(圖165),是「敬」的草書體(圖162),較小的二條橫線與底線,表示名字的「三」。
〔致〕的字,從裁判官任檢事,在第三次桂內閣(大正元)、寺內內閣(大正五年)任職法相,也是法政大學校長松室致(一八五二-一九三一)的花押(圖166)。是「致」(圖166)的草書體,其最後筆晝變形成底線。
〔青〕用「敏」字的武富時敏的花押類似,明治前期的外交官,在明治二十-三十三年間三度任職外務大臣的青木周藏(一八四四-一九一四)花押(圖168),可能是底線在左部分是「主」,右部分是「月」(圖169),全體表示青,再加上天一線。可是,同樣用「青」,在昭和五、六年任職海軍大臣(濱口內閣、第二次若槻內閣)的安保清種(一八七○-一九四八)(圖170),其「月」的第二畫是向右外張,右上的點是中間二點加底線
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えたものとなっているし(図171)、大蔵官僚から企画院総裁・蔵相となり、初代の大東亜相に任じた青木一男(一八八九―一九八二)の場合(図172)は、「青」に底線を加えた、簡単明瞭、お義理のような花押である。
もう一つ武富時敏の花押と似た形のものに、財界人で斉藤内閣の商工相に任ぜられ、足利尊氏賛美論で右翼の攻撃にさらされた中島久万吉(一八七三―一九六〇)の花押(図173)がある。これは、分解すると図174のようになって、「久万」の二字に底線を加えたことが分かる(「久」の第三画と「万」の第二画とが重なる)。
變形(圖171)。從大藏官僚成為企畫院總裁、大藏大臣,任第一次的大東亞相青木一男(一八八九-一九八二)(圖172)是「青」加上底線,簡單明瞭,含義理的花押。
與武富時敏相似的花押,在財政界任齋藤內閣的商工相時,因足利尊氏讚美論受到右翼攻擊的中島久萬吉(一八七三-一九六○)的花押(圖173),分解成圖174,是「久萬」加上底線。(「久」的)第三畫與「萬」的第二畫重疊。)
頁215
〔謙・廉〕 いずれも「兼」を主体とする字である。「謙」には、すでに紹介した安達謙蔵(図175、一八七頁参照)、松村謙三(図176、二〇六頁参照)の外に、小松謙次郎の花押(図177)があり、「廉」には中小路廉の花押(図178)がある。逓信官僚から貴族院議員となり、清浦内閣(大正十三)の鉄道相に任じた小松謙次郎(一八六三―一九三二)の花押は、「謙」の草体(図179)を用いて、終画を底線にした形で、ほとんど松村謙三の花押と同形である。また、検事から転じて逓信省ついで内務省につとめ、第三次桂内閣、寺内内閣の両度農商務相に任じた仲小路廉(一八六六―一九二四)の場合は「」(マダレ)に「兼」の草体を配
〔謙、廉〕全部以「兼」為主體的,已經介紹過的安達謙藏(參照頁一八七圖175)、松村謙三(圖176,參照頁二○六)之外,小松謙次郎的花押(圖177),「廉」是仲小路廉的花押(圖178),從遞信官僚成為貴族院議員清浦內閣(大正十三)任職鐵道相小松謙次郎(一八六三-一九三二)的花押是「謙」的草書體(圖179),以底線為最後筆畫,形體上大約是與松村謙三的花押同形。從檢察官轉任遞信省,任職於內務省,並在第三次桂內閣、寺內內閣兩度任農商務相的仲小路廉(一八六六-一九二四)「」(マダレ)是配上「兼」的草書體
頁217
したものだが、「」で「」を表し、その横線と「兼」の草体の第一画を重ねている。なお、筆順を図180で示す。
〔忠〕 この字を用いたもの町田忠治・三土忠造・石黒忠篤・広瀬久忠らの花押がある。憲政会・民政党の幹部として農相・商工相に任じ、民政党最後の総裁となった町田忠治(一八六三―一九四六)の花押(図181)はとくに説明するでもない「忠」そのもの。新聞記者から政友会に入り文部・大蔵等の大臣を歴任した三土忠造(一八七一―一九四八)の花押(図182)は、「心」に当る部分を(・の形に変えて底線を加えたのと、終わりの筆順に一工夫しているのが特徴である(図183に筆順を示す)。農林官僚から第二次近衛内閣(昭和十五)の農相、鈴木終戦内閣の農商務相となった。“農政の神様”石黒忠篤(一八八四―一九六〇)の花押(図184)は「忠」の下に「馬」の草体(図185)をつけた二合体。内閣官僚から平沼内閣(昭和十四)の厚相にあげられた広瀬久忠(一八八九―一九七四)の花押(図166)も「久」と「忠」を重ねて形象化したもの(図187)。
以「」表示「」,其橫線與「兼」的草書體第一畫重疊,筆順如圖180。
〔忠〕字的使用有町田忠治、三土忠造、石黑忠篤、廣瀨久忠等。憲政會、民政黨的幹部及任職農相、商工相,為民政黨最後的總裁町田忠治(一八六三-一九四六)的花押(圖181)無法明確的說明。從新聞記者進入政友會,歷任文部、大藏等大臣三土忠造(一八七一-一九四八)的花押(圖182)以「心」為部分(變形成˙加上底線),最後的筆畫下了工夫(筆順如圖183)。從農林官僚成為第二次近衛內閣(昭和十五年)的農相、鈴木終戰內閣的農商務相,被稱為「農政之神」的石黑忠篤(一八八四-一九六○)的花押(圖184)是「忠」下面加上「馬」的草書體(圖185)的二合體。從內務官僚被推舉為平沼內閣厚生大臣的廣瀨久忠(一八八九-一九七四)的花押(圖186)是「久」加上「忠」的重疊形象化。
頁218
〔英〕 この字を用いたものに小松原英太郎・馬場鍈一・安井英二の花押がある。新聞界から転じて官界に入り、第二次桂内閣(明治四十一)の文相として南北朝正閏問題の政治的処理に当った小松原英太郎(一八五二―一九一九)の花押(図188)は、終わりの二画「人」を左右二つの点に変えた形(図189)。広田内閣(昭和十一)の蔵相として、軍事費の急膨張を容れた馬場財政の主、馬場鍈一(一八七九―一九三七)の花押(図190)は、図191のような筆順で、点線の左が「金」、右が「英」の「人」を省いた形である。内務官僚から第一次近衛内閣(昭和十二)の文相、第二次近衛内閣の内相に任ぜられた安井英二(一八九
〔英〕字的使用有小松原英太郎、馬場一、安井英二的花押。從新聞界轉任官界,在第二次桂內閣(明治四十一)任文相,處理南北朝正閏問題的小松原英太郎(一八五二-一九一九)的花押(圖188),最後二筆畫「人」變成左右兩點(圖189)。廣田內閣(昭和十一年)成為藏相,造成軍事費急速膨漲的馬場財政之主的馬場一(一八七九-一九三七)的花押(圖190),圖191是其筆順,虛線左邊是「金」,右邊是「英」省略「人」的部分。從內務官僚、第一次近衛內閣(昭和十二)的文相,任第二次近衛內閣的內相安井英二(一八九○
頁219
〇―一九八二)の花押(図192)もほぼ小松原のものと同じだが、点を三つにしている(図193)のが小異といえようか。
〔直〕 この字を用いたものに片岡直温と星野直樹の花押がある。第一次若槻内閣(大正十五)の蔵相として昭和二年金融恐慌を誘発した国会失言で知られる片岡直温(一八五九―一九三四)の花押(図194)は「尚」のように見えるが、古く「直」を用いた大仏貞直(執権北条氏の一族)や徳川家康の花押(七二―七三頁参照)と同じく「直」の草体(図195)を元にしたもので、第一画の横線を二つの点に変えたところに工夫が見られる。戦時期革新官
-一九八二)的花押(圖192)大約與小松原的同樣,有三個點(圖193)是小小不同處。
〔直〕之使用的花押有片岡直溫及星野直樹。第一次若槻內閣(大正十五)藏相,及昭和二年國會失言導致金融恐慌的片岡直溫(一八五九-一九三四)的花押(圖194),是如「尚」字,是古代的「直」與大佛貞直(執權北條氏一族)及德川家康的花押(參照頁七二-七三)同樣是「直」的草書體(圖195),第一畫的橫線變成二個點,是其下功夫之處。戰時革新官
頁220
僚の雄として企画院総裁、東条内閣(昭和十六)の書記官長に任じた星野直樹(一八九二―一九七八)の花押(図196)はこれに比べて全くの走り書き風(図197)である。なお、内務官僚出身で幣原内閣(昭和二十)の書記官長・国務相となった次田大三郎(一八八三―一九六〇)の花押(図198)は「直」に似ているけれども、これは「大」と「三」の合成(図199)である。
〔彦〕この字を用いたものに伊集院彦吉・市来乙彦・岡田忠彦・塩野季彦の花押がある。薩摩出身の外交官で、第二次山本内閣(大正十二)の外相となった伊集院彦吉(一八六四
僚之雄企畫院總裁、東條內閣(昭和十六)任書記官長的星野直樹(一八九二-一九七八)的花押(圖196)是以快寫的方式書寫(圖197)。以內務官僚出身,成為幣原內閣(昭和二十)的書記官長、國務相的次田大三郎(一八八三-一九六○)的花押(圖198)與「直」字相似,可是是「大」與「三」的合成(圖199)。
〔彥〕字使用的有伊集院彥吉、市來乙彥、岡田忠彥、野季彥的花押。以薩摩藩出身的外交官,成為第二次山本內閣(大正十二)的外相伊集院彥吉(一八六四-一九二四)
February 13, 2008
頁249
解説―「前人未踏」の花押研究 笠松宏至
ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
頁250
書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
頁251
八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
頁252
私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
頁253
の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
頁254
ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
頁255
結んでいる。
佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
頁256
が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである
(かさまつ ひろし/日本中世史)
92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。
(笠松宏至/日本中世史)97.2.2
解説―「前人未踏」の花押研究 笠松宏至
ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
頁250
書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
頁251
八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
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私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
頁253
の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
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ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
頁255
結んでいる。
佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
頁256
が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである
(かさまつ ひろし/日本中世史)
92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。
(笠松宏至/日本中世史)97.2.2
January 14, 2008
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一字の花押181
一字花押-181
型によってまとめてみると、大臣の花押に関する限り、一字の花押すなわち名の一字もしくは姓の一字を用いたが圧倒的に多い。
まずの一字を用いたものとして、井上毅の花押(図14)は「毅」に底線を加えた簡明なもの。次に陸奥宗光の花押(図15)は明らかに「光」。ただ筆順は通常の書方とちがい、図16のような順序で、二つの点が最後にくるようである。創設期日本海軍の重鎮仁礼景範の花押(図17)は「景」で(図18)、終筆に当る右下部を大きく張り出しているのは前述
大臣的花押,一字花押是指名字的一字,可能用姓的花押佔壓倒性多數。
首先以名為一字的花押,井上毅(圖14)用「毅」加上底線,十分簡明。陸奧宗光的花押(圖15),明白是「光」。只是通常書寫的筆畫順序不同,圖16的順序,最後加二點。日本海軍創設者重鎮仁禮景範的花押(圖17)是「景」(圖18),最後筆是右下部外張,如前述
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した江戸時代の型の名残りといえようか。日露戦争終結のボーツマス条約で日本代表をつとめた小村寿太郎の花押(図19)は「壽」の草体に底線を加えたもの。次に自由民権運動期の代表的政治家、板垣退助の花押(図20)は「退」と見てよいだろう。図21に点線で示した終筆が辶の一部とも、艮の一部とも見え、あるいは両方を兼ねているのかもしれない。現職の首相で最初にテロの犠牲者となった原敬の花押(図22)は「敬」の偏部「苟」の草体(図23)を形象化したものと見られる。次に、文部大臣としてよりも、風格のある帝大総長として知られる浜尾新の花押(図24)は
留下江戶時代殘留的外型。日俄戰爭結束,負責ポーツマス條約日本代表小村壽太郎的花押(圖19)是「壽」的草書體加底線。自由民權運動時期代表政治家板垣退助的花押(圖20)是「退」字,圖㈱虛線以「」為最後筆畫,左上二點是「」的一部分,也可見到「艮」的一部分,或兩者兼有。現職首相最初被暗殺的犧牲者原敬的花押(圖22)是「敬」的偏旁「苟」的草書體(圖23)的形象化。作為文部大臣有風格的帝國大學總長濱尾新的花押(圖24)
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「新」の草体(図25)の変形。これと似た作り方に、大正末から昭和にかけて宮内大臣・内大臣に任じ、二・六事件で危うく暗殺を免れた牧野伸顕(吉田茂の岳父)の「顕」の花押(図26)がある(なお、第Ⅴ章一三六―一三八頁参照)。
東京駅頭、血盟団員の凶弾に斃れてついに再起できなかった首相浜口雄幸の花押(図28)は「雄」字で、「隹」の終筆の横線を長く引いて江戸時代以来の型にまとめている。五・一五事件で斃れた首相犬養毅の花押(図29)は「毅」の草体(図30)に底線を加えたもの。同じ字を用いても井上毅のものと比べて洗練された感じを受ける。ついで二・二六
是「新」的草書體(圖25)的變形,與其相似的作品是從大正末到昭和任職宮內大臣、內大臣在二、二六暗殺事件免於被暗殺的牧野伸顯(吉田茂岳父)以「顯」為花押(圖26)(參照第Ⅴ章頁一三六-一三八)
東京火車站因血盟團員的兇彈擊斃的首相濱口雄幸的花押(圖28)是「雄」字,最後筆畫是以「隹」結束,底線橫長,是江戶以來的樣式。五一五事件被擊斃的首相犬養毅的花押(圖29)是「毅」的草書體(圖30)加底線。同樣的字,井上毅的字更洗練。二二六事件
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事件に斃れたない大臣斉藤実の花押(図31)は「実」の草体(図32)だが、「毋」の運筆(図33)にちょっと工夫を加えている。また近衛文麿の花押(図34)は「文」の古体「□」を用いている。最後の元老西園寺公望の花押(図36)は「望」の草体そのもの、清浦奎吾(図37)は実線部分が「五」、点線部分が「口」を表す。清浦はこの花押を少し変えて全体に丸い感じ花押(図39)も用いた。「腕の喜三郎」最後の政友会総裁鈴木喜三郎の花押(図40)は「喜」の草体(図41)、「選挙の神様」の異名通り凄腕の内務大臣安達謙蔵の花押(図42)は「謙」の草体(図43、「兼」の終画を長く引いて底線とする)、独ソ不可侵条
被擊斃的內大臣齋藤實的花押(圖31)是「實」的草書體(圖32),以「毋」來運筆(圖33),有加入一點工夫。近衛文磨的花押(圖34)是「文」的古體「」。最後的元老西園寺公望的花押(圖36)是「望」的草書體,清浦奎吾(圖37)的實線是「五」,虛線是「口」的意思。清浦的花押很少變化,整體的感覺似圓形(圖39)。「鐵腕喜三郎」最後政友會總裁鈴木喜三郎的花押(圖40)是「喜」的草書體(圖41),,有「選舉之神」的異名厲害的內務大臣安達謙藏的花押(圖42)是「謙」的草書體(圖43「兼」的最後筆畫拉長成為底線),發表德蘇不可侵犯條約
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約の発表に為す術を知らず、「複雑怪奇」の語を残して政権を投げ出し平沼騏一郎の花押(図44)は「騏」の草体(図45)に底線を加えたもの。法学者から官界に入り文相・内相ついで宮相に任じ、枢密院議長となった一木喜徳郎の花押(図46)は「徳」の草体(図47)を形象化して、終画を長くして底線としたもの。検事総長・大審院長から広田内閣の司法大臣となった林頼三郎の花押(図48)は図49の実線部分が「束」に当ることは明らかだが、点線部分が「負」を表すかどうか、にわかに断定できない。ともかく「頼」を採って形象化し、底線を加えたものというってよい。
次に姓の一字を用いたものをあげると、明治の政治家の随一の名筆を謳われた副島種臣の花押(図50)は「副」の一字である。図52イの右上部の点線部分が「□」で、同じく実線部分が「□」であろう。運筆はなかなか凝っていて、図52ロのように書いたものらしい。(東京)帝国大学の文科大学学長・総長を経て伊藤内閣の文部大臣たなった外山正一(ゝ山)の花押(図53)は「外」の草体(図54)を少し変形させて(第一画を長くて、縦線を短くして)「分」の草体(図55)と見まがう形にしている。降って太平洋戦争敗戦直後の外務大臣として、米艦ミズーリ号上で降伏文書に署名調印した重光葵の花押(図56)は「重」の草体
留下「複雜奇怪」的話於政權上的平沼騏一郎的花押(圖44)是「騏」字的草書體(圖45)加上底線。從法學入官界文相及內相,任職宮相,成為樞密院議長的一木喜德郎的花押(圖46)是「德」的草書體(圖47)的形象化,最後以長底線為結尾。從檢事總長、大審院長成為廣田內閣的司法大臣林賴三郎的花押(圖48)是圖49的實線為「束」,虛線為「負」,一時無法斷定,此外「賴」字是採形象化,加上底線。
其次是用姓的一個子,明治政治家中的第一名筆副島種臣的花押(圖50)是「副」的一個字。圖52的右上部虛線是「」,同樣的實線是「」。運筆中凝聚力量,圖52如口的樣式。經歷(東京)帝國大學文科大學長、總長的伊藤內閣文部大臣外山正一(ゝ山)的花押(圖53)是「外」的草書體(圖54)變化較少(第一畫長,加短的縱線),其形是「分」的草書體(圖55)。太平洋戰爭戰後之後成為外務大臣,在美國艦上密斯理號簽下投降書的重光葵花押(圖56)是「重」的草書體
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(図57)で、少し左に傾けてあるのが一工夫といったところ。
一字の最後にあげたいのは、健全財政を堅持して軍部に憎まれ、二・二六事件で殺された高橋是清の花押(図58)である。これは明らかに「恭」の形象化であって、姓名にない字であるから、高橋にとって特別の意味をもった字と考えられる。
二合の花押
伊藤博文の信任を得て大蔵大臣・逓信大臣に任じた初期政友会の重鎮渡辺国武の花押(図59)は、図60の実線部分が「武」の古体
(圖57),向左一點點傾斜,是其工夫。
最後舉的一字花押,是堅持健全財政,憎恨軍隊在二二六事件被殺的高橋是清的花押(圖58),可知其是「恭」的形象化,不是姓名,對高橋是有特別的意思。
二合花押-189
得到伊藤博文信任,仕職大藏大臣、遞信大臣初期政友會的重鎮渡邊國武花押(圖59),圖60的實線部分是「武」的古體
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で、点線部分が口(くにがまえ)で「国」を表す。外交官出身で寺内内閣の外務大臣となった本野一郎の花押(図62)は、上の横線(天)が「一」、中間の半円と右の点で「ら」=「郎」、これに底線(地)を引いて明朝体にまとめたもの(後出の鳩山一郎の花押参照)。初期自由民権論者で、明治三十一年大隈内閣の逓信大臣、林有造の花押(図63)は「有」に「造」の「辶」を加えたもの。桂・山県系の官僚で内務大臣から内大臣に進んだ平田東助の花押(図64)は、図65左の点線部分が「東」の草体(図66)、右の「ゆ」に見えるのが「助」を表わし、これに底線を加えたもの。大正デモクラシーに立役者、憲政会初代総
虛線部分是口(國字),表現國字。以外交官出身任職外務大臣本野一郎的花押(圖62),上橫線(天)是「一」,中間的半圓及右邊的點是「ら」=「郎」」,底線(地)是成明朝體(參照後來的鳩山一郎的花押)。在初期自由民權論者,明治三十一年大隈內閣的遞信大臣、林有造的花押(圖63)是「有」及加上「造」的「」。桂、山縣系官僚,從內務大臣進昇到內大臣的平田東助花押(圖64),圖65左邊的虛線是「東」的草書體(圖66),右邊是「ゆ」,表示「助」,再加上底線。
大正民主主義的創立者,憲政會初代總裁
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裁として大正十三年首相となった加藤高明の花押(図67)は、図68左の実線部分が「高」の花押(図67)は、図68左の実線部分が「高」の一部「日」、点線が「月」の草体(但し終筆は底線に代える)。なお「高」を花押化する場合、中間部分「日」を採る例は古く北条高時、足利高氏に見られる(一二九頁、図77参照)。台湾民政長官、満鉄初代総裁を経て内務大臣となった後藤新平の花押(図70)は「新」の草体(一八三頁、浜尾新の花押参照)に「平」をそのまま重ねた形で、平凡な面白味のない花押である。文部官僚から立身して文部大臣・枢密顧問官に昇った岡田良平の花押(図72)は図73中間の「ら」が「良」を表し、上下の点線部分が天地二線で「平」を
成為大正十三年首相的加藤高明花押(圖67),圖㘸左邊的實線是「高」的一部分,虛線部分是「月」的草書體(終筆以底線替代)。「高」的花押化,中間部分以「日」為例,是古代北條高時、足利高氏(參照圖77,頁一二九)。經歷臺灣民政長官、滿鐵初代總裁,成為內務大臣的後藤新平花押(圖70)是「新」的草書體(參照頁一八三,濱尾新的花押)與「平」字重疊,是平凡沒有趣味的花押。從文部官僚立身為文部大臣,再進昇到樞密顧問官的岡田良平花押(圖72)是圖73中間的「ら」表示「良」字,上下虛線是天地二線
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表す。「平」を花押化する場合このように天地二線で表すのは、古くからの技法である(縦線を用いる場合も天地の間に収めて、下に突き出さない)。
明治三十一年憲政党創立委員、ついで農商務大臣となった大石政巳の花押(図74)は難解で、以下は全く試案にすぎない。すなわちこの花押を裏返しにして、左に九〇度倒すと図75のようになる。これの点線部分(但し終筆のU字形を除く)は「巳」と読める。すると上部の実線部分は「正」を表すのではないか。そして点線終筆(U字形)は、倒置した場合の底線に当るから、いわば形を整えるための補助線ではなかろうか。
表示「平」,「平」字花押化以天地二線,是古代的技法(縱線在天地間收納,不突艸)。
明治三十一年創立憲政黨委員,成為農商務大臣的大石正巳的花押(圖74)很難了解,無法全部解釋。這個花押是翻面,再向左九十度傾倒,成為圖75。虛線的部分(最後筆畫是U型)讀成「巳」。上部實線的部分不是表示「正」字嗎?如此的話以補助線整形。
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降って、官僚から政界に入り、浜口内閣の文部大臣、のち東京市長となった小橋一太の花押(図76)は「一太」の二字をそのまま形象化したもの。外交官で敗戦時の駐ソ大使佐藤尚武の花押(図77)も名の二字を用いたもので「尚」を左に、「武」の草体「む」を右に並べたもの。また、満鉄総裁から近衛内閣の外務大臣となり、訪独の帰途、ソターリンと日ソ中立条約の締結に成功した松岡洋右の花押(図78)は図79のように「洋」と「右」を重ねた形である。この場合、「羊」の縦線は「平」の場合と同じ下に突き出さないで、終筆が底線の形となっている。厚相・文相を経て内大臣となり、東条英機を首相に指名し
從官僚進入政界的濱口內閣文部大臣,之後成為小橋一太的花押(圖76)是「一太」的形象化。在戰敗時駐蘇大使佐藤尚武的花押(圖77)用名的二個字,左邊是「尚」,右邊是「武」的草書體「む」,兩者並例。從滿鐵總裁到近衛內閣的外務大臣,在訪德歸途中,與斯坦利締結了日蘇中立條約的松岡洋右的花押(圖78)是圖㜹「洋」與「右」重疊,「羊」的縱線是「平」一樣,但下面未突出,以底線為終筆。經歷了厚相、文相的內大臣,受東條英機指名為首相
頁194
た木戸幸一は「幸」の草体(図81)に「一」を加えた簡単なもの。
強いて分類すれば名の二合といえるものに、長州閥の雄、明治二十四年松方内閣の内務大臣品川彌二郎の平仮名花押(図82)がある。品川も幕末期には図83のような、諱(日孜)の一字「孜」を形象化し、天地二線を加えた花押を用いたが、大臣時代の内閣文書には「や」に「じ」を重ねた花押を用いた。
三字の名をもりこんだ花押に、内務官僚出身で東条内閣の内務大臣となった湯沢三千男のものがある(図84)。これを分解すると図85のようになる。真上から下ろした縦線はあるいは「力」の終画であろうか。
的木戶幸一的花押(圖80)是「幸」的草書體(圖81)加上「一」是簡單的形體。
要強烈的分類二合花押,長州閥的雄,明治二十四年任松方內閣的內務大臣品川彌二郎的平假名花押(圖82),品川也是幕末的花押(圖83),諱(日孜)的一字「孜」形象化,加上天地二線,在大臣時代的閣議文書以「や」及「じ」重疊使用。
盛行以名字三個字的花押,出身內務官僚成為東條內閣的內務大臣湯澤三千男(圖84)分解成圖85,從上直下的縱線是「力」的取後筆畫
頁195
次に、同じ二合でも姓の二字を用いたものがいくつかある。まず改進党系の代議士で第一次若槻内閣の商工大臣、ついで衆議院議長となった藤沢幾之輔の花押(図86)は、図87左の実線部分が「藤」の草体、右の点線部分が「沢」の旁部の草体(図88)で、縦線を「藤」右位置に移して、「沢」の「□」を兼ねさせた形である。もう一つ、外務大臣として太平洋戦争の開戦と敗戦に直接かかわった東郷茂徳の花押(図89)は、図90左の実線部分が「東」の草体(一九〇頁、平田東助の花押参照)、右の点線部分が「郷」の草体(図91)である。
以姓二字的二合有幾個例子,首先改進黨的代議士第一次若槻內閣的商工大夫,成為眾議院議長的藤澤幾之輔花押(圖86),圖87左邊實線是「藤」的草書體,右邊虛線是「澤」的偏旁的草體(圖88),縱線移到「藤」的右邊,兼「澤」的「」。與太平洋戰爭開戰與戰敗有直接關係的外務大臣東鄉茂德的花押(圖89),圖90左邊的實線是「東」的草書體(參照頁一九○的平田東助花押),右邊虛線是「鄉」的草書體(圖91)。
頁196
草名
草名花押-196
名前の独特な崩し方で、草名とよぶべきものに桂太郎(図92)と伊東巳代治(図94)のものがある。桂のものは「大」に左下の点を加えて「太」、縦線(点線部分)が「郎」を表す(図93)。伊東巳代治のものは、分解すれば図95のようになる。「巳」と「治」はほとんど点になり、「代」は縦線二本と点で表される(筆順では「代」の点が最後に打たれたらしい)。独
伊藤博文直系の官僚から立身して枢密顧問顧問官となり、「憲法の番人」をもって自任した
獨特的以崩字書寫的名字,稱名草名的桂太郎(圖92)與伊東巳代治(圖94)。桂太郎的花押「大」下面的點是成「太」字,縱線(虛線的部分)是表示「郎」(圖93)。
伊藤博文直系官僚立身的樞密顧問官以「憲法的番人」自居的伊東巳代治,分解成圖95.「巳」與「治」大約是點,「代」是二條縱線,
頁197
特な形象化と筆勢とがあいまって出来上がったこの花押(草名というべきか)は、明治以降の花押界の傑作ではなかろうか。
ローマ字の花押
学者・外交官その他の西欧の間に人気のあったらしいローマ字の花押をあげてみる。
幕末に渡英して数学を修め、明治三十一年東京帝大総長、ついで文部大臣となった菊池大麓の花押(図96)は彼のイニシアルD・K(図97)の組み合わせである。
明治末から大正初年にかけての代表的外交官、石井・ランシング協定で知られる石井菊次郎の花押(図98)は図99の実線部分が「K」、点線部分が「Ⅰ」で彼のイニシアルの組み合わせであろう。次も外交官で犬養内閣の外務大臣となった芳澤兼吉の花押(図100)は彼のイニシアルK・Yの下に「吉」をつけたもののようである(図101)。
次に日銀総裁・大蔵大臣となり、昭和七年血盟団員の凶弾に斃れた井上準ノ助の花押(図102)は彼のイニシアル、J・Iを筆記体で縦書きに書いたもの(図103)。横書きをその
獨特的形象化,形與筆勢一起的花押(應稱為草名),是明治以降的花押界傑作。
羅馬字的花押-197
學者、外交官在西歐派,有著人氣的羅馬字花押,在幕末留學英學專修數學,明治三十一年東京帝大總長,任職文部大臣的菊池大麓花押(圖96)個人姓名D.K(圖97)的組合。
從明治末到大正初年的外交官代表石井.ランシング協定的石井菊次郎的花押(圖98),圖99的實線部分是「K」,虛線部分是「I」,個人姓名的組合。在外交官中,成為犬養內閣的外務大臣芳澤謙吉花押(圖100)是其個人姓名K.Y加上「吉」字(圖101)。
日銀總裁、大藏大臣,在昭和七年被血盟團員以子彈擊斃的井上準之助花押(圖102)其名字是以手寫縱書(圖103)。橫書
頁198
まま立てたので、筆順も下から上へ書くようになっている。
民政党内閣の外務大臣、そして敗戦後、東久邇宮内閣退陣のあとを受けて総理大臣となった幣原喜重郎の花押(図104)は「十」(重の意?)と「K」の組み合わせに底線を引いたもの。外交官・外交評論家そして戦後、日本民主党を結成して総理大臣となった蘆田均の花押(図105)は彼のイニシアルAとHの組み合わせである。
外交官を中心にローマ字の花押をまとめてみたので、次に軍人の花押を少しまとめて観察する。
的話,筆順是從下到上書寫。
民政黨內閣的外務大臣,在戰敗後,從東久邇宮內閣退出,成為總理大臣的幣原喜重郎花押(圖104)是「十」(重的意思?),與「K」組合加上底線。作為戰後外交官、外交評論家,結成日本民主黨的總理大臣蘆田均花押(圖105),其個人姓名是A與H組合。
以外交官為中心的羅馬字花押後,其次觀察較少的軍人花押。
頁200
軍人の花押
軍人的花押-200
軍人の花押には天地二線もしくは底線のあるものが多い。知られる花押の大部分といってもよいほどである。
明治初年独乙式陸軍の創設者で大正元年陸軍大臣となった木越安綱の花押(図106)は「木」の一部に「安」を重ねて底線を加えたもの(図107)。また長州出身で大正初年陸軍大臣となった岡市之助の花押(図108)は「市」に底線を加えたもの。陸軍長州閥最後の総帥上原勇作の花押(図109)は「勇」に左縦線と底線を加えたもの。陸軍大将から政界
軍人的花押以天地二線或底線居多,所知的花押大部也是不錯的。
明治初年獨乙式陸軍的創設者大正元年陸軍大臣木越安綱的花押(圖106)是「木」的一部分,與「安」重疊加上底線(圖107)。長州出身的大正初陸軍大臣岡市之助的花押(圖108)是「市」加上底線。陸軍長州閥最後的總帥上原勇作的花押(圖109),是「勇」左邊縱線加上底線。從陸軍大將轉任政界
一字の花押181
一字花押-181
型によってまとめてみると、大臣の花押に関する限り、一字の花押すなわち名の一字もしくは姓の一字を用いたが圧倒的に多い。
まずの一字を用いたものとして、井上毅の花押(図14)は「毅」に底線を加えた簡明なもの。次に陸奥宗光の花押(図15)は明らかに「光」。ただ筆順は通常の書方とちがい、図16のような順序で、二つの点が最後にくるようである。創設期日本海軍の重鎮仁礼景範の花押(図17)は「景」で(図18)、終筆に当る右下部を大きく張り出しているのは前述
大臣的花押,一字花押是指名字的一字,可能用姓的花押佔壓倒性多數。
首先以名為一字的花押,井上毅(圖14)用「毅」加上底線,十分簡明。陸奧宗光的花押(圖15),明白是「光」。只是通常書寫的筆畫順序不同,圖16的順序,最後加二點。日本海軍創設者重鎮仁禮景範的花押(圖17)是「景」(圖18),最後筆是右下部外張,如前述
頁182
した江戸時代の型の名残りといえようか。日露戦争終結のボーツマス条約で日本代表をつとめた小村寿太郎の花押(図19)は「壽」の草体に底線を加えたもの。次に自由民権運動期の代表的政治家、板垣退助の花押(図20)は「退」と見てよいだろう。図21に点線で示した終筆が辶の一部とも、艮の一部とも見え、あるいは両方を兼ねているのかもしれない。現職の首相で最初にテロの犠牲者となった原敬の花押(図22)は「敬」の偏部「苟」の草体(図23)を形象化したものと見られる。次に、文部大臣としてよりも、風格のある帝大総長として知られる浜尾新の花押(図24)は
留下江戶時代殘留的外型。日俄戰爭結束,負責ポーツマス條約日本代表小村壽太郎的花押(圖19)是「壽」的草書體加底線。自由民權運動時期代表政治家板垣退助的花押(圖20)是「退」字,圖㈱虛線以「」為最後筆畫,左上二點是「」的一部分,也可見到「艮」的一部分,或兩者兼有。現職首相最初被暗殺的犧牲者原敬的花押(圖22)是「敬」的偏旁「苟」的草書體(圖23)的形象化。作為文部大臣有風格的帝國大學總長濱尾新的花押(圖24)
頁183
「新」の草体(図25)の変形。これと似た作り方に、大正末から昭和にかけて宮内大臣・内大臣に任じ、二・六事件で危うく暗殺を免れた牧野伸顕(吉田茂の岳父)の「顕」の花押(図26)がある(なお、第Ⅴ章一三六―一三八頁参照)。
東京駅頭、血盟団員の凶弾に斃れてついに再起できなかった首相浜口雄幸の花押(図28)は「雄」字で、「隹」の終筆の横線を長く引いて江戸時代以来の型にまとめている。五・一五事件で斃れた首相犬養毅の花押(図29)は「毅」の草体(図30)に底線を加えたもの。同じ字を用いても井上毅のものと比べて洗練された感じを受ける。ついで二・二六
是「新」的草書體(圖25)的變形,與其相似的作品是從大正末到昭和任職宮內大臣、內大臣在二、二六暗殺事件免於被暗殺的牧野伸顯(吉田茂岳父)以「顯」為花押(圖26)(參照第Ⅴ章頁一三六-一三八)
東京火車站因血盟團員的兇彈擊斃的首相濱口雄幸的花押(圖28)是「雄」字,最後筆畫是以「隹」結束,底線橫長,是江戶以來的樣式。五一五事件被擊斃的首相犬養毅的花押(圖29)是「毅」的草書體(圖30)加底線。同樣的字,井上毅的字更洗練。二二六事件
頁184
事件に斃れたない大臣斉藤実の花押(図31)は「実」の草体(図32)だが、「毋」の運筆(図33)にちょっと工夫を加えている。また近衛文麿の花押(図34)は「文」の古体「□」を用いている。最後の元老西園寺公望の花押(図36)は「望」の草体そのもの、清浦奎吾(図37)は実線部分が「五」、点線部分が「口」を表す。清浦はこの花押を少し変えて全体に丸い感じ花押(図39)も用いた。「腕の喜三郎」最後の政友会総裁鈴木喜三郎の花押(図40)は「喜」の草体(図41)、「選挙の神様」の異名通り凄腕の内務大臣安達謙蔵の花押(図42)は「謙」の草体(図43、「兼」の終画を長く引いて底線とする)、独ソ不可侵条
被擊斃的內大臣齋藤實的花押(圖31)是「實」的草書體(圖32),以「毋」來運筆(圖33),有加入一點工夫。近衛文磨的花押(圖34)是「文」的古體「」。最後的元老西園寺公望的花押(圖36)是「望」的草書體,清浦奎吾(圖37)的實線是「五」,虛線是「口」的意思。清浦的花押很少變化,整體的感覺似圓形(圖39)。「鐵腕喜三郎」最後政友會總裁鈴木喜三郎的花押(圖40)是「喜」的草書體(圖41),,有「選舉之神」的異名厲害的內務大臣安達謙藏的花押(圖42)是「謙」的草書體(圖43「兼」的最後筆畫拉長成為底線),發表德蘇不可侵犯條約
頁186
約の発表に為す術を知らず、「複雑怪奇」の語を残して政権を投げ出し平沼騏一郎の花押(図44)は「騏」の草体(図45)に底線を加えたもの。法学者から官界に入り文相・内相ついで宮相に任じ、枢密院議長となった一木喜徳郎の花押(図46)は「徳」の草体(図47)を形象化して、終画を長くして底線としたもの。検事総長・大審院長から広田内閣の司法大臣となった林頼三郎の花押(図48)は図49の実線部分が「束」に当ることは明らかだが、点線部分が「負」を表すかどうか、にわかに断定できない。ともかく「頼」を採って形象化し、底線を加えたものというってよい。
次に姓の一字を用いたものをあげると、明治の政治家の随一の名筆を謳われた副島種臣の花押(図50)は「副」の一字である。図52イの右上部の点線部分が「□」で、同じく実線部分が「□」であろう。運筆はなかなか凝っていて、図52ロのように書いたものらしい。(東京)帝国大学の文科大学学長・総長を経て伊藤内閣の文部大臣たなった外山正一(ゝ山)の花押(図53)は「外」の草体(図54)を少し変形させて(第一画を長くて、縦線を短くして)「分」の草体(図55)と見まがう形にしている。降って太平洋戦争敗戦直後の外務大臣として、米艦ミズーリ号上で降伏文書に署名調印した重光葵の花押(図56)は「重」の草体
留下「複雜奇怪」的話於政權上的平沼騏一郎的花押(圖44)是「騏」字的草書體(圖45)加上底線。從法學入官界文相及內相,任職宮相,成為樞密院議長的一木喜德郎的花押(圖46)是「德」的草書體(圖47)的形象化,最後以長底線為結尾。從檢事總長、大審院長成為廣田內閣的司法大臣林賴三郎的花押(圖48)是圖49的實線為「束」,虛線為「負」,一時無法斷定,此外「賴」字是採形象化,加上底線。
其次是用姓的一個子,明治政治家中的第一名筆副島種臣的花押(圖50)是「副」的一個字。圖52的右上部虛線是「」,同樣的實線是「」。運筆中凝聚力量,圖52如口的樣式。經歷(東京)帝國大學文科大學長、總長的伊藤內閣文部大臣外山正一(ゝ山)的花押(圖53)是「外」的草書體(圖54)變化較少(第一畫長,加短的縱線),其形是「分」的草書體(圖55)。太平洋戰爭戰後之後成為外務大臣,在美國艦上密斯理號簽下投降書的重光葵花押(圖56)是「重」的草書體
頁189
(図57)で、少し左に傾けてあるのが一工夫といったところ。
一字の最後にあげたいのは、健全財政を堅持して軍部に憎まれ、二・二六事件で殺された高橋是清の花押(図58)である。これは明らかに「恭」の形象化であって、姓名にない字であるから、高橋にとって特別の意味をもった字と考えられる。
二合の花押
伊藤博文の信任を得て大蔵大臣・逓信大臣に任じた初期政友会の重鎮渡辺国武の花押(図59)は、図60の実線部分が「武」の古体
(圖57),向左一點點傾斜,是其工夫。
最後舉的一字花押,是堅持健全財政,憎恨軍隊在二二六事件被殺的高橋是清的花押(圖58),可知其是「恭」的形象化,不是姓名,對高橋是有特別的意思。
二合花押-189
得到伊藤博文信任,仕職大藏大臣、遞信大臣初期政友會的重鎮渡邊國武花押(圖59),圖60的實線部分是「武」的古體
頁190
で、点線部分が口(くにがまえ)で「国」を表す。外交官出身で寺内内閣の外務大臣となった本野一郎の花押(図62)は、上の横線(天)が「一」、中間の半円と右の点で「ら」=「郎」、これに底線(地)を引いて明朝体にまとめたもの(後出の鳩山一郎の花押参照)。初期自由民権論者で、明治三十一年大隈内閣の逓信大臣、林有造の花押(図63)は「有」に「造」の「辶」を加えたもの。桂・山県系の官僚で内務大臣から内大臣に進んだ平田東助の花押(図64)は、図65左の点線部分が「東」の草体(図66)、右の「ゆ」に見えるのが「助」を表わし、これに底線を加えたもの。大正デモクラシーに立役者、憲政会初代総
虛線部分是口(國字),表現國字。以外交官出身任職外務大臣本野一郎的花押(圖62),上橫線(天)是「一」,中間的半圓及右邊的點是「ら」=「郎」」,底線(地)是成明朝體(參照後來的鳩山一郎的花押)。在初期自由民權論者,明治三十一年大隈內閣的遞信大臣、林有造的花押(圖63)是「有」及加上「造」的「」。桂、山縣系官僚,從內務大臣進昇到內大臣的平田東助花押(圖64),圖65左邊的虛線是「東」的草書體(圖66),右邊是「ゆ」,表示「助」,再加上底線。
大正民主主義的創立者,憲政會初代總裁
頁191
裁として大正十三年首相となった加藤高明の花押(図67)は、図68左の実線部分が「高」の花押(図67)は、図68左の実線部分が「高」の一部「日」、点線が「月」の草体(但し終筆は底線に代える)。なお「高」を花押化する場合、中間部分「日」を採る例は古く北条高時、足利高氏に見られる(一二九頁、図77参照)。台湾民政長官、満鉄初代総裁を経て内務大臣となった後藤新平の花押(図70)は「新」の草体(一八三頁、浜尾新の花押参照)に「平」をそのまま重ねた形で、平凡な面白味のない花押である。文部官僚から立身して文部大臣・枢密顧問官に昇った岡田良平の花押(図72)は図73中間の「ら」が「良」を表し、上下の点線部分が天地二線で「平」を
成為大正十三年首相的加藤高明花押(圖67),圖㘸左邊的實線是「高」的一部分,虛線部分是「月」的草書體(終筆以底線替代)。「高」的花押化,中間部分以「日」為例,是古代北條高時、足利高氏(參照圖77,頁一二九)。經歷臺灣民政長官、滿鐵初代總裁,成為內務大臣的後藤新平花押(圖70)是「新」的草書體(參照頁一八三,濱尾新的花押)與「平」字重疊,是平凡沒有趣味的花押。從文部官僚立身為文部大臣,再進昇到樞密顧問官的岡田良平花押(圖72)是圖73中間的「ら」表示「良」字,上下虛線是天地二線
頁192
表す。「平」を花押化する場合このように天地二線で表すのは、古くからの技法である(縦線を用いる場合も天地の間に収めて、下に突き出さない)。
明治三十一年憲政党創立委員、ついで農商務大臣となった大石政巳の花押(図74)は難解で、以下は全く試案にすぎない。すなわちこの花押を裏返しにして、左に九〇度倒すと図75のようになる。これの点線部分(但し終筆のU字形を除く)は「巳」と読める。すると上部の実線部分は「正」を表すのではないか。そして点線終筆(U字形)は、倒置した場合の底線に当るから、いわば形を整えるための補助線ではなかろうか。
表示「平」,「平」字花押化以天地二線,是古代的技法(縱線在天地間收納,不突艸)。
明治三十一年創立憲政黨委員,成為農商務大臣的大石正巳的花押(圖74)很難了解,無法全部解釋。這個花押是翻面,再向左九十度傾倒,成為圖75。虛線的部分(最後筆畫是U型)讀成「巳」。上部實線的部分不是表示「正」字嗎?如此的話以補助線整形。
頁193
降って、官僚から政界に入り、浜口内閣の文部大臣、のち東京市長となった小橋一太の花押(図76)は「一太」の二字をそのまま形象化したもの。外交官で敗戦時の駐ソ大使佐藤尚武の花押(図77)も名の二字を用いたもので「尚」を左に、「武」の草体「む」を右に並べたもの。また、満鉄総裁から近衛内閣の外務大臣となり、訪独の帰途、ソターリンと日ソ中立条約の締結に成功した松岡洋右の花押(図78)は図79のように「洋」と「右」を重ねた形である。この場合、「羊」の縦線は「平」の場合と同じ下に突き出さないで、終筆が底線の形となっている。厚相・文相を経て内大臣となり、東条英機を首相に指名し
從官僚進入政界的濱口內閣文部大臣,之後成為小橋一太的花押(圖76)是「一太」的形象化。在戰敗時駐蘇大使佐藤尚武的花押(圖77)用名的二個字,左邊是「尚」,右邊是「武」的草書體「む」,兩者並例。從滿鐵總裁到近衛內閣的外務大臣,在訪德歸途中,與斯坦利締結了日蘇中立條約的松岡洋右的花押(圖78)是圖㜹「洋」與「右」重疊,「羊」的縱線是「平」一樣,但下面未突出,以底線為終筆。經歷了厚相、文相的內大臣,受東條英機指名為首相
頁194
た木戸幸一は「幸」の草体(図81)に「一」を加えた簡単なもの。
強いて分類すれば名の二合といえるものに、長州閥の雄、明治二十四年松方内閣の内務大臣品川彌二郎の平仮名花押(図82)がある。品川も幕末期には図83のような、諱(日孜)の一字「孜」を形象化し、天地二線を加えた花押を用いたが、大臣時代の内閣文書には「や」に「じ」を重ねた花押を用いた。
三字の名をもりこんだ花押に、内務官僚出身で東条内閣の内務大臣となった湯沢三千男のものがある(図84)。これを分解すると図85のようになる。真上から下ろした縦線はあるいは「力」の終画であろうか。
的木戶幸一的花押(圖80)是「幸」的草書體(圖81)加上「一」是簡單的形體。
要強烈的分類二合花押,長州閥的雄,明治二十四年任松方內閣的內務大臣品川彌二郎的平假名花押(圖82),品川也是幕末的花押(圖83),諱(日孜)的一字「孜」形象化,加上天地二線,在大臣時代的閣議文書以「や」及「じ」重疊使用。
盛行以名字三個字的花押,出身內務官僚成為東條內閣的內務大臣湯澤三千男(圖84)分解成圖85,從上直下的縱線是「力」的取後筆畫
頁195
次に、同じ二合でも姓の二字を用いたものがいくつかある。まず改進党系の代議士で第一次若槻内閣の商工大臣、ついで衆議院議長となった藤沢幾之輔の花押(図86)は、図87左の実線部分が「藤」の草体、右の点線部分が「沢」の旁部の草体(図88)で、縦線を「藤」右位置に移して、「沢」の「□」を兼ねさせた形である。もう一つ、外務大臣として太平洋戦争の開戦と敗戦に直接かかわった東郷茂徳の花押(図89)は、図90左の実線部分が「東」の草体(一九〇頁、平田東助の花押参照)、右の点線部分が「郷」の草体(図91)である。
以姓二字的二合有幾個例子,首先改進黨的代議士第一次若槻內閣的商工大夫,成為眾議院議長的藤澤幾之輔花押(圖86),圖87左邊實線是「藤」的草書體,右邊虛線是「澤」的偏旁的草體(圖88),縱線移到「藤」的右邊,兼「澤」的「」。與太平洋戰爭開戰與戰敗有直接關係的外務大臣東鄉茂德的花押(圖89),圖90左邊的實線是「東」的草書體(參照頁一九○的平田東助花押),右邊虛線是「鄉」的草書體(圖91)。
頁196
草名
草名花押-196
名前の独特な崩し方で、草名とよぶべきものに桂太郎(図92)と伊東巳代治(図94)のものがある。桂のものは「大」に左下の点を加えて「太」、縦線(点線部分)が「郎」を表す(図93)。伊東巳代治のものは、分解すれば図95のようになる。「巳」と「治」はほとんど点になり、「代」は縦線二本と点で表される(筆順では「代」の点が最後に打たれたらしい)。独
伊藤博文直系の官僚から立身して枢密顧問顧問官となり、「憲法の番人」をもって自任した
獨特的以崩字書寫的名字,稱名草名的桂太郎(圖92)與伊東巳代治(圖94)。桂太郎的花押「大」下面的點是成「太」字,縱線(虛線的部分)是表示「郎」(圖93)。
伊藤博文直系官僚立身的樞密顧問官以「憲法的番人」自居的伊東巳代治,分解成圖95.「巳」與「治」大約是點,「代」是二條縱線,
頁197
特な形象化と筆勢とがあいまって出来上がったこの花押(草名というべきか)は、明治以降の花押界の傑作ではなかろうか。
ローマ字の花押
学者・外交官その他の西欧の間に人気のあったらしいローマ字の花押をあげてみる。
幕末に渡英して数学を修め、明治三十一年東京帝大総長、ついで文部大臣となった菊池大麓の花押(図96)は彼のイニシアルD・K(図97)の組み合わせである。
明治末から大正初年にかけての代表的外交官、石井・ランシング協定で知られる石井菊次郎の花押(図98)は図99の実線部分が「K」、点線部分が「Ⅰ」で彼のイニシアルの組み合わせであろう。次も外交官で犬養内閣の外務大臣となった芳澤兼吉の花押(図100)は彼のイニシアルK・Yの下に「吉」をつけたもののようである(図101)。
次に日銀総裁・大蔵大臣となり、昭和七年血盟団員の凶弾に斃れた井上準ノ助の花押(図102)は彼のイニシアル、J・Iを筆記体で縦書きに書いたもの(図103)。横書きをその
獨特的形象化,形與筆勢一起的花押(應稱為草名),是明治以降的花押界傑作。
羅馬字的花押-197
學者、外交官在西歐派,有著人氣的羅馬字花押,在幕末留學英學專修數學,明治三十一年東京帝大總長,任職文部大臣的菊池大麓花押(圖96)個人姓名D.K(圖97)的組合。
從明治末到大正初年的外交官代表石井.ランシング協定的石井菊次郎的花押(圖98),圖99的實線部分是「K」,虛線部分是「I」,個人姓名的組合。在外交官中,成為犬養內閣的外務大臣芳澤謙吉花押(圖100)是其個人姓名K.Y加上「吉」字(圖101)。
日銀總裁、大藏大臣,在昭和七年被血盟團員以子彈擊斃的井上準之助花押(圖102)其名字是以手寫縱書(圖103)。橫書
頁198
まま立てたので、筆順も下から上へ書くようになっている。
民政党内閣の外務大臣、そして敗戦後、東久邇宮内閣退陣のあとを受けて総理大臣となった幣原喜重郎の花押(図104)は「十」(重の意?)と「K」の組み合わせに底線を引いたもの。外交官・外交評論家そして戦後、日本民主党を結成して総理大臣となった蘆田均の花押(図105)は彼のイニシアルAとHの組み合わせである。
外交官を中心にローマ字の花押をまとめてみたので、次に軍人の花押を少しまとめて観察する。
的話,筆順是從下到上書寫。
民政黨內閣的外務大臣,在戰敗後,從東久邇宮內閣退出,成為總理大臣的幣原喜重郎花押(圖104)是「十」(重的意思?),與「K」組合加上底線。作為戰後外交官、外交評論家,結成日本民主黨的總理大臣蘆田均花押(圖105),其個人姓名是A與H組合。
以外交官為中心的羅馬字花押後,其次觀察較少的軍人花押。
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軍人の花押
軍人的花押-200
軍人の花押には天地二線もしくは底線のあるものが多い。知られる花押の大部分といってもよいほどである。
明治初年独乙式陸軍の創設者で大正元年陸軍大臣となった木越安綱の花押(図106)は「木」の一部に「安」を重ねて底線を加えたもの(図107)。また長州出身で大正初年陸軍大臣となった岡市之助の花押(図108)は「市」に底線を加えたもの。陸軍長州閥最後の総帥上原勇作の花押(図109)は「勇」に左縦線と底線を加えたもの。陸軍大将から政界
軍人的花押以天地二線或底線居多,所知的花押大部也是不錯的。
明治初年獨乙式陸軍的創設者大正元年陸軍大臣木越安綱的花押(圖106)是「木」的一部分,與「安」重疊加上底線(圖107)。長州出身的大正初陸軍大臣岡市之助的花押(圖108)是「市」加上底線。陸軍長州閥最後的總帥上原勇作的花押(圖109),是「勇」左邊縱線加上底線。從陸軍大將轉任政界
January 4, 2008
頁161
見えるのが「おゝ」(図34)で、全体で「千年おゝとり」と読むことができる。そして、あたかも当時岐阜の大智寺に住した禅僧景聡の詩(『仁岫快川大愚等法語雑録』所収)に「千年一遇麟耶鳳」なる句があって、重治の花押が信長の「麟」と同じ含意になることが知られるのである。なお、この花押は二字あるいはそれ以上の字数を含み、一部に文字の裏返しを用いている点で、他にあまり例を見ない複雑かつ奇抜な花押である(一七五頁の付記を参照)。
「」,全體讀成「千年」。以當時岐阜大智寺的禪僧景聰寫的詩「千年一遇麟耶鳳」(《仁岫快川大愚等法語雜錄》),重治的花押與信長的「麟」有同意的含意。並且,這個花押是含二個字或以上的字數,一部分用翻面的字,複雜的情形不見於其他例子。(參照頁一七五的付記)95.10.17
頁162
二 権威志向型の盛行
この時代の武家の花押に顕著な特徴的現象として次にあげたいのは、権威的人物の花押を模倣し、それによってその人物への追随なり、その人物の権威への憧憬なりを示そうとする傾向である。まず二、三の例をあげよう。
足利義氏は鎌倉公方の末裔として、波瀾にみちた政治的生涯を送った人物だが、丹念な文書調査の上になった佐藤博信氏の「足利義氏とその文書」(『日本歴史』一九七三年二月号所載)によれば、義氏の花押はⅠ型からⅣ型まで四種あって(図36~39)、それぞれの使用年代は次のようになっている(カッコ付の年次は、所依の文書に年付がなくて、推定による年次であることを示す)。
Ⅰ 型 天文二十四年(一五五五)十一月二十二日より(永禄七年〔一五六四〕)二月十八日
Ⅰ型 天文二十四年(一五五五)
二 盛行權威志向形式-162
武家花押顯著的特徵是模仿權威的人物花押,根據這個行為追隨其人,是表示憧憬這個權威人物。首先舉二、三例。
鎌倉公方的末裔足利義式,在其政治生涯中充滿了波瀾,根據佐藤博信氏的專心於文書的調查其文〈足利義氏とその文書〉(《日本歷史》一九七三年二月號所載),義氏的花押從Ⅰ型到Ⅳ型四種(圖36~39),有著各種使用的年代(括弧所付的年次,並沒有文書記載,是推定出來的)。
Ⅰ型 天文二十四年(一五五五)十一月二十二日到(永祿七年〔一五六四〕)二月十八日。
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以降に及ぶ。
Ⅱ 型 永禄七年八月一日より(永禄八年)八月七日以降に及ぶ。
Ⅲ 型 (永禄九年)三月二十八日以前より(永禄十一年)五月二十日以降
に及ぶ。
Ⅳ 型 (永禄二十年)二月十三日以前より天正十年(一五八二)十月二十
八以降に及ぶ。
つまり義氏はⅠ型から順次Ⅳ型まで、生涯に三度花押を変えていることになる(義氏の没年は京暦の天正十一年正月二十一日、関東の暦では天正十閏十二地月二十日)。そこで問題はこれら四類の花押の形であるが、まずⅠ型が始祖足利基氏以来鎌倉公方の伝統的な形(図
Ⅱ型 永祿七年八月一日起,到(永祿八年)八月七日。
Ⅲ型 (永祿九年)三月二十八日以前開始,至(永祿十一年)五月二十日。
Ⅳ型 (永祿十二年)二月十三日以前至天正十年(一五八二)十月二十八日。
總之,義氏是從Ⅰ型到Ⅳ型,在其生涯有三次花押的改變(義氏死於京曆天正十一年正月二十一日,關東曆天正十年閏十二月二十日)。四個花押,首先是佐藤博信氏在其文指出Ⅰ型是繼承始祖足利基以來的鎌倉公方的傳統形
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40~46)を継承していること、佐藤博信氏の上記論稿の指摘する通りである。すなわち歴代の鎌倉公方の花押は、氏満・満兼のある時期の花押や持氏の花押外はおおむね底線を水平に引く点で明らかに足利将軍家歴代の花押と異なっている。さらに考えれば足利基氏の花押に始まるこの特徴は、実は、鎌倉公方の事実上の始祖であり、個人的にも基氏敬慕の対象でもあった叔父直義の花押(図47)から起こっているのではないか、また、この特徴に対して、ある時期の氏満の花押や持氏の花押(図48、49、50)が例外をなすこと自体に、それなりの政治的理由があるのではないか。ともあれ、鎌倉公方の誰の代からこの特
(圖40~46)。歷代的鎌倉公方花押,足利氏滿、滿兼時期及足利持氏的花押之外,與足利將軍歷代的花押大概以水平為底線不同。考量足利基氏的花押開始的特徵,事實上是鎌倉公方的始祖,並不是起於基氏敬慕的對象其叔父直義的花押(圖47),在氏滿及持氏的花押(圖48、49、50)是自成一格,並非政治理由。無論如何,應自覺出鎌倉公方代表的特徵
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徴が自覚されて、以後歴代の花押を律する祖型が作り出されたかは、今後の究明にまつとして、義氏が初めて花押を作成するに当って、鎌倉公方の伝統型にのっとってⅠ型を定めたことは確かであろう。とすれば、永禄七年(十五六四)八月この伝統型をすてたことは、それだけでも甚だ重要な意味をもつ政治的行為とせねばならぬが、新たに採用したⅡ型が時の将軍義輝の花押(図51)と酷似している点に、より一層の注意を喚起したいのである。すなわち両花押の間には偶然の類似といった程度を超えて、義氏の花押には明瞭に義輝の花押を模倣した跡を認めることができる。そして佐藤氏の上記論稿の指摘する如く、
成為以後歷代花押的祖型,義氏開始初作花押,取後鎌倉公方傳統型的支配權定下Ⅰ型。在永祿七年(一五六四)八月捨棄了這個傳統型,有何政治行為呢,新採用的Ⅱ型是酷似義輝將軍的花押(圖51),有一點要注意,是兩者之間超過偶然的程度,很明顯是模仿了義氏的花押,如佐藤氏的論文指出的,
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このⅡ型の使用が、義氏の鎌倉帰座に当って、八州静謐、なかんずく房総の本意に属せんことを鶴岡八幡宮に祈った願文(『鎌倉市史』史料編一、鶴岡八幡宮文書一一三号)から始まっているとすれば、義氏の花押のⅠ型からⅡ型への移行に、自身を足利将軍との対比において位置づけようとする義氏の明確な政治意志の表明を読み取ることができよう。
義氏の花押Ⅱ型が将軍義輝の花押の模倣、追随の対象の身上に重大な変化が起これば、それが義氏の花押に反映するのは当然かもしれない。永禄八年八月から翌九年三月までの間に、義氏はⅡ型に小変化を加えてⅢ型を作るわけだが、永禄八年五月十九日の将軍義輝の横死が、この小変化を引き起こしたと見てはどうであろうか。そして、もう一つ推測を重ねるならば、永禄十一年九月足利義昭の入洛によって、足かけ四年に及んだ京都将軍空白が終わりを告げる、この中央の政変が、義氏の花押をⅢ型からⅣ型に移行させたのではないか。
次には朝倉義景の花押をあげたい。義景ははじめ武家様の花押(図52。図51の将軍義輝の花押と同類)を用いたが、晩年に至って新型の花押(図53)に変える。この花押は現在のところ、永禄十一年九月六日付、白山神社知行目録(白山神社文書)の署判を初見とする以
Ⅱ型的使用是成為將軍,為了安穩八州,屬本意於房總的鶴岡八幡宮發祈願文(《鎌倉市史》史料編一,鶴岡八幡宮文書一一三號),義氏的花押從Ⅰ型到Ⅱ型,是將自己放於足利將軍的位置,明確表明其政治意志。
義氏花押Ⅱ型是模仿義輝將軍的花押,起於模仿、追隨對象的身上有了重大的變化,當然可能反映在義氏的花押。永祿八年八月起到翌九年三月,義氏的Ⅱ型起了小變化成為Ⅲ型,因為永祿八年五月十九日義輝將軍橫死,引起了小變化。此推測,永祿十一年九月足利義昭進入京都,告別了京都將軍四年的空白期。這個中央的政變不是義氏從Ⅲ型到Ⅳ型的移動。
朝倉義景的花押,開始是以武家花押(圖52與義輝將軍圖51的花押同類),到晚年改用新型花押(圖53)。現在的花押是永祿十一年九月六日付於白山神社知行目錄(白山神社文書)的署判中
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上に、使用の上限を限定できないが、その形は将軍義晴の花押(図55)の忠実な模倣である。義晴の花押は武家様が一種(図54)、公家様が二種(図55、56)あって、義景が拠ったのは公家様のⅡ型である。両者を対照すれば明らかなように、ともに「義」の字を原拠とし、横長・下向き彎曲で、義晴のものにゆるく左右に傾斜する山がたの線を加えて、底線を流線型にしたのが義景の花押である。義景が、同時代の将軍(義輝もしくは義昭)ではなくて、すでに世になき先代将軍義晴(天文十九年〔十五五〇〕死没)の花押を模した理由は判然としない。横長・下向き彎曲をもって特徴づけられる義晴の花押類型が、一種の
不限定使用上限。此形是忠實的模仿義晴將軍的花押(圖55),其花押有一種武家型(圖54)及二種公家型(圖55、56),義景是依據公家樣式的第Ⅱ型。對照兩者可知,同樣是以「義」字,義晴的花押是橫長、向下彎曲型,加上緩緩低左右傾斜的山形,底線是流線型。義景(義輝或義昭)並無法理解其同時代的將軍仿已經過世的先代義晴將軍(天文十九年〔一五五○〕死)花押的理由。義晴花押的類型是橫長、且向下彎曲的特徵,
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流行のように十六世紀後半の近江・美濃。越前地域に広がっていたことを考慮に入れる必要はあろうけれども、この流行現象をもって義景の花押を説明しおおせるには、義春のそれとの酷似の度はあまりにも大きい。花押選定において、義晴その人及びその花押に対する明確なる意識が、義景にはあったにちがいない。おそらく義景は、義晴の花押を忠実に模することによって、義晴に対する追随の念を表現しようとしたのであろう。ここでは単に追随の念としか表現できないが、その内容が具体的に何であるか、それは今後、義景の花押使用の上限をより一層限定し、また彼が、室町幕府の故実の上では管領クラスの官途とされた左衛門督に任ぜられた事実なども併せ考えることによって、明らかにできるであろう。
横長・下向き彎曲型花押の流行について付言すれば、実は将軍義晴と同時代の人物で、義晴の庇護者をもって自ら任じた近江の六角定頼の花押(図57)が、上記の特徴をより一層きわ立たせており、義晴の花押自体が定頼のそれの影響下に形象化された可能性が強い。従って、上記の特徴をもつ花押のすべてを、義晴の花押類型の流行現象をもって説明することは行きすぎであって、現に浅井久政(図8)のような明らかな定頼型の事
廣泛流行於十六世紀後半的近江、美濃及越前地域,其流行義晴花押並與其酷似。選定花押是忠實的模仿義晴的人及其花押,義景並沒有不同。義景可能是忠實的模仿義晴的花押,表現出對追隨義晴的意念。並不是單單表現追隨的意念,具體的內容為何,在由於義景的花押有更進一步的限定,並且應考量室町幕府的先例上任職於管領階層的官途的左衛門督。
流行橫長、向下彎曲的花押,與義晴將軍同時代的人,以義晴的庇護者自居的近江六角定賴的花押(圖57),更加確定上記特徵,定賴的花押受義晴的影響下形象化可能性很大。上述的特徵已可說明義晴花押流行的現象,現在淺井久政(圖8)可明白是定賴型的花押。
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例があることは否定できないけれども、他面、後に問題にする斎藤道三・義龍父子(図58、59)の如く、義晴型と認めるべき花押の少なくないことも事実である。
一般に花押を作成するに当って、父祖・主人その他本人にとって何らかの意味での権威と認められる人物の花押を模倣する風潮は広く存在しており、武家の社会にはとくにその風潮が強かった。室町時代における足利様の盛行はその最たる例である。しかし、ここで戦国時代、織豊期の花押の特徴的現象として強調したいのは、右の一般的風潮と根ざすところは同じであるにしても、他の時代に比して遥かに露骨な形で政治的権威たる特徴個
其外,如齋藤道三、義龍父子(圖58、59),不少是義晴型的花押。
一般作成花押,以祖父及主人與本人之間有何關連,模仿其花押的風潮廣泛存在,特別是武家社會中很強。室町時代盛行足利樣式,可是戰國時代、織豐時期的花押強調的特徵,與其他的時代更顯露出表現對政治權威下
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人への志向が花押に表現される点である。すなわち特定の権威への直接的、顕示的な追随、その裏返しとしての権威を失った者に対する背反の意志が、花押の作成、改変に表現されるのであって、ここにあげに足利義氏・朝倉義景の場合はその追随の好例であり、今川義元の庇護のもとにあって、義元(図60)類似の花押を用いていた松平元康(図61)が、桶狭間の戦後、今川を離れて家康と改名し、花押を改めた(図62、この形は「徳」の原字「」の草体にもとづくものであろう)のや、先述した浅井長政が六角義賢から離れて、織田信長と結んだのを機会に、長政と改名し、花押を改めたのは、背反の事例である(家康の花押については、中村孝也『徳川家康文書の研究』下巻二参照。
的個人志向,即是當對追隨的權威性背叛時,也會改變花押的樣式,如足利義氏、朝倉義景有如此例子,今川義元的庇護者松平元康(圖61),用類似義元(圖60)的花押,並且在桶狹間之戰後,脫離了今川,改名為家康,也改其花押(圖62,是「德」的原字「惪」的草書體),如先述的淺井長政離開了六角義質,有機會與織田信長結盟,改名為長政,花押也改變,成為背反的例子。(就家康的花押參照中村孝也《德川家康文書の研究》下卷二)
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三 個人の表徴から地位の表徴へ
三 從個人的象徵走向地位的象徵-171
「慈」の字を原拠とする足利義持・義政の公家様の花押が、天下の支配者たる将軍の地位を表徴する意味をもつことをさきに述べたが、花押のこのような新しい機能は、戦国時代になると、次のような形で現れる。
十六世紀の半ば美濃に崛起した乱世の雄、斎藤道三の花押(図58)は、彼が長井規秀と名乗った当時以来のもので、全体の形は前述した将軍義晴の横長・下向き彎曲型に準拠しつつ、実名の一字「秀」を形象化した形であるが、面白いことには、子息の義龍がほとんど同じ形の花押(図59)を傾斜の角度を多少変えて用いている。これは、子が父の花押を共用もしくは継承したといってもよい現象である。
次は武蔵の扇谷上杉朝興の花押(図63)が朝興の仇敵であった伊勢宗瑞(北条早雲)の花
如前所述以「慈」字為原據的足利義持及義政的公家樣式花押,象徵將軍的地位及支配天下的意思,花押的新機能出現在戰國時代。
十六世紀半於美濃崛起的亂世英雄齋藤道三的花押(圖58),他當時是以長井規秀為名,以義晴將軍的橫長、向下彎曲的花押為準據,將實名中的一字「秀」形象化,有趣的是其子義龍大約是同樣外形的花押(圖59),有些傾斜角度的變化,這是父子共用或繼承的現象。
武藏扇谷上杉朝興的花押(圖63)用的是其仇敵伊勢宗瑞(北條早雲)的花押(圖64)。
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押(図64)と同形であるという事例である。朝興の花押例が少ないので確言はできないけれども、両者の没年(朝興は天文六年〔一五三七〕没、五十歳。宗瑞は永正十六年〔一五一九〕没、八十八歳)から考えても、また朝興の政治的生涯が、大永四年(一五二四)北条氏綱に奪われた江戸城奪還を目ざす対北条戦にほぼ費やされたことから考えても、これは朝興が宿敵北条の始祖宗瑞の花押をあえて襲用したと解すべきではないか。このような現象は、それもでの伝統的な花押の慣習と観念からは理解しがたいところであって、花押を本人のもつ地位、権力のシンボルとする観念、つまりは花押を印鎰や将旗と同視する観念から、
由於朝興的花押很少,無法斷定其因,從兩者死亡的時間(朝興天文六年〔一五三七〕死亡,五十五歲,宗瑞是永正十六〔一五一九〕年死亡,八十八歲。)來考量,又朝興的政治生涯在大永四年(一五二四)對北條戰找回北條氏綱的奪取的江戶城,不態解釋朝興沿用宿敵北條的始祖宗瑞花押。傳統的花押習慣及觀念來理解,花押是本人擁有的地位、權力的象徵,總之花押與印鑑及將旗是同樣的觀念,
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敵の花押と同形のものを使用することに、敵の印鎰を奪い将旗を奪う意味を託したのではないか。
第三はよく知られている豊後の大友宗麟(義鎮)・義統父子の例である(図65)。大友宗麟もその子義統も、しばしば花押を変えたことで知られているが、ここにあげたのはその中の一時期の花押である。大友氏を中心とする九州史にことに豊かな学殖を蔵される木村忠夫氏の研究によれば、大友宗麟は天正三年(一五七五)三月二十四日もしくはそれを溯ることさして遠からぬ頃に家督を義統に譲り、この後まもなく(おそくも同年四月十一日までの間に)今まで使用していた花押(すなわち図65)を義統に与え、自身は義統との連署状に「非」字の円形朱印を用いたという(明治大学内藤家文書研究会編『譜代藩の研究』所収、木村「耳川合戦と大友政権」)。果たしてしからば、宗麟の花押は大友の家督たる地位のシンボルであって、宗麟は家督譲渡の象徴行為として、この花押を義統に襲用せしめたのである(なお、木村氏の教示によれば、義統は天正六年に至って、この花押に小変化を加えるという)。
親子、一族あるいは主従の間に花押の類似が強いのは、とくに武家の社会に顕著であ
使用敵人的花押,是奪取敵方的印鑑及將旗的意思。
第三是周知的豐後大友宗麟(義鎮)、義統父子為例(圖65),大友宗麟其子義統,常改變花押,這裡舉出其中一時期的花押。根據學識豐富的木村忠夫研究以大友氏為中心的九州史,大友宗麟在天正三年(一五七五)三月二十四日或與其不遠的時間讓位家督給義統,之後(同年四月十一日)不再用此花押(圖65),也將花押讓給義統,自己用與義統的連署狀「非」字的圓形朱印(木村,〈耳川合戰と大友政權〉,收入明治大學內藤家文書研究會編《譜代藩の研究》),宗麟的花押成為大友家督地位的象徵,是宗麟讓渡家督的象徵行為,沿用義統的花押。(木村氏指出義統至天正六年,其花押加了小變化)
親子、一族或主從之間花押有很強的類似性,特別在武家社會顯著
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って、執権北条氏一族や足利将軍家一族などその適例であり、室町時代における足利様の盛行も実はかかる現象の極端な拡大であったともいえる。だが、伝統的な花押の観念に従えば、親子・一族・主従の花押は、相互によく似ていながらも、多少ともちがうもでなければならなかった。署判者が紛れもなく本人自身であることの保証が花押の第一義的機能である限り、ある人間の花押は必ず他人の花押とちがわなければならない。しかるに今や、本人と他人を弁別する手段としての手書き行為と考えられてきた花押の伝統的な使用法に代って、本人の地位、権力の象徴的表現という新しい使用法が現れた。つまりは花押に新しい機能が与えられたのである。
改めて説くまでもなく、ここに指摘した花押の新しい機能とは、これまで印章が果たしてきたところであった。従って花押の新しい機能獲得とは、いいかえれば花押の印章化に外ならない。この点については、伊木寿一氏『日本古文書学』(一四三頁以下)に簡潔的確な記述があるゆえ、その部分の再説を省いていえば、さきにあげた信長の「麟」の花押、竹中重治の「千年おゝとり」の花押の如く、本人の実名とは全く無関係に、理想や願望を託する文字を選んで、これにもとづいて花押を作る方法は、小田原北条氏歴代の印章をは
執權北條氏一族及足利將軍家一族是最適當的例子,在室町時代盛行足利樣式且擴大這種現象,但是傳統花押觀念中,親子、一族及主族花押十分類似,仍有多少不同。署判者本人自身的保證,花押的第一義機能有限,某人與他人的花押必須有須不同。然而今天,辨別本人與他人的書寫行為,代表傳統的花押,新的使用方法是本人的地位、權力的象徵,總之給與了花押新的機能。
未改其說,花押的新機能是如印章般。因此獲得花押的新機能,換言之不外是花押的印章化。就此點伊木壽一氏的《日本古文書學》(頁一四三以下)有簡潔的記述其因,省略其再說,先前所舉信長的「麟」花押,如竹中重治的「千年おゝとり」與本人實名全無關係,選其文字寄託理想及願望,基於花押的作法,小田原北條氏開始歷代的印章,
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じめとする東国諸大名の印章や、信長自身の「天下布武」印における印文選定の仕方と全く変わりないのであって、花押の印章化はここにも現れているといってよいであろう。
付記 一六〇―一六一頁に掲げた竹中重治の花押については、一九七五七月刊行の『名古屋大学日本史論集』下巻に収めて本稿を発表した際にも、翌年三月刊行の『書の日本史』第九巻に「花押小史―類型の変遷を中心に―」(本書第Ⅰ章)を収載した際にも、「千年」の二字しか読み得なかった。しかるに一九八〇年三月刊行の『岐阜市史』通史編・原始・古代・中世の第十四章(六五八頁)において、同章執筆者勝俣鎮夫氏が、景聡の詩句を引いて、この花押の文字及びその含意を正確に解読された。よって本書では、勝俣氏の解説に従って初稿を修訂した。
成為東國諸大名的印章,到信長自己的「天下布武」的印文選定方式全然不變,出現花押印章化。
付記 頁一六○~一六一竹中重治的花押,一九七五年七月刊行的《名古屋大學日本史論集》下卷所收的本稿發表時,及翌年三月刊行的《書の日本史》第九卷〈花押小史-類型の變遷を中心にー〉(本書第Ⅰ章)收載時,未讀出「千年」二個字,然而在一九八○年三月刊行的《岐阜市史》通史編-原始、古代、中世第十四章,頁六五八,執筆的勝鎮夫引景聰的詩句,解讀出花押的真正含意,本書依據勝氏的解釋修訂。
Ⅶ 近現代の花押
Ⅶ近現代的花押-177
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一 幕末維新の人々大臣たち
まず幕末維新期の人を少しあげてみる。
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の花押(図1)は「慶」の草体(図2)を花押化さいたもの。右下部を大きく張り出す形は十八世紀頃から武家の上層階級(幕府の要職、大名など)の間に流行し出して幕末まで続いた型。
江戸幕府最後の将軍徳川越前藩主松平慶永(春嶽)の花押(図3)は「永」の草体(図4)に底線を添えたもの。徳川家康以来、上下に横線(天地)を引いて花押を
一 幕府末期維新時代的人們及大臣的花押-178
省先是幕末維新期的花押很少。江戶幕府最後的德川慶喜將軍的花押(圖1)是「慶」的草書體(圖2)花押化,右下部向外張是從十八世紀時,武家的上層階層(幕府的要職,如大名等)流行至幕末。越前藩主松平慶永(春嶽)花押(圖3)是「永」字的草書體(圖4)添加底線。德川家康以來,以上下橫線的天地為花押
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まとめる型が天下を風靡して徳川判と(明朝体とも)よばれたが、底線一本でもとめたものもすくなくなかった。次の吉田松陰(図5)も同じ型で、これは松陰の諱「矩方」の「矩」に底線を加えたものである。次に広沢真臣の花押(図6)は「臣」の形象化、西郷隆盛の花押(図7)は「隆」の「生」に「盛」の「皿」を加えたもの。平安時代以来、「隆」を花押化する際に、「生」(古体は□)の横線三本を縦にするのがほとんど原則となったが(一〇二頁参照)、隆盛の場合は「□」をそのまま取り入れている。勝海舟の花押(図8)が彼の通称「麟太郎」にあやかってか、「麟」の草体にもとづくことは前に説明した
風靡天下的德川判(明朝體),不少是一條底線。其次吉田松陰(圖5)是同型,松陰諱「矩方」的「矩」加底線。廣澤真臣的花押(圖6)是「臣」的形象化,西鄉隆盛的花押(圖7)是「隆」的「生」加上「盛」的「皿」。平安時代以來,「隆」字的花押化時,大約是以三條橫線再一縱線為原則(參照頁一○二),隆盛的場合以「」字為「隆」。勝海舟的花押(圖8)俗名是「麟太郎」,以「麟」的草書體為基礎,在前面說明
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通りである。(一五六―一五七頁参照)。もう一つあげれば、後藤象二郎の花押(図9)は「象」の形象化(図11、斜め縦線は補筆)。公家では東久世通禧の花押(図12)は「禧」の草体(図13)を用い、右下部を張り出している点は徳川慶喜と同じである。
一八八五年(明治一八)内閣制度が成立してから今日まで、大臣が閣議文書に署名するのに花押を用いる慣行が続いている。歴代内閣の大臣の花押を収録した「大臣花押集」という一種の花押鑑(花押登録簿の意味をもつか)が国立公文書館に保管されている。以下、閣議文書や「大臣花押集」によって、大臣の花押を取り上げてみる。
(參照頁一五六-一五七)。另舉一例,後藤象二郎的花押(圖9)是「象」的形象化(圖11斜的縱線是補筆)。在公家樣式中,東久世通禧的花押(圖12)是「禧」的草書體(圖13),加下部外張,是與德川慶喜同樣格式。
一八八五年(明治十八)成立內閣制度至今,延續大臣在閣議文書用花押署名的慣例,歷代內閣大臣花押集錄成《大臣花押集》是一種花押鑑(有著花押登記簿的意思),現存於國立公文書館。以下根據閣議文書及《大臣花押集》,舉出大臣的花押。
見えるのが「おゝ」(図34)で、全体で「千年おゝとり」と読むことができる。そして、あたかも当時岐阜の大智寺に住した禅僧景聡の詩(『仁岫快川大愚等法語雑録』所収)に「千年一遇麟耶鳳」なる句があって、重治の花押が信長の「麟」と同じ含意になることが知られるのである。なお、この花押は二字あるいはそれ以上の字数を含み、一部に文字の裏返しを用いている点で、他にあまり例を見ない複雑かつ奇抜な花押である(一七五頁の付記を参照)。
「」,全體讀成「千年」。以當時岐阜大智寺的禪僧景聰寫的詩「千年一遇麟耶鳳」(《仁岫快川大愚等法語雜錄》),重治的花押與信長的「麟」有同意的含意。並且,這個花押是含二個字或以上的字數,一部分用翻面的字,複雜的情形不見於其他例子。(參照頁一七五的付記)95.10.17
頁162
二 権威志向型の盛行
この時代の武家の花押に顕著な特徴的現象として次にあげたいのは、権威的人物の花押を模倣し、それによってその人物への追随なり、その人物の権威への憧憬なりを示そうとする傾向である。まず二、三の例をあげよう。
足利義氏は鎌倉公方の末裔として、波瀾にみちた政治的生涯を送った人物だが、丹念な文書調査の上になった佐藤博信氏の「足利義氏とその文書」(『日本歴史』一九七三年二月号所載)によれば、義氏の花押はⅠ型からⅣ型まで四種あって(図36~39)、それぞれの使用年代は次のようになっている(カッコ付の年次は、所依の文書に年付がなくて、推定による年次であることを示す)。
Ⅰ 型 天文二十四年(一五五五)十一月二十二日より(永禄七年〔一五六四〕)二月十八日
Ⅰ型 天文二十四年(一五五五)
二 盛行權威志向形式-162
武家花押顯著的特徵是模仿權威的人物花押,根據這個行為追隨其人,是表示憧憬這個權威人物。首先舉二、三例。
鎌倉公方的末裔足利義式,在其政治生涯中充滿了波瀾,根據佐藤博信氏的專心於文書的調查其文〈足利義氏とその文書〉(《日本歷史》一九七三年二月號所載),義氏的花押從Ⅰ型到Ⅳ型四種(圖36~39),有著各種使用的年代(括弧所付的年次,並沒有文書記載,是推定出來的)。
Ⅰ型 天文二十四年(一五五五)十一月二十二日到(永祿七年〔一五六四〕)二月十八日。
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以降に及ぶ。
Ⅱ 型 永禄七年八月一日より(永禄八年)八月七日以降に及ぶ。
Ⅲ 型 (永禄九年)三月二十八日以前より(永禄十一年)五月二十日以降
に及ぶ。
Ⅳ 型 (永禄二十年)二月十三日以前より天正十年(一五八二)十月二十
八以降に及ぶ。
つまり義氏はⅠ型から順次Ⅳ型まで、生涯に三度花押を変えていることになる(義氏の没年は京暦の天正十一年正月二十一日、関東の暦では天正十閏十二地月二十日)。そこで問題はこれら四類の花押の形であるが、まずⅠ型が始祖足利基氏以来鎌倉公方の伝統的な形(図
Ⅱ型 永祿七年八月一日起,到(永祿八年)八月七日。
Ⅲ型 (永祿九年)三月二十八日以前開始,至(永祿十一年)五月二十日。
Ⅳ型 (永祿十二年)二月十三日以前至天正十年(一五八二)十月二十八日。
總之,義氏是從Ⅰ型到Ⅳ型,在其生涯有三次花押的改變(義氏死於京曆天正十一年正月二十一日,關東曆天正十年閏十二月二十日)。四個花押,首先是佐藤博信氏在其文指出Ⅰ型是繼承始祖足利基以來的鎌倉公方的傳統形
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40~46)を継承していること、佐藤博信氏の上記論稿の指摘する通りである。すなわち歴代の鎌倉公方の花押は、氏満・満兼のある時期の花押や持氏の花押外はおおむね底線を水平に引く点で明らかに足利将軍家歴代の花押と異なっている。さらに考えれば足利基氏の花押に始まるこの特徴は、実は、鎌倉公方の事実上の始祖であり、個人的にも基氏敬慕の対象でもあった叔父直義の花押(図47)から起こっているのではないか、また、この特徴に対して、ある時期の氏満の花押や持氏の花押(図48、49、50)が例外をなすこと自体に、それなりの政治的理由があるのではないか。ともあれ、鎌倉公方の誰の代からこの特
(圖40~46)。歷代的鎌倉公方花押,足利氏滿、滿兼時期及足利持氏的花押之外,與足利將軍歷代的花押大概以水平為底線不同。考量足利基氏的花押開始的特徵,事實上是鎌倉公方的始祖,並不是起於基氏敬慕的對象其叔父直義的花押(圖47),在氏滿及持氏的花押(圖48、49、50)是自成一格,並非政治理由。無論如何,應自覺出鎌倉公方代表的特徵
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徴が自覚されて、以後歴代の花押を律する祖型が作り出されたかは、今後の究明にまつとして、義氏が初めて花押を作成するに当って、鎌倉公方の伝統型にのっとってⅠ型を定めたことは確かであろう。とすれば、永禄七年(十五六四)八月この伝統型をすてたことは、それだけでも甚だ重要な意味をもつ政治的行為とせねばならぬが、新たに採用したⅡ型が時の将軍義輝の花押(図51)と酷似している点に、より一層の注意を喚起したいのである。すなわち両花押の間には偶然の類似といった程度を超えて、義氏の花押には明瞭に義輝の花押を模倣した跡を認めることができる。そして佐藤氏の上記論稿の指摘する如く、
成為以後歷代花押的祖型,義氏開始初作花押,取後鎌倉公方傳統型的支配權定下Ⅰ型。在永祿七年(一五六四)八月捨棄了這個傳統型,有何政治行為呢,新採用的Ⅱ型是酷似義輝將軍的花押(圖51),有一點要注意,是兩者之間超過偶然的程度,很明顯是模仿了義氏的花押,如佐藤氏的論文指出的,
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このⅡ型の使用が、義氏の鎌倉帰座に当って、八州静謐、なかんずく房総の本意に属せんことを鶴岡八幡宮に祈った願文(『鎌倉市史』史料編一、鶴岡八幡宮文書一一三号)から始まっているとすれば、義氏の花押のⅠ型からⅡ型への移行に、自身を足利将軍との対比において位置づけようとする義氏の明確な政治意志の表明を読み取ることができよう。
義氏の花押Ⅱ型が将軍義輝の花押の模倣、追随の対象の身上に重大な変化が起これば、それが義氏の花押に反映するのは当然かもしれない。永禄八年八月から翌九年三月までの間に、義氏はⅡ型に小変化を加えてⅢ型を作るわけだが、永禄八年五月十九日の将軍義輝の横死が、この小変化を引き起こしたと見てはどうであろうか。そして、もう一つ推測を重ねるならば、永禄十一年九月足利義昭の入洛によって、足かけ四年に及んだ京都将軍空白が終わりを告げる、この中央の政変が、義氏の花押をⅢ型からⅣ型に移行させたのではないか。
次には朝倉義景の花押をあげたい。義景ははじめ武家様の花押(図52。図51の将軍義輝の花押と同類)を用いたが、晩年に至って新型の花押(図53)に変える。この花押は現在のところ、永禄十一年九月六日付、白山神社知行目録(白山神社文書)の署判を初見とする以
Ⅱ型的使用是成為將軍,為了安穩八州,屬本意於房總的鶴岡八幡宮發祈願文(《鎌倉市史》史料編一,鶴岡八幡宮文書一一三號),義氏的花押從Ⅰ型到Ⅱ型,是將自己放於足利將軍的位置,明確表明其政治意志。
義氏花押Ⅱ型是模仿義輝將軍的花押,起於模仿、追隨對象的身上有了重大的變化,當然可能反映在義氏的花押。永祿八年八月起到翌九年三月,義氏的Ⅱ型起了小變化成為Ⅲ型,因為永祿八年五月十九日義輝將軍橫死,引起了小變化。此推測,永祿十一年九月足利義昭進入京都,告別了京都將軍四年的空白期。這個中央的政變不是義氏從Ⅲ型到Ⅳ型的移動。
朝倉義景的花押,開始是以武家花押(圖52與義輝將軍圖51的花押同類),到晚年改用新型花押(圖53)。現在的花押是永祿十一年九月六日付於白山神社知行目錄(白山神社文書)的署判中
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上に、使用の上限を限定できないが、その形は将軍義晴の花押(図55)の忠実な模倣である。義晴の花押は武家様が一種(図54)、公家様が二種(図55、56)あって、義景が拠ったのは公家様のⅡ型である。両者を対照すれば明らかなように、ともに「義」の字を原拠とし、横長・下向き彎曲で、義晴のものにゆるく左右に傾斜する山がたの線を加えて、底線を流線型にしたのが義景の花押である。義景が、同時代の将軍(義輝もしくは義昭)ではなくて、すでに世になき先代将軍義晴(天文十九年〔十五五〇〕死没)の花押を模した理由は判然としない。横長・下向き彎曲をもって特徴づけられる義晴の花押類型が、一種の
不限定使用上限。此形是忠實的模仿義晴將軍的花押(圖55),其花押有一種武家型(圖54)及二種公家型(圖55、56),義景是依據公家樣式的第Ⅱ型。對照兩者可知,同樣是以「義」字,義晴的花押是橫長、向下彎曲型,加上緩緩低左右傾斜的山形,底線是流線型。義景(義輝或義昭)並無法理解其同時代的將軍仿已經過世的先代義晴將軍(天文十九年〔一五五○〕死)花押的理由。義晴花押的類型是橫長、且向下彎曲的特徵,
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流行のように十六世紀後半の近江・美濃。越前地域に広がっていたことを考慮に入れる必要はあろうけれども、この流行現象をもって義景の花押を説明しおおせるには、義春のそれとの酷似の度はあまりにも大きい。花押選定において、義晴その人及びその花押に対する明確なる意識が、義景にはあったにちがいない。おそらく義景は、義晴の花押を忠実に模することによって、義晴に対する追随の念を表現しようとしたのであろう。ここでは単に追随の念としか表現できないが、その内容が具体的に何であるか、それは今後、義景の花押使用の上限をより一層限定し、また彼が、室町幕府の故実の上では管領クラスの官途とされた左衛門督に任ぜられた事実なども併せ考えることによって、明らかにできるであろう。
横長・下向き彎曲型花押の流行について付言すれば、実は将軍義晴と同時代の人物で、義晴の庇護者をもって自ら任じた近江の六角定頼の花押(図57)が、上記の特徴をより一層きわ立たせており、義晴の花押自体が定頼のそれの影響下に形象化された可能性が強い。従って、上記の特徴をもつ花押のすべてを、義晴の花押類型の流行現象をもって説明することは行きすぎであって、現に浅井久政(図8)のような明らかな定頼型の事
廣泛流行於十六世紀後半的近江、美濃及越前地域,其流行義晴花押並與其酷似。選定花押是忠實的模仿義晴的人及其花押,義景並沒有不同。義景可能是忠實的模仿義晴的花押,表現出對追隨義晴的意念。並不是單單表現追隨的意念,具體的內容為何,在由於義景的花押有更進一步的限定,並且應考量室町幕府的先例上任職於管領階層的官途的左衛門督。
流行橫長、向下彎曲的花押,與義晴將軍同時代的人,以義晴的庇護者自居的近江六角定賴的花押(圖57),更加確定上記特徵,定賴的花押受義晴的影響下形象化可能性很大。上述的特徵已可說明義晴花押流行的現象,現在淺井久政(圖8)可明白是定賴型的花押。
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例があることは否定できないけれども、他面、後に問題にする斎藤道三・義龍父子(図58、59)の如く、義晴型と認めるべき花押の少なくないことも事実である。
一般に花押を作成するに当って、父祖・主人その他本人にとって何らかの意味での権威と認められる人物の花押を模倣する風潮は広く存在しており、武家の社会にはとくにその風潮が強かった。室町時代における足利様の盛行はその最たる例である。しかし、ここで戦国時代、織豊期の花押の特徴的現象として強調したいのは、右の一般的風潮と根ざすところは同じであるにしても、他の時代に比して遥かに露骨な形で政治的権威たる特徴個
其外,如齋藤道三、義龍父子(圖58、59),不少是義晴型的花押。
一般作成花押,以祖父及主人與本人之間有何關連,模仿其花押的風潮廣泛存在,特別是武家社會中很強。室町時代盛行足利樣式,可是戰國時代、織豐時期的花押強調的特徵,與其他的時代更顯露出表現對政治權威下
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人への志向が花押に表現される点である。すなわち特定の権威への直接的、顕示的な追随、その裏返しとしての権威を失った者に対する背反の意志が、花押の作成、改変に表現されるのであって、ここにあげに足利義氏・朝倉義景の場合はその追随の好例であり、今川義元の庇護のもとにあって、義元(図60)類似の花押を用いていた松平元康(図61)が、桶狭間の戦後、今川を離れて家康と改名し、花押を改めた(図62、この形は「徳」の原字「」の草体にもとづくものであろう)のや、先述した浅井長政が六角義賢から離れて、織田信長と結んだのを機会に、長政と改名し、花押を改めたのは、背反の事例である(家康の花押については、中村孝也『徳川家康文書の研究』下巻二参照。
的個人志向,即是當對追隨的權威性背叛時,也會改變花押的樣式,如足利義氏、朝倉義景有如此例子,今川義元的庇護者松平元康(圖61),用類似義元(圖60)的花押,並且在桶狹間之戰後,脫離了今川,改名為家康,也改其花押(圖62,是「德」的原字「惪」的草書體),如先述的淺井長政離開了六角義質,有機會與織田信長結盟,改名為長政,花押也改變,成為背反的例子。(就家康的花押參照中村孝也《德川家康文書の研究》下卷二)
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三 個人の表徴から地位の表徴へ
三 從個人的象徵走向地位的象徵-171
「慈」の字を原拠とする足利義持・義政の公家様の花押が、天下の支配者たる将軍の地位を表徴する意味をもつことをさきに述べたが、花押のこのような新しい機能は、戦国時代になると、次のような形で現れる。
十六世紀の半ば美濃に崛起した乱世の雄、斎藤道三の花押(図58)は、彼が長井規秀と名乗った当時以来のもので、全体の形は前述した将軍義晴の横長・下向き彎曲型に準拠しつつ、実名の一字「秀」を形象化した形であるが、面白いことには、子息の義龍がほとんど同じ形の花押(図59)を傾斜の角度を多少変えて用いている。これは、子が父の花押を共用もしくは継承したといってもよい現象である。
次は武蔵の扇谷上杉朝興の花押(図63)が朝興の仇敵であった伊勢宗瑞(北条早雲)の花
如前所述以「慈」字為原據的足利義持及義政的公家樣式花押,象徵將軍的地位及支配天下的意思,花押的新機能出現在戰國時代。
十六世紀半於美濃崛起的亂世英雄齋藤道三的花押(圖58),他當時是以長井規秀為名,以義晴將軍的橫長、向下彎曲的花押為準據,將實名中的一字「秀」形象化,有趣的是其子義龍大約是同樣外形的花押(圖59),有些傾斜角度的變化,這是父子共用或繼承的現象。
武藏扇谷上杉朝興的花押(圖63)用的是其仇敵伊勢宗瑞(北條早雲)的花押(圖64)。
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押(図64)と同形であるという事例である。朝興の花押例が少ないので確言はできないけれども、両者の没年(朝興は天文六年〔一五三七〕没、五十歳。宗瑞は永正十六年〔一五一九〕没、八十八歳)から考えても、また朝興の政治的生涯が、大永四年(一五二四)北条氏綱に奪われた江戸城奪還を目ざす対北条戦にほぼ費やされたことから考えても、これは朝興が宿敵北条の始祖宗瑞の花押をあえて襲用したと解すべきではないか。このような現象は、それもでの伝統的な花押の慣習と観念からは理解しがたいところであって、花押を本人のもつ地位、権力のシンボルとする観念、つまりは花押を印鎰や将旗と同視する観念から、
由於朝興的花押很少,無法斷定其因,從兩者死亡的時間(朝興天文六年〔一五三七〕死亡,五十五歲,宗瑞是永正十六〔一五一九〕年死亡,八十八歲。)來考量,又朝興的政治生涯在大永四年(一五二四)對北條戰找回北條氏綱的奪取的江戶城,不態解釋朝興沿用宿敵北條的始祖宗瑞花押。傳統的花押習慣及觀念來理解,花押是本人擁有的地位、權力的象徵,總之花押與印鑑及將旗是同樣的觀念,
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敵の花押と同形のものを使用することに、敵の印鎰を奪い将旗を奪う意味を託したのではないか。
第三はよく知られている豊後の大友宗麟(義鎮)・義統父子の例である(図65)。大友宗麟もその子義統も、しばしば花押を変えたことで知られているが、ここにあげたのはその中の一時期の花押である。大友氏を中心とする九州史にことに豊かな学殖を蔵される木村忠夫氏の研究によれば、大友宗麟は天正三年(一五七五)三月二十四日もしくはそれを溯ることさして遠からぬ頃に家督を義統に譲り、この後まもなく(おそくも同年四月十一日までの間に)今まで使用していた花押(すなわち図65)を義統に与え、自身は義統との連署状に「非」字の円形朱印を用いたという(明治大学内藤家文書研究会編『譜代藩の研究』所収、木村「耳川合戦と大友政権」)。果たしてしからば、宗麟の花押は大友の家督たる地位のシンボルであって、宗麟は家督譲渡の象徴行為として、この花押を義統に襲用せしめたのである(なお、木村氏の教示によれば、義統は天正六年に至って、この花押に小変化を加えるという)。
親子、一族あるいは主従の間に花押の類似が強いのは、とくに武家の社会に顕著であ
使用敵人的花押,是奪取敵方的印鑑及將旗的意思。
第三是周知的豐後大友宗麟(義鎮)、義統父子為例(圖65),大友宗麟其子義統,常改變花押,這裡舉出其中一時期的花押。根據學識豐富的木村忠夫研究以大友氏為中心的九州史,大友宗麟在天正三年(一五七五)三月二十四日或與其不遠的時間讓位家督給義統,之後(同年四月十一日)不再用此花押(圖65),也將花押讓給義統,自己用與義統的連署狀「非」字的圓形朱印(木村,〈耳川合戰と大友政權〉,收入明治大學內藤家文書研究會編《譜代藩の研究》),宗麟的花押成為大友家督地位的象徵,是宗麟讓渡家督的象徵行為,沿用義統的花押。(木村氏指出義統至天正六年,其花押加了小變化)
親子、一族或主從之間花押有很強的類似性,特別在武家社會顯著
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って、執権北条氏一族や足利将軍家一族などその適例であり、室町時代における足利様の盛行も実はかかる現象の極端な拡大であったともいえる。だが、伝統的な花押の観念に従えば、親子・一族・主従の花押は、相互によく似ていながらも、多少ともちがうもでなければならなかった。署判者が紛れもなく本人自身であることの保証が花押の第一義的機能である限り、ある人間の花押は必ず他人の花押とちがわなければならない。しかるに今や、本人と他人を弁別する手段としての手書き行為と考えられてきた花押の伝統的な使用法に代って、本人の地位、権力の象徴的表現という新しい使用法が現れた。つまりは花押に新しい機能が与えられたのである。
改めて説くまでもなく、ここに指摘した花押の新しい機能とは、これまで印章が果たしてきたところであった。従って花押の新しい機能獲得とは、いいかえれば花押の印章化に外ならない。この点については、伊木寿一氏『日本古文書学』(一四三頁以下)に簡潔的確な記述があるゆえ、その部分の再説を省いていえば、さきにあげた信長の「麟」の花押、竹中重治の「千年おゝとり」の花押の如く、本人の実名とは全く無関係に、理想や願望を託する文字を選んで、これにもとづいて花押を作る方法は、小田原北条氏歴代の印章をは
執權北條氏一族及足利將軍家一族是最適當的例子,在室町時代盛行足利樣式且擴大這種現象,但是傳統花押觀念中,親子、一族及主族花押十分類似,仍有多少不同。署判者本人自身的保證,花押的第一義機能有限,某人與他人的花押必須有須不同。然而今天,辨別本人與他人的書寫行為,代表傳統的花押,新的使用方法是本人的地位、權力的象徵,總之給與了花押新的機能。
未改其說,花押的新機能是如印章般。因此獲得花押的新機能,換言之不外是花押的印章化。就此點伊木壽一氏的《日本古文書學》(頁一四三以下)有簡潔的記述其因,省略其再說,先前所舉信長的「麟」花押,如竹中重治的「千年おゝとり」與本人實名全無關係,選其文字寄託理想及願望,基於花押的作法,小田原北條氏開始歷代的印章,
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じめとする東国諸大名の印章や、信長自身の「天下布武」印における印文選定の仕方と全く変わりないのであって、花押の印章化はここにも現れているといってよいであろう。
付記 一六〇―一六一頁に掲げた竹中重治の花押については、一九七五七月刊行の『名古屋大学日本史論集』下巻に収めて本稿を発表した際にも、翌年三月刊行の『書の日本史』第九巻に「花押小史―類型の変遷を中心に―」(本書第Ⅰ章)を収載した際にも、「千年」の二字しか読み得なかった。しかるに一九八〇年三月刊行の『岐阜市史』通史編・原始・古代・中世の第十四章(六五八頁)において、同章執筆者勝俣鎮夫氏が、景聡の詩句を引いて、この花押の文字及びその含意を正確に解読された。よって本書では、勝俣氏の解説に従って初稿を修訂した。
成為東國諸大名的印章,到信長自己的「天下布武」的印文選定方式全然不變,出現花押印章化。
付記 頁一六○~一六一竹中重治的花押,一九七五年七月刊行的《名古屋大學日本史論集》下卷所收的本稿發表時,及翌年三月刊行的《書の日本史》第九卷〈花押小史-類型の變遷を中心にー〉(本書第Ⅰ章)收載時,未讀出「千年」二個字,然而在一九八○年三月刊行的《岐阜市史》通史編-原始、古代、中世第十四章,頁六五八,執筆的勝鎮夫引景聰的詩句,解讀出花押的真正含意,本書依據勝氏的解釋修訂。
Ⅶ 近現代の花押
Ⅶ近現代的花押-177
頁178
一 幕末維新の人々大臣たち
まず幕末維新期の人を少しあげてみる。
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の花押(図1)は「慶」の草体(図2)を花押化さいたもの。右下部を大きく張り出す形は十八世紀頃から武家の上層階級(幕府の要職、大名など)の間に流行し出して幕末まで続いた型。
江戸幕府最後の将軍徳川越前藩主松平慶永(春嶽)の花押(図3)は「永」の草体(図4)に底線を添えたもの。徳川家康以来、上下に横線(天地)を引いて花押を
一 幕府末期維新時代的人們及大臣的花押-178
省先是幕末維新期的花押很少。江戶幕府最後的德川慶喜將軍的花押(圖1)是「慶」的草書體(圖2)花押化,右下部向外張是從十八世紀時,武家的上層階層(幕府的要職,如大名等)流行至幕末。越前藩主松平慶永(春嶽)花押(圖3)是「永」字的草書體(圖4)添加底線。德川家康以來,以上下橫線的天地為花押
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まとめる型が天下を風靡して徳川判と(明朝体とも)よばれたが、底線一本でもとめたものもすくなくなかった。次の吉田松陰(図5)も同じ型で、これは松陰の諱「矩方」の「矩」に底線を加えたものである。次に広沢真臣の花押(図6)は「臣」の形象化、西郷隆盛の花押(図7)は「隆」の「生」に「盛」の「皿」を加えたもの。平安時代以来、「隆」を花押化する際に、「生」(古体は□)の横線三本を縦にするのがほとんど原則となったが(一〇二頁参照)、隆盛の場合は「□」をそのまま取り入れている。勝海舟の花押(図8)が彼の通称「麟太郎」にあやかってか、「麟」の草体にもとづくことは前に説明した
風靡天下的德川判(明朝體),不少是一條底線。其次吉田松陰(圖5)是同型,松陰諱「矩方」的「矩」加底線。廣澤真臣的花押(圖6)是「臣」的形象化,西鄉隆盛的花押(圖7)是「隆」的「生」加上「盛」的「皿」。平安時代以來,「隆」字的花押化時,大約是以三條橫線再一縱線為原則(參照頁一○二),隆盛的場合以「」字為「隆」。勝海舟的花押(圖8)俗名是「麟太郎」,以「麟」的草書體為基礎,在前面說明
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通りである。(一五六―一五七頁参照)。もう一つあげれば、後藤象二郎の花押(図9)は「象」の形象化(図11、斜め縦線は補筆)。公家では東久世通禧の花押(図12)は「禧」の草体(図13)を用い、右下部を張り出している点は徳川慶喜と同じである。
一八八五年(明治一八)内閣制度が成立してから今日まで、大臣が閣議文書に署名するのに花押を用いる慣行が続いている。歴代内閣の大臣の花押を収録した「大臣花押集」という一種の花押鑑(花押登録簿の意味をもつか)が国立公文書館に保管されている。以下、閣議文書や「大臣花押集」によって、大臣の花押を取り上げてみる。
(參照頁一五六-一五七)。另舉一例,後藤象二郎的花押(圖9)是「象」的形象化(圖11斜的縱線是補筆)。在公家樣式中,東久世通禧的花押(圖12)是「禧」的草書體(圖13),加下部外張,是與德川慶喜同樣格式。
一八八五年(明治十八)成立內閣制度至今,延續大臣在閣議文書用花押署名的慣例,歷代內閣大臣花押集錄成《大臣花押集》是一種花押鑑(有著花押登記簿的意思),現存於國立公文書館。以下根據閣議文書及《大臣花押集》,舉出大臣的花押。
November 20, 2007
頁151
石田三成(図19)、小西行長(図20)の花押がこの実例である。石田三成の花押は「三」と「石」を重ね合わせた形であり、小西行長の花押は、左斜め上の角のように出た二線はおそらく「行」の草体を表わし、残りの本体部分は「西」の草体である。つまりこの二人は、苗字と実名を一字ずつ用いて花押を作ったのである。現在のところ、このような例をより早い時期に見出すことはできない。苗字の文字を花押に取り入れるこの様式が、石田・小西の二人に始まるとはいえないにしても、それほど溯って時期に見出されるとは考えられない。戦国、織豊期の新様式と見てよいのではあるまいか。
石田三成(圖19)、小西行長(圖20)的花押為實例,石田三成的花押是「三」與「石」重疊組合,小西行長的花押是左斜上的角二線恐怕是表示「行」字的草書體。總之二人是姓氏與名字中的一字作為花押的使用。在今天,無法發現早期的例子。以姓氏為花押的文字,應不是始於石田、小西二人,無法追溯大約出現的時期。戰國末、織豐期的新樣式,是較好的。
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日本の花押は、改めて説明するまでもなく、実名を草体化する型にしても、実名の部分を合成する型にしても、実名の一字を形象化する型にしても、実名を原拠とする点では、すべて同じであって、花押の発生に由来するこの花押作成の原則は、平安朝以来根強く生き続けてきたのであった。その原則が今、苗字と実名の混合という形破られたことは、花押史上、画期な現象の背景には、実名及び苗字に対する時代の観念の変化があるのであって、この背景と関連なしに、花押に新様式を評価することはできない。そう考えると、署判に当たって、実名を花押に比して著しく小さく書く傾向や、さらに二字の実名の下の字に重ねるように花押を押署時には実名の上の字しか書かぬ傾向が十六、七世紀の間に強まった事実も、ここに想起されるのである。ここにはひとまず新様式を例示し、併せてこの様式の採用者が、新興武士の代表ともいうべき石田三成・小西行長であった事実を指摘するにとどめておく。
なお付言すれば、幕末維新期には勝海舟(麟太郎)の「麟」の字の花押(この点はなお後述)、坂本竜馬(実名は直柔?)の「龍馬」の二字を草名化した花押(図21)、大村益次郎の「益」の字の花押(図22)など、通称の文字を花押に用いる例が見出される。このよ
日本的花押無法說明其改變,以實名草書體化,是用實名的部分組合,也有實名的一個字形象化,以實名的原出處應是相同的,作為花押發生的由來,其原則在平安朝以來已經固定,且延續著。今天打破原則姓氏與實名混合的形式,成為花押史上的新時代。從以前這個特別書寫的現象背景,實名及姓氏的時代觀念改變,這個背景與評價花押新樣式有關。在十六、七世紀,以署判來看,實名的花押書寫的較小,進一步二個字的實名下重疊,押署花押時,不寫實名的字。首先示例的新樣式,以新興武士為代表的石田三成、小西行長。
再補充說明,幕末維新期的勝海舟(麟太郎)的「麟」字花押(後述其因)、坂本龍馬(實名是直柔)是草名化「龍馬」二個字作為花押(圖21),大村益次郎以「益」為花押(圖22),以非正式的名字文字作為花押。
頁153
うな花押の作り方が果たしてどこまで溯るか、苗字の文字の使用とも関連して、甚だ興味ある問題である。
C文字を離れた図形先学によって早く三好政康(図23)、真木島昭光(図24)、伊達政宗(図25)江戸時代に入って徳川光圀(図26)などの花押が、いずれも鳥の形の花押として挙示されている。今までの挙例による限り、例外なく鳥の形が用いられているが、そのことにどのような意味があるのか、何らかの寓意があるのか、全く未考である。
是與姓氏使用有關連的地方。
C脫離文字的圖形-153
根據前輩早期的三好政康(圖23)、真木島昭光(圖24)、伊達政宗(圖25),而進入江戶時代德川光圀(圖26)的花押,舉出以鳥形作為花押。限於舉出之例,不外乎是鳥形的花押,其意義及用意並非考量。
頁154
D理想・願望の表現
本人の実名とも苗字とも全く関係のない文字をえらんで、これを形象化した花押が見られるようになる。その場合に選ばれる文字は、当人の理想とか願望とかを表わすものが多いようである。一応この先蹤とも見られる花押として、室町将軍の公家様の花押のうち、義満・義教の花押は「義」の字、義持・義政の花押は「慈」の字にもとづくという(義満・義教・義持の花押については、康富記二、文安六年〔一四四九〕四月二日条参照)。このうち、「義」は義詮以来代々将軍の通字であるから、その通字にもとづくと解することは十分可能であるが、「慈」はそのように実名と関係づけて解釈することはできない。足利義教が兄義持の継嗣に選ばれて、青蓮院門跡より入って足利宗家をついだ際、還俗してまず義宣と名乗ったわけだが、その名字選定の議において、
D表現出理想˙願望-154
選用與本人實名及家族姓氏無關的文字,將此形象化,多表現此人的理想或願意。如前所舉大概以室町將軍所謂公家樣式的花押(圖27-30)。首先就此說明,已知室町將軍的公家樣式花押,其後義滿、義教的花押「義」字,義持、義政的花押以「慈」字(義滿、義教、義持的花押參照康富記二,文安六年〔一四四九〕四月二日條)。之後「義」成為義詮以來將軍的通用字,「慈」是與實名無關。足利義敦是其兄義持所選的繼嗣,在足利宗家成為青蓮院的住持時,還俗改為義宣。
頁155
「引文」
つまり「宣」の字は決断を意味し、天下の政務を決断する将軍の権力を象徴する文字として選定されており、翌年、義教と改名した際にも、「教」の字は「特為上之人衛名字相應者也,萬國彌可應御政教之兆歟」と説明さ
總之,「宣」字有決斷的意思,象徵將軍的權力決斷天下的政務,作為文字的選定,次年改名為義教,「教」字是「特為上之人衛名字相應者也,萬國彌可應御政教之兆歟」
頁156
れている(同上、建内記二ノ六頁、正長二年〔一四二九〕三月九日条)。これら将軍の実名選定論議を参照すれば、義持・義政の花押の元字「慈」が、将軍の地位にふさわしい徳目として選ばれたと見るのが適当ではあるまいか。つまり、慈は将軍として備えているべき徳目であり、現に将軍が備えていると擬制的に観念される徳目であり、その限りにおいては、将軍の地位の抽象的表現と考えられたのではあるまいか。慈の徳は、将軍が現在は備えていないで、将来にその達成を期そうとする理想や願望ではなくして、現在の将軍の地位そのものを表現する文字として選ばれたのではないか。そう考えると、次に紹介する織田信長や竹中重治の花押は、本人の実名と無関係の文字を原拠とする点では義持。義政の場合と同じように見えるけれども、実はその文字に託する意味はちがうといわねばならぬ。
まず信長の花押(図15)だが、この花押は、頻々と花押を変えた信長の花押歴の上で比較的後期に属するものであって(信長の花押八種区分の中のⅤ型)、その原拠は「麟」の字と解せられる。筆者ははじめこれは解読できなかったが、たまた遥か後代の人物勝海舟の花押(図31)を寓目する機会を得て、これを手がかりとして、信長の花押について右の解釈を得た。勝海舟の花押は、彼が維新後、静岡に退隠中、門屋村名主等に渡した請状に押
(同上建內記二的頁六,正長二年三月九日條)。參照將軍實名的選定論議,義持、義政的花押元字「慈」是對應將軍地位的德目所選擇出來的。總之,慈作為將軍是必備的德目,是對現在將軍所要預備的擬制,是對將軍地位抽象的表現。慈的德目,是現任將軍所缺乏,期望將來能達成。以此考量,織田信長及竹中重治的花押是與本人的實名無關的文字,此點與義持及義政相同,事實上與寄託的文字意義不同。
首先信長的花押(圖15),這個花押在信長頻繁的變更下,是屬於後期的花押(信長八種花押的第Ⅴ型)原出字是解為「麟」。筆者開始無法解讀,偶然在注意後代人物勝海舟的花押(圖31)得到想法。勝海舟的花押是他在維新之後,退隱於靜岡中,對門屋村名主等的請狀所押的名字(白鳥家書)。
頁157
署されたもの(白鳥家文書)。これは明らかに「麟」の字の草体の下半部を左右に開いた形であって、彼の通称「麟太郎」にもとづくと見てよいであろう。そこで、この花押と信長の花押を比較対照すると、後者は前者の上部、詳しくいうと「鹿」の草体の書き出し部分(艸冠に似た形)と、「米」の部分を省略した形であって、いわば形象化を数歩進めた形になっている。
右のように解して誤りなしとすれば、次の問題は、信長がなぜ「麟」の字を選んだかである。この点については、今詳細な論証を略して、結論だけいえば、麟は麒と併せて麒麟とよばれる(雄を麒、雌を麟という)を常とす
可明白,其字是「麟」字的草書體,下半部是左右開的形狀,因其俗名為「麟太郎」。與信長的花押比對下,後著的上部比前者詳細是「鹿」的草書體(似艸冠),省略了「米」的部分,是進步的形象化。
右邊解釋無誤的話,下個問題是信長為何要選擇「麟」字,在此不詳論,以結論說明,麟是與麒合併成麒麟(雄是麒、雌是麟)
頁158
る中国の想像上の動物であり、この動物に関する知識が日本にも古くから伝わって、中世では、次に掲げる五山僧義堂周信の一文に説かれるような性質の動物として信ぜられていたのである。
「引文」
右に見る如く、麒麟が至治の世にしか姿を見せぬ動物であり、「聖人之隠現、王政之污隆」みなこれにかかわる底の動物であるとすれば、この文字に何が託されるかはおのずから明らかである。云く、至治の世、和平一統の代への願望である。自らの力によってそのような世を達成しようという理想を含意するかどうかは今にわかに断定できないとしても、そのような世を望ましきものとする認識の表明であることはおそらく疑いないであろう。
ところで、もう一つ問題になるのは、信長がこの「麟」の花押を用い始めた時期である。
在中國是想像上的動物,此知識是在日本古早已傳入,在中世紀由五山僧人義當周信一文記錄此性質的動物。
如右可知,麒麟是不見其外表的至治之世的動物,「」,這個文字是寄託什麼,是期望至治之世、和平一統的時代來臨。無法斷定由自己的力來達成今世的理想,寄託來世。
另外,還有個問題,信長用「麟」為花押是始於何時。
頁159
遺存の史料によれば、短線と点をもって組み立ていられた、偽造防止を主眼として作成されたとおぼしいⅣ型(図14)の使用された最も新しい文書は、永禄七年(一五六四)と推定される十一月二十三日付の新見文書であり、「麟」の花押の初見は永禄八年九月日付の寂光院文書である。従って「麟」の花押の使用開始は永禄七年十一月から翌八年九月までの間となる。さきに一言した如く、信長の花押歴において、Ⅰ型からⅡ型への転換が、花押作成原理の変更という意味で画期的だあったのと同様に、Ⅳ型からⅤ型(「麟」の花押)への転換も重大な意味を含んでいる。すなわち偽造防止を主目的として短線と点とで組成されたⅡ型以来の一貫した作成原理を一擲して、和平一統の願いという政治理念をこめた花押をしてこのような政治的行為をなさしめたものは一体何か。永禄八年五月十九日、松永久秀による将軍足利義輝の弒殺の事実がそれに当る、といえないであろうか。これより約二年の後、永禄十年八月信長は美濃国井の口城の斎藤龍興を逐って、同城を岐阜城と改名し(『岐阜県史』古代中世編)、同年十月頃より「天下布武」の印を使用する(奥野高広著『織田信長文書の研究』参照)。これを、隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
根據留下的史料,以短線與點組合,是為了防止飣造,使用Ⅳ型(圖ㄴ)最新的文書是永祿七年(一五六四)十一月二十三日付的新發現文書,「麟」花押初見是永祿八年九月日的寂光院文書。因此,「麟」字花押使用永祿七年十一月到翌八年九月。如前言,信長的花押是從Ⅰ到Ⅱ的轉換,變更花押的作成原理,有創新時代的意思。同樣的,從Ⅳ到Ⅴ(「麟」字花押),也是重大轉變,以短線及點是防止偽造為目的,短線及點的組成是Ⅱ型以來一貫作成的原理,注入所謂求和平一統的願望的政治行為。信長是為何有此政治行為,永祿八年五月十九日,因為松求久秀殺足利義輝將軍,仍無此用法。永祿十年八月信長追逐齋藤龍興到美濃國井的口城,並將此成改為岐阜城(《岐阜縣史》古代中世編),同年十一月使用「天下布武」的印章(參照奧野高廣,《織田信長文書の研究》)。注入隱微的花押有比喻堂堂開花之意。
頁160
見ても、おそらく的ずれにはなるまい。
もう一つの例は、美濃の武士竹中半兵衛重治(一五四四?~七九)の晩年の花押(図33)である。この花押は彼の没した天正七年と推定される(従って、もしこの推定通りならば死没二ヶ月前の)書状の押署されており、彼が重虎名乗った永禄七年当時の花押(図32)とは異なっている(以上、『岐阜県史』史料編、古代中世編一の巻末参照)。この花押は左右に大きく二字を配し、その下方に細字数個を配している。右の大字が「年」の草体、左の大字が「千」の草体の裏返し(図33)、そして二つの字の間にあるのが「とり」(図35)、また「千」(裏返し)の下部に一部分重なって
另一例是美濃武士竹中半兵衛重治(一五四四?~七九)的晚年花押(圖33),是其死後推定於天正七年(應是死前二個月)所押署於書狀上,永祿七年名為重虎的花押(圖32)不同(以上參照《岐阜縣史》史料編,古代中世編一的卷末)。花押左右配置兩個大字,下方再配置幾個小字。右邊大字是「年」的草書體,左邊大字是「千」的草書體翻面(圖33),二個字之間有「とり」(圖35),又「千」(翻面)的下部分有一部分重疊
石田三成(図19)、小西行長(図20)の花押がこの実例である。石田三成の花押は「三」と「石」を重ね合わせた形であり、小西行長の花押は、左斜め上の角のように出た二線はおそらく「行」の草体を表わし、残りの本体部分は「西」の草体である。つまりこの二人は、苗字と実名を一字ずつ用いて花押を作ったのである。現在のところ、このような例をより早い時期に見出すことはできない。苗字の文字を花押に取り入れるこの様式が、石田・小西の二人に始まるとはいえないにしても、それほど溯って時期に見出されるとは考えられない。戦国、織豊期の新様式と見てよいのではあるまいか。
石田三成(圖19)、小西行長(圖20)的花押為實例,石田三成的花押是「三」與「石」重疊組合,小西行長的花押是左斜上的角二線恐怕是表示「行」字的草書體。總之二人是姓氏與名字中的一字作為花押的使用。在今天,無法發現早期的例子。以姓氏為花押的文字,應不是始於石田、小西二人,無法追溯大約出現的時期。戰國末、織豐期的新樣式,是較好的。
頁152
日本の花押は、改めて説明するまでもなく、実名を草体化する型にしても、実名の部分を合成する型にしても、実名の一字を形象化する型にしても、実名を原拠とする点では、すべて同じであって、花押の発生に由来するこの花押作成の原則は、平安朝以来根強く生き続けてきたのであった。その原則が今、苗字と実名の混合という形破られたことは、花押史上、画期な現象の背景には、実名及び苗字に対する時代の観念の変化があるのであって、この背景と関連なしに、花押に新様式を評価することはできない。そう考えると、署判に当たって、実名を花押に比して著しく小さく書く傾向や、さらに二字の実名の下の字に重ねるように花押を押署時には実名の上の字しか書かぬ傾向が十六、七世紀の間に強まった事実も、ここに想起されるのである。ここにはひとまず新様式を例示し、併せてこの様式の採用者が、新興武士の代表ともいうべき石田三成・小西行長であった事実を指摘するにとどめておく。
なお付言すれば、幕末維新期には勝海舟(麟太郎)の「麟」の字の花押(この点はなお後述)、坂本竜馬(実名は直柔?)の「龍馬」の二字を草名化した花押(図21)、大村益次郎の「益」の字の花押(図22)など、通称の文字を花押に用いる例が見出される。このよ
日本的花押無法說明其改變,以實名草書體化,是用實名的部分組合,也有實名的一個字形象化,以實名的原出處應是相同的,作為花押發生的由來,其原則在平安朝以來已經固定,且延續著。今天打破原則姓氏與實名混合的形式,成為花押史上的新時代。從以前這個特別書寫的現象背景,實名及姓氏的時代觀念改變,這個背景與評價花押新樣式有關。在十六、七世紀,以署判來看,實名的花押書寫的較小,進一步二個字的實名下重疊,押署花押時,不寫實名的字。首先示例的新樣式,以新興武士為代表的石田三成、小西行長。
再補充說明,幕末維新期的勝海舟(麟太郎)的「麟」字花押(後述其因)、坂本龍馬(實名是直柔)是草名化「龍馬」二個字作為花押(圖21),大村益次郎以「益」為花押(圖22),以非正式的名字文字作為花押。
頁153
うな花押の作り方が果たしてどこまで溯るか、苗字の文字の使用とも関連して、甚だ興味ある問題である。
C文字を離れた図形先学によって早く三好政康(図23)、真木島昭光(図24)、伊達政宗(図25)江戸時代に入って徳川光圀(図26)などの花押が、いずれも鳥の形の花押として挙示されている。今までの挙例による限り、例外なく鳥の形が用いられているが、そのことにどのような意味があるのか、何らかの寓意があるのか、全く未考である。
是與姓氏使用有關連的地方。
C脫離文字的圖形-153
根據前輩早期的三好政康(圖23)、真木島昭光(圖24)、伊達政宗(圖25),而進入江戶時代德川光圀(圖26)的花押,舉出以鳥形作為花押。限於舉出之例,不外乎是鳥形的花押,其意義及用意並非考量。
頁154
D理想・願望の表現
本人の実名とも苗字とも全く関係のない文字をえらんで、これを形象化した花押が見られるようになる。その場合に選ばれる文字は、当人の理想とか願望とかを表わすものが多いようである。一応この先蹤とも見られる花押として、室町将軍の公家様の花押のうち、義満・義教の花押は「義」の字、義持・義政の花押は「慈」の字にもとづくという(義満・義教・義持の花押については、康富記二、文安六年〔一四四九〕四月二日条参照)。このうち、「義」は義詮以来代々将軍の通字であるから、その通字にもとづくと解することは十分可能であるが、「慈」はそのように実名と関係づけて解釈することはできない。足利義教が兄義持の継嗣に選ばれて、青蓮院門跡より入って足利宗家をついだ際、還俗してまず義宣と名乗ったわけだが、その名字選定の議において、
D表現出理想˙願望-154
選用與本人實名及家族姓氏無關的文字,將此形象化,多表現此人的理想或願意。如前所舉大概以室町將軍所謂公家樣式的花押(圖27-30)。首先就此說明,已知室町將軍的公家樣式花押,其後義滿、義教的花押「義」字,義持、義政的花押以「慈」字(義滿、義教、義持的花押參照康富記二,文安六年〔一四四九〕四月二日條)。之後「義」成為義詮以來將軍的通用字,「慈」是與實名無關。足利義敦是其兄義持所選的繼嗣,在足利宗家成為青蓮院的住持時,還俗改為義宣。
頁155
「引文」
つまり「宣」の字は決断を意味し、天下の政務を決断する将軍の権力を象徴する文字として選定されており、翌年、義教と改名した際にも、「教」の字は「特為上之人衛名字相應者也,萬國彌可應御政教之兆歟」と説明さ
總之,「宣」字有決斷的意思,象徵將軍的權力決斷天下的政務,作為文字的選定,次年改名為義教,「教」字是「特為上之人衛名字相應者也,萬國彌可應御政教之兆歟」
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れている(同上、建内記二ノ六頁、正長二年〔一四二九〕三月九日条)。これら将軍の実名選定論議を参照すれば、義持・義政の花押の元字「慈」が、将軍の地位にふさわしい徳目として選ばれたと見るのが適当ではあるまいか。つまり、慈は将軍として備えているべき徳目であり、現に将軍が備えていると擬制的に観念される徳目であり、その限りにおいては、将軍の地位の抽象的表現と考えられたのではあるまいか。慈の徳は、将軍が現在は備えていないで、将来にその達成を期そうとする理想や願望ではなくして、現在の将軍の地位そのものを表現する文字として選ばれたのではないか。そう考えると、次に紹介する織田信長や竹中重治の花押は、本人の実名と無関係の文字を原拠とする点では義持。義政の場合と同じように見えるけれども、実はその文字に託する意味はちがうといわねばならぬ。
まず信長の花押(図15)だが、この花押は、頻々と花押を変えた信長の花押歴の上で比較的後期に属するものであって(信長の花押八種区分の中のⅤ型)、その原拠は「麟」の字と解せられる。筆者ははじめこれは解読できなかったが、たまた遥か後代の人物勝海舟の花押(図31)を寓目する機会を得て、これを手がかりとして、信長の花押について右の解釈を得た。勝海舟の花押は、彼が維新後、静岡に退隠中、門屋村名主等に渡した請状に押
(同上建內記二的頁六,正長二年三月九日條)。參照將軍實名的選定論議,義持、義政的花押元字「慈」是對應將軍地位的德目所選擇出來的。總之,慈作為將軍是必備的德目,是對現在將軍所要預備的擬制,是對將軍地位抽象的表現。慈的德目,是現任將軍所缺乏,期望將來能達成。以此考量,織田信長及竹中重治的花押是與本人的實名無關的文字,此點與義持及義政相同,事實上與寄託的文字意義不同。
首先信長的花押(圖15),這個花押在信長頻繁的變更下,是屬於後期的花押(信長八種花押的第Ⅴ型)原出字是解為「麟」。筆者開始無法解讀,偶然在注意後代人物勝海舟的花押(圖31)得到想法。勝海舟的花押是他在維新之後,退隱於靜岡中,對門屋村名主等的請狀所押的名字(白鳥家書)。
頁157
署されたもの(白鳥家文書)。これは明らかに「麟」の字の草体の下半部を左右に開いた形であって、彼の通称「麟太郎」にもとづくと見てよいであろう。そこで、この花押と信長の花押を比較対照すると、後者は前者の上部、詳しくいうと「鹿」の草体の書き出し部分(艸冠に似た形)と、「米」の部分を省略した形であって、いわば形象化を数歩進めた形になっている。
右のように解して誤りなしとすれば、次の問題は、信長がなぜ「麟」の字を選んだかである。この点については、今詳細な論証を略して、結論だけいえば、麟は麒と併せて麒麟とよばれる(雄を麒、雌を麟という)を常とす
可明白,其字是「麟」字的草書體,下半部是左右開的形狀,因其俗名為「麟太郎」。與信長的花押比對下,後著的上部比前者詳細是「鹿」的草書體(似艸冠),省略了「米」的部分,是進步的形象化。
右邊解釋無誤的話,下個問題是信長為何要選擇「麟」字,在此不詳論,以結論說明,麟是與麒合併成麒麟(雄是麒、雌是麟)
頁158
る中国の想像上の動物であり、この動物に関する知識が日本にも古くから伝わって、中世では、次に掲げる五山僧義堂周信の一文に説かれるような性質の動物として信ぜられていたのである。
「引文」
右に見る如く、麒麟が至治の世にしか姿を見せぬ動物であり、「聖人之隠現、王政之污隆」みなこれにかかわる底の動物であるとすれば、この文字に何が託されるかはおのずから明らかである。云く、至治の世、和平一統の代への願望である。自らの力によってそのような世を達成しようという理想を含意するかどうかは今にわかに断定できないとしても、そのような世を望ましきものとする認識の表明であることはおそらく疑いないであろう。
ところで、もう一つ問題になるのは、信長がこの「麟」の花押を用い始めた時期である。
在中國是想像上的動物,此知識是在日本古早已傳入,在中世紀由五山僧人義當周信一文記錄此性質的動物。
如右可知,麒麟是不見其外表的至治之世的動物,「」,這個文字是寄託什麼,是期望至治之世、和平一統的時代來臨。無法斷定由自己的力來達成今世的理想,寄託來世。
另外,還有個問題,信長用「麟」為花押是始於何時。
頁159
遺存の史料によれば、短線と点をもって組み立ていられた、偽造防止を主眼として作成されたとおぼしいⅣ型(図14)の使用された最も新しい文書は、永禄七年(一五六四)と推定される十一月二十三日付の新見文書であり、「麟」の花押の初見は永禄八年九月日付の寂光院文書である。従って「麟」の花押の使用開始は永禄七年十一月から翌八年九月までの間となる。さきに一言した如く、信長の花押歴において、Ⅰ型からⅡ型への転換が、花押作成原理の変更という意味で画期的だあったのと同様に、Ⅳ型からⅤ型(「麟」の花押)への転換も重大な意味を含んでいる。すなわち偽造防止を主目的として短線と点とで組成されたⅡ型以来の一貫した作成原理を一擲して、和平一統の願いという政治理念をこめた花押をしてこのような政治的行為をなさしめたものは一体何か。永禄八年五月十九日、松永久秀による将軍足利義輝の弒殺の事実がそれに当る、といえないであろうか。これより約二年の後、永禄十年八月信長は美濃国井の口城の斎藤龍興を逐って、同城を岐阜城と改名し(『岐阜県史』古代中世編)、同年十月頃より「天下布武」の印を使用する(奥野高広著『織田信長文書の研究』参照)。これを、隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
根據留下的史料,以短線與點組合,是為了防止飣造,使用Ⅳ型(圖ㄴ)最新的文書是永祿七年(一五六四)十一月二十三日付的新發現文書,「麟」花押初見是永祿八年九月日的寂光院文書。因此,「麟」字花押使用永祿七年十一月到翌八年九月。如前言,信長的花押是從Ⅰ到Ⅱ的轉換,變更花押的作成原理,有創新時代的意思。同樣的,從Ⅳ到Ⅴ(「麟」字花押),也是重大轉變,以短線及點是防止偽造為目的,短線及點的組成是Ⅱ型以來一貫作成的原理,注入所謂求和平一統的願望的政治行為。信長是為何有此政治行為,永祿八年五月十九日,因為松求久秀殺足利義輝將軍,仍無此用法。永祿十年八月信長追逐齋藤龍興到美濃國井的口城,並將此成改為岐阜城(《岐阜縣史》古代中世編),同年十一月使用「天下布武」的印章(參照奧野高廣,《織田信長文書の研究》)。注入隱微的花押有比喻堂堂開花之意。
頁160
見ても、おそらく的ずれにはなるまい。
もう一つの例は、美濃の武士竹中半兵衛重治(一五四四?~七九)の晩年の花押(図33)である。この花押は彼の没した天正七年と推定される(従って、もしこの推定通りならば死没二ヶ月前の)書状の押署されており、彼が重虎名乗った永禄七年当時の花押(図32)とは異なっている(以上、『岐阜県史』史料編、古代中世編一の巻末参照)。この花押は左右に大きく二字を配し、その下方に細字数個を配している。右の大字が「年」の草体、左の大字が「千」の草体の裏返し(図33)、そして二つの字の間にあるのが「とり」(図35)、また「千」(裏返し)の下部に一部分重なって
另一例是美濃武士竹中半兵衛重治(一五四四?~七九)的晚年花押(圖33),是其死後推定於天正七年(應是死前二個月)所押署於書狀上,永祿七年名為重虎的花押(圖32)不同(以上參照《岐阜縣史》史料編,古代中世編一的卷末)。花押左右配置兩個大字,下方再配置幾個小字。右邊大字是「年」的草書體,左邊大字是「千」的草書體翻面(圖33),二個字之間有「とり」(圖35),又「千」(翻面)的下部分有一部分重疊
November 7, 2007
頁141
ができよう。
終わりに、顕時の弟、鎮西探題となった実政、及び実政の子で、父のあとをについで鎮西探題となった政顕の花押を取り上げたい。まず実政の花押(図108)は終筆を、内巻き曲線を描きつつはね上げている点で、一応時政型に入れてよい。そして左端の三角形(図109の点線部分)を、花押作成上の補筆もしくは作為と見れば、この花押が「実」の「」を形象化して、やや左に傾け形であることは、動かぬところであろう。念のため、「」の草体の略形と筆順を示せば図110のようになる。次に政顕の花押(図111)であるが、これも花押作成上の補筆、作為と思われる部分(図112の点線部分)を除けば、骨格(図113)はほとんど父実政の花押と同じになり、「」を原拠としていることが分かる。すなわち政顕は彼の実名に拠らず、父の花押に修正を加えて、これを用いたわけである。
最後,是顯時弟弟實政成為鎮西探題及實政之子在其父之後也成為鎮西探題,是取材自政顯的花押。首先是實政的花押(圖108)最後一筆是漸漸向上內卷的曲線,大略是成為時政型較好的。左端的三角形(圖109虛線的部分),可能是作為花押的補筆,這個花押「實」是「」的形象化,漸漸有左傾,不更動。因為念,以圖110顯示「」的草書體的略形及筆順。其次是政顯的花押(圖111),也是花押作成的,除了作為的部分(圖112虛線的部分),骨架(圖113)大約是與其父實政相同的花押,依據「」可了解。即政顯不以他的實名,是以其父的花押加以修正。95.10.14
頁143
Ⅵ十六世紀武家的花押-143
Ⅵ十六世紀の武家の花押
頁144
花押は自署から発しており、押署する本人を他と区別するシルシ(判)である。つまり花押は押署者の表徴である。従って花押は本来、人人ちがうはずであり、事実大部分がそうである。だが、ちがうといっても、ちがう中にもおのずから一つの類型にもとめてみることのできる花押が数多くあり、また、著しく類似した花押もある。このような花押の類似性、類型性が、全くの偶然の結果であるよりはむしろ、何らか、作為の結果である方が一般的であろうという予測に立って、作為の実体を考え明らかにすることは、花押史の中の一節、おそらくは花押の形の歴史の中心部分をなすことになるであろう。日本の花押史の中で、種々の意味で甚だ激動的であり、転換期として位置づけられるであろう十六世紀を中心に、花押の類似性、類型性の問題を考えてみたい。但し、この時代の花押全般を考察する力は筆者にはないので、ここでは、筆者がこれまで比較的関心を懐いてきた武家の花押だけを対象としたい。
花押是從自署發起,以區別本人與他人的簽名。總之,花押是押署者的表徵。從前花押本來是應是每人都不同,事實上大部分也是如此,只是以不同之中,又可自成一類型,大多數的花押成為顯著的類似花押。花押的類似型、類型性是全部偶然的結果,為何會有如此的結果,考量作為實體,花押史中的一節,恐怕是成為花押的歷史中心的部分。日本的花押史中,在各種意義中非常激動的,作為轉型期的位置是於十六世紀,應去考量花押的類似性、類型性的問題。可是,以此時代的全部花押來思考,筆者無此心力,因此關心的是武家的花押為對象。
頁145
一新様式の発生
一 新形式的產生-145
室町時代の武家の花押では、足利尊氏の花押に発する、いわゆる足利様の花押が隆盛をきわめたことは、広く知られている通りである。まずその例を数点あげておく(図1~4)。室町末、戦国時代、織豊政権期においても、伝統的な足利様を追うものの多かったことはいうまでもないが、そうした中で、いくつかの、足利様と決別した新様式が出てくるのを認めることができる。次にそれを四
室町時代的武家花押以足利尊氏的花押起發,到了隆盛時達到極致。首先舉出幾個例子(圖1~4)。室町末、戰國時代、織豐政權期不再是追隨著傳統的足利樣式,與足利樣式訣別的新樣式出現。試著四項要敘述。
頁146
項にもとめて述べてみたい。
足利様について一言つけ加えるならば、一様に足利様と見られる花押の中にも、ただ足利様に追随しただけで、実名とは全く無関係に作られた花押と、足利様の形を追いながらも、実名の一字もしくは部分を含めて作られた花押とがある、ということである。今、後者の実例として尼子経久(図5)同晴久(図6)、毛利元就(図7)をあげておく。尼子経久・同晴久の花押には「久」の字が含まれており、毛利元就の花押には、その上半部に「元」の字が含まれている(元就のこの型の初期の花押を見ると、一層よく分かる)。こういう例は、鎌
就足利樣式而言,以一句話來說的話,與其一樣的花押,僅追隨足利樣式,與其實名全無關係所作的花押,追隨著足利樣式,也可能含有實名的一個字。在今天後者的實例尼子經久(圖5)、同晴久(圖6)、毛利元就(圖7),尼子經久、同晴欠含有「久」字,毛利元就的花押上半部含「元」字(元就是此型初期的花押可以更容易理解)。
頁147
倉時代の、北条の風靡した北条一族の花押にも認められるから、南北朝・室町時代を通じて、こういう作り方が、部分的にせよ存在したと考えてよいであろう。
此例在鎌倉時代,以北條氏一族的花押風靡的北條樣式,在南北朝及室町時代也如此,存在部分的作法。
A実名文字の倒置・裏返し
A將姓名文字倒置及翻面-147
近江北部の戦国大名浅井久政の花押(図8)は、全体の形を、下向き彎曲型ともいうべき当時の新型に準拠しつつ(下向き彎曲についてはなお後述)、その中に「久」の字の草体を左に倒して書きこんでいる。次に久政のこ長政の花押(図9)は、「長」の字を右に倒して形象化したものである。浅井長政ははじめ六角義賢の一字をもらって「賢政」と名乗ったが、やがて六角と絶って織田信長と盟約し、信長の一字をもらって「長政」と改名した。改名と同時に、従来の花押をすてて、この型の花押を用いるようになったようである。詳しくいえば、永禄四年(一五六一)閏三月九日にはまだ浅井備前守賢政と署して旧花押を用いているが(近江、称名寺文書)、同年六月二十日の書状には長政と署して、この新型の花押を用いている(図9は永禄六年十月八日付、成就院文書から採った)。このような実名の
近江北部的戰國大名淺井久政的花押(圖8),以全體形式是以向下彎曲型應該是漸漸為當時的新型式準據(後述向下彎曲型),其中的「久」字的草書體是向左倒的寫法。久政之子長政的花押(圖9)是形象化的「長」字向右傾倒。淺井長政開始含有六角義賢的一個字,以「賢政」為名,大約在與六角斷絕與織田信長結盟,以信長的一個字改名為「長政」,改名同時也捨棄以前的花押,改用此型。詳細說明的話,永祿四年(一五六一)閏三月九日淺廿備前守賢政仍簽署舊花押(近江、稱名寺文書),同年六月二十日的書狀簽署長政,改用新花押(圖9是永祿六夫十月八日付於成就院文書)。實名
頁148
一字を倒して花押を作る例は、遥かに溯って平安末期、久安四年(一一四八)四月十五日三春是行の花押(図10)に見出すことができる。これは東大寺図書館所蔵の東大寺文書に収められた是行の起請文に押署されていて、明らかに「行」の字の草体を右に倒した形である。してみると、こういう花押の作り方は中世を通じて存続したかもしれず、にわかに戦国時代新出の様式ともいいきれない感もあるが、現在のところ、中世に適例を見出せないので、ひとまず新様式に入れておく。
実名文字の倒置と関連してあげられるのは実名文字の裏返しであって、織田信長の花押にその適例を見ることができる。織田信長は
中的一個字倒寫的花押例,追溯到遙遠的平安末期,久安四年(一一四八)四月十五日三春是行的花押(圖10),收在東大寺圖書館所藏的東大寺文書,為是行的起請文的押署,可明白是「行」的草書體向右傾倒。這樣花押的作法通行於中世且繼續存在,突然戰國時代出現新樣式,感覺不美,在現在的無中世的適當例子,進入與之前不同的新樣式。
與倒置實名文字相關是的是翻面的實名文字,以織田信長的花押是最好的例子。織田信長
頁149
頻繁に花押を改めたことで知られる人物であって、大まかに分類しても前後八類を数えることができる(図11~18)。すなわち信長は、父のあとをついでまず足利様の花押(図11)を用いたが(天文十八、九年〔一五四九、五〇〕頃)、天文二十一年になると、ここに取り上げる第Ⅱ型(図12)を用いており、以後頻々と形を変えて、ついに足利様に戻ることはなかった(信長の花押については奥野高広『織田信長文書の研究』下巻巻末参照)。さて、信長のこの花押の左部分は「長」の草体裏返した形である。残りの右部分は判然としないけれども、「信」の字を形象化したものの裏返しと見てはどうであろうか。もしそうならば、こ
是周知頻繁改變花押的人物,粗略分類前後有八種。(圖11~18)信長延續其父用足利樣式的花押(圖11)(天文十八、九〔一五四九、五○〕),天文二十一年時改為第Ⅱ型(圖12),之後一直改變,最後不回到足利樣式(信長花押參照奧野高広《織田信長文書の研究)下卷的最後。)信長的花押左部分是「長」的草書體翻面,雖然殘留的右半部不明確,可看出是「信」字的形象化再翻面。若如此的話,
頁150
の花押は「信長」の二字を左横書にして裏返した形となる。左横書、裏返しという二重の意外性をもつものとして、新奇、奇抜な花押の続出した当代にあって、一頭地を抜くと評してよいであろう。
それでは、実名文字の倒置とか裏返しのような新奇な型を用いる主たる意図は何であろうか。花押の原拠を秘匿できる点や、ここにあげた浅井久政・織田信長の例に見られる如く、比較的短い線(極端な場合には点に近くなる)を多数み合わせている点などから考えれば、これらの型は偽造、盗用の防止を主眼として作成されたと見てようであろう。この解釈を裏付けるかのように、浅井長政は図9の花押に年を追うて小変更を加えて、次第に横長の方形に変えており、信長に至っては、Ⅱ型よりも一層短線と点の多いⅢ型(図13)、Ⅳ型(図14)へと移ってゆくのである(Ⅲ型、Ⅳ型が何もとづくものか、いまだ成案をえない)。
這個花押是「信長」二字左橫書再翻面。左橫書加上翻面這二個特別的書寫方式,是成為當代新奇的花押。
倒置實名文字或翻面的新奇型花押,其用意何在。花押的原來是要隱匿的,如淺井久政、長政及織田信長的例子可見,多數組合是用比較短的線條(近乎極端的狀態),這樣是為了防止偽造及盜用。以此為解釋的證據,淺井長政隨著年齡增長有小變化,改成橫長的方形,到了信長的Ⅲ型(圖13),比Ⅱ型更多短線及點再轉移到Ⅳ型(圖14)。(但是基於何因成為此型,無法得知)95.10.15 96.06.19
B苗字の文字の使用
B使用家族姓氏的文字-150
ができよう。
終わりに、顕時の弟、鎮西探題となった実政、及び実政の子で、父のあとをについで鎮西探題となった政顕の花押を取り上げたい。まず実政の花押(図108)は終筆を、内巻き曲線を描きつつはね上げている点で、一応時政型に入れてよい。そして左端の三角形(図109の点線部分)を、花押作成上の補筆もしくは作為と見れば、この花押が「実」の「」を形象化して、やや左に傾け形であることは、動かぬところであろう。念のため、「」の草体の略形と筆順を示せば図110のようになる。次に政顕の花押(図111)であるが、これも花押作成上の補筆、作為と思われる部分(図112の点線部分)を除けば、骨格(図113)はほとんど父実政の花押と同じになり、「」を原拠としていることが分かる。すなわち政顕は彼の実名に拠らず、父の花押に修正を加えて、これを用いたわけである。
最後,是顯時弟弟實政成為鎮西探題及實政之子在其父之後也成為鎮西探題,是取材自政顯的花押。首先是實政的花押(圖108)最後一筆是漸漸向上內卷的曲線,大略是成為時政型較好的。左端的三角形(圖109虛線的部分),可能是作為花押的補筆,這個花押「實」是「」的形象化,漸漸有左傾,不更動。因為念,以圖110顯示「」的草書體的略形及筆順。其次是政顯的花押(圖111),也是花押作成的,除了作為的部分(圖112虛線的部分),骨架(圖113)大約是與其父實政相同的花押,依據「」可了解。即政顯不以他的實名,是以其父的花押加以修正。95.10.14
頁143
Ⅵ十六世紀武家的花押-143
Ⅵ十六世紀の武家の花押
頁144
花押は自署から発しており、押署する本人を他と区別するシルシ(判)である。つまり花押は押署者の表徴である。従って花押は本来、人人ちがうはずであり、事実大部分がそうである。だが、ちがうといっても、ちがう中にもおのずから一つの類型にもとめてみることのできる花押が数多くあり、また、著しく類似した花押もある。このような花押の類似性、類型性が、全くの偶然の結果であるよりはむしろ、何らか、作為の結果である方が一般的であろうという予測に立って、作為の実体を考え明らかにすることは、花押史の中の一節、おそらくは花押の形の歴史の中心部分をなすことになるであろう。日本の花押史の中で、種々の意味で甚だ激動的であり、転換期として位置づけられるであろう十六世紀を中心に、花押の類似性、類型性の問題を考えてみたい。但し、この時代の花押全般を考察する力は筆者にはないので、ここでは、筆者がこれまで比較的関心を懐いてきた武家の花押だけを対象としたい。
花押是從自署發起,以區別本人與他人的簽名。總之,花押是押署者的表徵。從前花押本來是應是每人都不同,事實上大部分也是如此,只是以不同之中,又可自成一類型,大多數的花押成為顯著的類似花押。花押的類似型、類型性是全部偶然的結果,為何會有如此的結果,考量作為實體,花押史中的一節,恐怕是成為花押的歷史中心的部分。日本的花押史中,在各種意義中非常激動的,作為轉型期的位置是於十六世紀,應去考量花押的類似性、類型性的問題。可是,以此時代的全部花押來思考,筆者無此心力,因此關心的是武家的花押為對象。
頁145
一新様式の発生
一 新形式的產生-145
室町時代の武家の花押では、足利尊氏の花押に発する、いわゆる足利様の花押が隆盛をきわめたことは、広く知られている通りである。まずその例を数点あげておく(図1~4)。室町末、戦国時代、織豊政権期においても、伝統的な足利様を追うものの多かったことはいうまでもないが、そうした中で、いくつかの、足利様と決別した新様式が出てくるのを認めることができる。次にそれを四
室町時代的武家花押以足利尊氏的花押起發,到了隆盛時達到極致。首先舉出幾個例子(圖1~4)。室町末、戰國時代、織豐政權期不再是追隨著傳統的足利樣式,與足利樣式訣別的新樣式出現。試著四項要敘述。
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項にもとめて述べてみたい。
足利様について一言つけ加えるならば、一様に足利様と見られる花押の中にも、ただ足利様に追随しただけで、実名とは全く無関係に作られた花押と、足利様の形を追いながらも、実名の一字もしくは部分を含めて作られた花押とがある、ということである。今、後者の実例として尼子経久(図5)同晴久(図6)、毛利元就(図7)をあげておく。尼子経久・同晴久の花押には「久」の字が含まれており、毛利元就の花押には、その上半部に「元」の字が含まれている(元就のこの型の初期の花押を見ると、一層よく分かる)。こういう例は、鎌
就足利樣式而言,以一句話來說的話,與其一樣的花押,僅追隨足利樣式,與其實名全無關係所作的花押,追隨著足利樣式,也可能含有實名的一個字。在今天後者的實例尼子經久(圖5)、同晴久(圖6)、毛利元就(圖7),尼子經久、同晴欠含有「久」字,毛利元就的花押上半部含「元」字(元就是此型初期的花押可以更容易理解)。
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倉時代の、北条の風靡した北条一族の花押にも認められるから、南北朝・室町時代を通じて、こういう作り方が、部分的にせよ存在したと考えてよいであろう。
此例在鎌倉時代,以北條氏一族的花押風靡的北條樣式,在南北朝及室町時代也如此,存在部分的作法。
A実名文字の倒置・裏返し
A將姓名文字倒置及翻面-147
近江北部の戦国大名浅井久政の花押(図8)は、全体の形を、下向き彎曲型ともいうべき当時の新型に準拠しつつ(下向き彎曲についてはなお後述)、その中に「久」の字の草体を左に倒して書きこんでいる。次に久政のこ長政の花押(図9)は、「長」の字を右に倒して形象化したものである。浅井長政ははじめ六角義賢の一字をもらって「賢政」と名乗ったが、やがて六角と絶って織田信長と盟約し、信長の一字をもらって「長政」と改名した。改名と同時に、従来の花押をすてて、この型の花押を用いるようになったようである。詳しくいえば、永禄四年(一五六一)閏三月九日にはまだ浅井備前守賢政と署して旧花押を用いているが(近江、称名寺文書)、同年六月二十日の書状には長政と署して、この新型の花押を用いている(図9は永禄六年十月八日付、成就院文書から採った)。このような実名の
近江北部的戰國大名淺井久政的花押(圖8),以全體形式是以向下彎曲型應該是漸漸為當時的新型式準據(後述向下彎曲型),其中的「久」字的草書體是向左倒的寫法。久政之子長政的花押(圖9)是形象化的「長」字向右傾倒。淺井長政開始含有六角義賢的一個字,以「賢政」為名,大約在與六角斷絕與織田信長結盟,以信長的一個字改名為「長政」,改名同時也捨棄以前的花押,改用此型。詳細說明的話,永祿四年(一五六一)閏三月九日淺廿備前守賢政仍簽署舊花押(近江、稱名寺文書),同年六月二十日的書狀簽署長政,改用新花押(圖9是永祿六夫十月八日付於成就院文書)。實名
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一字を倒して花押を作る例は、遥かに溯って平安末期、久安四年(一一四八)四月十五日三春是行の花押(図10)に見出すことができる。これは東大寺図書館所蔵の東大寺文書に収められた是行の起請文に押署されていて、明らかに「行」の字の草体を右に倒した形である。してみると、こういう花押の作り方は中世を通じて存続したかもしれず、にわかに戦国時代新出の様式ともいいきれない感もあるが、現在のところ、中世に適例を見出せないので、ひとまず新様式に入れておく。
実名文字の倒置と関連してあげられるのは実名文字の裏返しであって、織田信長の花押にその適例を見ることができる。織田信長は
中的一個字倒寫的花押例,追溯到遙遠的平安末期,久安四年(一一四八)四月十五日三春是行的花押(圖10),收在東大寺圖書館所藏的東大寺文書,為是行的起請文的押署,可明白是「行」的草書體向右傾倒。這樣花押的作法通行於中世且繼續存在,突然戰國時代出現新樣式,感覺不美,在現在的無中世的適當例子,進入與之前不同的新樣式。
與倒置實名文字相關是的是翻面的實名文字,以織田信長的花押是最好的例子。織田信長
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頻繁に花押を改めたことで知られる人物であって、大まかに分類しても前後八類を数えることができる(図11~18)。すなわち信長は、父のあとをついでまず足利様の花押(図11)を用いたが(天文十八、九年〔一五四九、五〇〕頃)、天文二十一年になると、ここに取り上げる第Ⅱ型(図12)を用いており、以後頻々と形を変えて、ついに足利様に戻ることはなかった(信長の花押については奥野高広『織田信長文書の研究』下巻巻末参照)。さて、信長のこの花押の左部分は「長」の草体裏返した形である。残りの右部分は判然としないけれども、「信」の字を形象化したものの裏返しと見てはどうであろうか。もしそうならば、こ
是周知頻繁改變花押的人物,粗略分類前後有八種。(圖11~18)信長延續其父用足利樣式的花押(圖11)(天文十八、九〔一五四九、五○〕),天文二十一年時改為第Ⅱ型(圖12),之後一直改變,最後不回到足利樣式(信長花押參照奧野高広《織田信長文書の研究)下卷的最後。)信長的花押左部分是「長」的草書體翻面,雖然殘留的右半部不明確,可看出是「信」字的形象化再翻面。若如此的話,
頁150
の花押は「信長」の二字を左横書にして裏返した形となる。左横書、裏返しという二重の意外性をもつものとして、新奇、奇抜な花押の続出した当代にあって、一頭地を抜くと評してよいであろう。
それでは、実名文字の倒置とか裏返しのような新奇な型を用いる主たる意図は何であろうか。花押の原拠を秘匿できる点や、ここにあげた浅井久政・織田信長の例に見られる如く、比較的短い線(極端な場合には点に近くなる)を多数み合わせている点などから考えれば、これらの型は偽造、盗用の防止を主眼として作成されたと見てようであろう。この解釈を裏付けるかのように、浅井長政は図9の花押に年を追うて小変更を加えて、次第に横長の方形に変えており、信長に至っては、Ⅱ型よりも一層短線と点の多いⅢ型(図13)、Ⅳ型(図14)へと移ってゆくのである(Ⅲ型、Ⅳ型が何もとづくものか、いまだ成案をえない)。
這個花押是「信長」二字左橫書再翻面。左橫書加上翻面這二個特別的書寫方式,是成為當代新奇的花押。
倒置實名文字或翻面的新奇型花押,其用意何在。花押的原來是要隱匿的,如淺井久政、長政及織田信長的例子可見,多數組合是用比較短的線條(近乎極端的狀態),這樣是為了防止偽造及盜用。以此為解釋的證據,淺井長政隨著年齡增長有小變化,改成橫長的方形,到了信長的Ⅲ型(圖13),比Ⅱ型更多短線及點再轉移到Ⅳ型(圖14)。(但是基於何因成為此型,無法得知)95.10.15 96.06.19
B苗字の文字の使用
B使用家族姓氏的文字-150
October 31, 2007
頁141
ができよう。
終わりに、顕時の弟、鎮西探題となった実政、及び実政の子で、父のあとをについで鎮西探題となった政顕の花押を取り上げたい。まず実政の花押(図108)は終筆を、内巻き曲線を描きつつはね上げている点で、一応時政型に入れてよい。そして左端の三角形(図109の点線部分)を、花押作成上の補筆もしくは作為と見れば、この花押が「実」の「」を形象化して、やや左に傾け形であることは、動かぬところであろう。念のため、「」の草体の略形と筆順を示せば図110のようになる。次に政顕の花押(図111)であるが、これも花押作成上の補筆、作為と思われる部分(図112の点線部分)を除けば、骨格(図113)はほとんど父実政の花押と同じになり、「」を原拠としていることが分かる。すなわち政顕は彼の実名に拠らず、父の花押に修正を加えて、これを用いたわけである。
最後,是顯時弟弟實政成為鎮西探題及實政之子在其父之後也成為鎮西探題,是取材自政顯的花押。首先是實政的花押(圖108)最後一筆是漸漸向上內卷的曲線,大略是成為時政型較好的。左端的三角形(圖109虛線的部分),可能是作為花押的補筆,這個花押「實」是「」的形象化,漸漸有左傾,不更動。因為念,以圖110顯示「」的草書體的略形及筆順。其次是政顯的花押(圖111),也是花押作成的,除了作為的部分(圖112虛線的部分),骨架(圖113)大約是與其父實政相同的花押,依據「」可了解。即政顯不以他的實名,是以其父的花押加以修正。95.10.14
頁143
Ⅵ十六世紀武家的花押-143
Ⅵ十六世紀の武家の花押
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花押は自署から発しており、押署する本人を他と区別するシルシ(判)である。つまり花押は押署者の表徴である。従って花押は本来、人人ちがうはずであり、事実大部分がそうである。だが、ちがうといっても、ちがう中にもおのずから一つの類型にもとめてみることのできる花押が数多くあり、また、著しく類似した花押もある。このような花押の類似性、類型性が、全くの偶然の結果であるよりはむしろ、何らか、作為の結果である方が一般的であろうという予測に立って、作為の実体を考え明らかにすることは、花押史の中の一節、おそらくは花押の形の歴史の中心部分をなすことになるであろう。日本の花押史の中で、種々の意味で甚だ激動的であり、転換期として位置づけられるであろう十六世紀を中心に、花押の類似性、類型性の問題を考えてみたい。但し、この時代の花押全般を考察する力は筆者にはないので、ここでは、筆者がこれまで比較的関心を懐いてきた武家の花押だけを対象としたい。
花押是從自署發起,以區別本人與他人的簽名。總之,花押是押署者的表徵。從前花押本來是應是每人都不同,事實上大部分也是如此,只是以不同之中,又可自成一類型,大多數的花押成為顯著的類似花押。花押的類似型、類型性是全部偶然的結果,為何會有如此的結果,考量作為實體,花押史中的一節,恐怕是成為花押的歷史中心的部分。日本的花押史中,在各種意義中非常激動的,作為轉型期的位置是於十六世紀,應去考量花押的類似性、類型性的問題。可是,以此時代的全部花押來思考,筆者無此心力,因此關心的是武家的花押為對象。
頁145
一新様式の発生
一 新形式的產生-145
室町時代の武家の花押では、足利尊氏の花押に発する、いわゆる足利様の花押が隆盛をきわめたことは、広く知られている通りである。まずその例を数点あげておく(図1~4)。室町末、戦国時代、織豊政権期においても、伝統的な足利様を追うものの多かったことはいうまでもないが、そうした中で、いくつかの、足利様と決別した新様式が出てくるのを認めることができる。次にそれを四
室町時代的武家花押以足利尊氏的花押起發,到了隆盛時達到極致。首先舉出幾個例子(圖1~4)。室町末、戰國時代、織豐政權期不再是追隨著傳統的足利樣式,與足利樣式訣別的新樣式出現。試著四項要敘述。
頁146
項にもとめて述べてみたい。
足利様について一言つけ加えるならば、一様に足利様と見られる花押の中にも、ただ足利様に追随しただけで、実名とは全く無関係に作られた花押と、足利様の形を追いながらも、実名の一字もしくは部分を含めて作られた花押とがある、ということである。今、後者の実例として尼子経久(図5)同晴久(図6)、毛利元就(図7)をあげておく。尼子経久・同晴久の花押には「久」の字が含まれており、毛利元就の花押には、その上半部に「元」の字が含まれている(元就のこの型の初期の花押を見ると、一層よく分かる)。こういう例は、鎌
就足利樣式而言,以一句話來說的話,與其一樣的花押,僅追隨足利樣式,與其實名全無關係所作的花押,追隨著足利樣式,也可能含有實名的一個字。在今天後者的實例尼子經久(圖5)、同晴久(圖6)、毛利元就(圖7),尼子經久、同晴欠含有「久」字,毛利元就的花押上半部含「元」字(元就是此型初期的花押可以更容易理解)。
頁147
倉時代の、北条の風靡した北条一族の花押にも認められるから、南北朝・室町時代を通じて、こういう作り方が、部分的にせよ存在したと考えてよいであろう。
此例在鎌倉時代,以北條氏一族的花押風靡的北條樣式,在南北朝及室町時代也如此,存在部分的作法。
A実名文字の倒置・裏返し
A將姓名文字倒置及翻面-147
近江北部の戦国大名浅井久政の花押(図8)は、全体の形を、下向き彎曲型ともいうべき当時の新型に準拠しつつ(下向き彎曲についてはなお後述)、その中に「久」の字の草体を左に倒して書きこんでいる。次に久政のこ長政の花押(図9)は、「長」の字を右に倒して形象化したものである。浅井長政ははじめ六角義賢の一字をもらって「賢政」と名乗ったが、やがて六角と絶って織田信長と盟約し、信長の一字をもらって「長政」と改名した。改名と同時に、従来の花押をすてて、この型の花押を用いるようになったようである。詳しくいえば、永禄四年(一五六一)閏三月九日にはまだ浅井備前守賢政と署して旧花押を用いているが(近江、称名寺文書)、同年六月二十日の書状には長政と署して、この新型の花押を用いている(図9は永禄六年十月八日付、成就院文書から採った)。このような実名の
近江北部的戰國大名淺井久政的花押(圖8),以全體形式是以向下彎曲型應該是漸漸為當時的新型式準據(後述向下彎曲型),其中的「久」字的草書體是向左倒的寫法。久政之子長政的花押(圖9)是形象化的「長」字向右傾倒。淺井長政開始含有六角義賢的一個字,以「賢政」為名,大約在與六角斷絕與織田信長結盟,以信長的一個字改名為「長政」,改名同時也捨棄以前的花押,改用此型。詳細說明的話,永祿四年(一五六一)閏三月九日淺廿備前守賢政仍簽署舊花押(近江、稱名寺文書),同年六月二十日的書狀簽署長政,改用新花押(圖9是永祿六夫十月八日付於成就院文書)。實名
頁148
一字を倒して花押を作る例は、遥かに溯って平安末期、久安四年(一一四八)四月十五日三春是行の花押(図10)に見出すことができる。これは東大寺図書館所蔵の東大寺文書に収められた是行の起請文に押署されていて、明らかに「行」の字の草体を右に倒した形である。してみると、こういう花押の作り方は中世を通じて存続したかもしれず、にわかに戦国時代新出の様式ともいいきれない感もあるが、現在のところ、中世に適例を見出せないので、ひとまず新様式に入れておく。
実名文字の倒置と関連してあげられるのは実名文字の裏返しであって、織田信長の花押にその適例を見ることができる。織田信長は
中的一個字倒寫的花押例,追溯到遙遠的平安末期,久安四年(一一四八)四月十五日三春是行的花押(圖10),收在東大寺圖書館所藏的東大寺文書,為是行的起請文的押署,可明白是「行」的草書體向右傾倒。這樣花押的作法通行於中世且繼續存在,突然戰國時代出現新樣式,感覺不美,在現在的無中世的適當例子,進入與之前不同的新樣式。
與倒置實名文字相關是的是翻面的實名文字,以織田信長的花押是最好的例子。織田信長
頁149
頻繁に花押を改めたことで知られる人物であって、大まかに分類しても前後八類を数えることができる(図11~18)。すなわち信長は、父のあとをついでまず足利様の花押(図11)を用いたが(天文十八、九年〔一五四九、五〇〕頃)、天文二十一年になると、ここに取り上げる第Ⅱ型(図12)を用いており、以後頻々と形を変えて、ついに足利様に戻ることはなかった(信長の花押については奥野高広『織田信長文書の研究』下巻巻末参照)。さて、信長のこの花押の左部分は「長」の草体裏返した形である。残りの右部分は判然としないけれども、「信」の字を形象化したものの裏返しと見てはどうであろうか。もしそうならば、こ
是周知頻繁改變花押的人物,粗略分類前後有八種。(圖11~18)信長延續其父用足利樣式的花押(圖11)(天文十八、九〔一五四九、五○〕),天文二十一年時改為第Ⅱ型(圖12),之後一直改變,最後不回到足利樣式(信長花押參照奧野高広《織田信長文書の研究)下卷的最後。)信長的花押左部分是「長」的草書體翻面,雖然殘留的右半部不明確,可看出是「信」字的形象化再翻面。若如此的話,
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の花押は「信長」の二字を左横書にして裏返した形となる。左横書、裏返しという二重の意外性をもつものとして、新奇、奇抜な花押の続出した当代にあって、一頭地を抜くと評してよいであろう。
それでは、実名文字の倒置とか裏返しのような新奇な型を用いる主たる意図は何であろうか。花押の原拠を秘匿できる点や、ここにあげた浅井久政・織田信長の例に見られる如く、比較的短い線(極端な場合には点に近くなる)を多数み合わせている点などから考えれば、これらの型は偽造、盗用の防止を主眼として作成されたと見てようであろう。この解釈を裏付けるかのように、浅井長政は図9の花押に年を追うて小変更を加えて、次第に横長の方形に変えており、信長に至っては、Ⅱ型よりも一層短線と点の多いⅢ型(図13)、Ⅳ型(図14)へと移ってゆくのである(Ⅲ型、Ⅳ型が何もとづくものか、いまだ成案をえない)。
這個花押是「信長」二字左橫書再翻面。左橫書加上翻面這二個特別的書寫方式,是成為當代新奇的花押。
倒置實名文字或翻面的新奇型花押,其用意何在。花押的原來是要隱匿的,如淺井久政、長政及織田信長的例子可見,多數組合是用比較短的線條(近乎極端的狀態),這樣是為了防止偽造及盜用。以此為解釋的證據,淺井長政隨著年齡增長有小變化,改成橫長的方形,到了信長的Ⅲ型(圖13),比Ⅱ型更多短線及點再轉移到Ⅳ型(圖14)。(但是基於何因成為此型,無法得知)95.10.15 96.06.19
B苗字の文字の使用
B使用家族姓氏的文字-150
ができよう。
終わりに、顕時の弟、鎮西探題となった実政、及び実政の子で、父のあとをについで鎮西探題となった政顕の花押を取り上げたい。まず実政の花押(図108)は終筆を、内巻き曲線を描きつつはね上げている点で、一応時政型に入れてよい。そして左端の三角形(図109の点線部分)を、花押作成上の補筆もしくは作為と見れば、この花押が「実」の「」を形象化して、やや左に傾け形であることは、動かぬところであろう。念のため、「」の草体の略形と筆順を示せば図110のようになる。次に政顕の花押(図111)であるが、これも花押作成上の補筆、作為と思われる部分(図112の点線部分)を除けば、骨格(図113)はほとんど父実政の花押と同じになり、「」を原拠としていることが分かる。すなわち政顕は彼の実名に拠らず、父の花押に修正を加えて、これを用いたわけである。
最後,是顯時弟弟實政成為鎮西探題及實政之子在其父之後也成為鎮西探題,是取材自政顯的花押。首先是實政的花押(圖108)最後一筆是漸漸向上內卷的曲線,大略是成為時政型較好的。左端的三角形(圖109虛線的部分),可能是作為花押的補筆,這個花押「實」是「」的形象化,漸漸有左傾,不更動。因為念,以圖110顯示「」的草書體的略形及筆順。其次是政顯的花押(圖111),也是花押作成的,除了作為的部分(圖112虛線的部分),骨架(圖113)大約是與其父實政相同的花押,依據「」可了解。即政顯不以他的實名,是以其父的花押加以修正。95.10.14
頁143
Ⅵ十六世紀武家的花押-143
Ⅵ十六世紀の武家の花押
頁144
花押は自署から発しており、押署する本人を他と区別するシルシ(判)である。つまり花押は押署者の表徴である。従って花押は本来、人人ちがうはずであり、事実大部分がそうである。だが、ちがうといっても、ちがう中にもおのずから一つの類型にもとめてみることのできる花押が数多くあり、また、著しく類似した花押もある。このような花押の類似性、類型性が、全くの偶然の結果であるよりはむしろ、何らか、作為の結果である方が一般的であろうという予測に立って、作為の実体を考え明らかにすることは、花押史の中の一節、おそらくは花押の形の歴史の中心部分をなすことになるであろう。日本の花押史の中で、種々の意味で甚だ激動的であり、転換期として位置づけられるであろう十六世紀を中心に、花押の類似性、類型性の問題を考えてみたい。但し、この時代の花押全般を考察する力は筆者にはないので、ここでは、筆者がこれまで比較的関心を懐いてきた武家の花押だけを対象としたい。
花押是從自署發起,以區別本人與他人的簽名。總之,花押是押署者的表徵。從前花押本來是應是每人都不同,事實上大部分也是如此,只是以不同之中,又可自成一類型,大多數的花押成為顯著的類似花押。花押的類似型、類型性是全部偶然的結果,為何會有如此的結果,考量作為實體,花押史中的一節,恐怕是成為花押的歷史中心的部分。日本的花押史中,在各種意義中非常激動的,作為轉型期的位置是於十六世紀,應去考量花押的類似性、類型性的問題。可是,以此時代的全部花押來思考,筆者無此心力,因此關心的是武家的花押為對象。
頁145
一新様式の発生
一 新形式的產生-145
室町時代の武家の花押では、足利尊氏の花押に発する、いわゆる足利様の花押が隆盛をきわめたことは、広く知られている通りである。まずその例を数点あげておく(図1~4)。室町末、戦国時代、織豊政権期においても、伝統的な足利様を追うものの多かったことはいうまでもないが、そうした中で、いくつかの、足利様と決別した新様式が出てくるのを認めることができる。次にそれを四
室町時代的武家花押以足利尊氏的花押起發,到了隆盛時達到極致。首先舉出幾個例子(圖1~4)。室町末、戰國時代、織豐政權期不再是追隨著傳統的足利樣式,與足利樣式訣別的新樣式出現。試著四項要敘述。
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項にもとめて述べてみたい。
足利様について一言つけ加えるならば、一様に足利様と見られる花押の中にも、ただ足利様に追随しただけで、実名とは全く無関係に作られた花押と、足利様の形を追いながらも、実名の一字もしくは部分を含めて作られた花押とがある、ということである。今、後者の実例として尼子経久(図5)同晴久(図6)、毛利元就(図7)をあげておく。尼子経久・同晴久の花押には「久」の字が含まれており、毛利元就の花押には、その上半部に「元」の字が含まれている(元就のこの型の初期の花押を見ると、一層よく分かる)。こういう例は、鎌
就足利樣式而言,以一句話來說的話,與其一樣的花押,僅追隨足利樣式,與其實名全無關係所作的花押,追隨著足利樣式,也可能含有實名的一個字。在今天後者的實例尼子經久(圖5)、同晴久(圖6)、毛利元就(圖7),尼子經久、同晴欠含有「久」字,毛利元就的花押上半部含「元」字(元就是此型初期的花押可以更容易理解)。
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倉時代の、北条の風靡した北条一族の花押にも認められるから、南北朝・室町時代を通じて、こういう作り方が、部分的にせよ存在したと考えてよいであろう。
此例在鎌倉時代,以北條氏一族的花押風靡的北條樣式,在南北朝及室町時代也如此,存在部分的作法。
A実名文字の倒置・裏返し
A將姓名文字倒置及翻面-147
近江北部の戦国大名浅井久政の花押(図8)は、全体の形を、下向き彎曲型ともいうべき当時の新型に準拠しつつ(下向き彎曲についてはなお後述)、その中に「久」の字の草体を左に倒して書きこんでいる。次に久政のこ長政の花押(図9)は、「長」の字を右に倒して形象化したものである。浅井長政ははじめ六角義賢の一字をもらって「賢政」と名乗ったが、やがて六角と絶って織田信長と盟約し、信長の一字をもらって「長政」と改名した。改名と同時に、従来の花押をすてて、この型の花押を用いるようになったようである。詳しくいえば、永禄四年(一五六一)閏三月九日にはまだ浅井備前守賢政と署して旧花押を用いているが(近江、称名寺文書)、同年六月二十日の書状には長政と署して、この新型の花押を用いている(図9は永禄六年十月八日付、成就院文書から採った)。このような実名の
近江北部的戰國大名淺井久政的花押(圖8),以全體形式是以向下彎曲型應該是漸漸為當時的新型式準據(後述向下彎曲型),其中的「久」字的草書體是向左倒的寫法。久政之子長政的花押(圖9)是形象化的「長」字向右傾倒。淺井長政開始含有六角義賢的一個字,以「賢政」為名,大約在與六角斷絕與織田信長結盟,以信長的一個字改名為「長政」,改名同時也捨棄以前的花押,改用此型。詳細說明的話,永祿四年(一五六一)閏三月九日淺廿備前守賢政仍簽署舊花押(近江、稱名寺文書),同年六月二十日的書狀簽署長政,改用新花押(圖9是永祿六夫十月八日付於成就院文書)。實名
頁148
一字を倒して花押を作る例は、遥かに溯って平安末期、久安四年(一一四八)四月十五日三春是行の花押(図10)に見出すことができる。これは東大寺図書館所蔵の東大寺文書に収められた是行の起請文に押署されていて、明らかに「行」の字の草体を右に倒した形である。してみると、こういう花押の作り方は中世を通じて存続したかもしれず、にわかに戦国時代新出の様式ともいいきれない感もあるが、現在のところ、中世に適例を見出せないので、ひとまず新様式に入れておく。
実名文字の倒置と関連してあげられるのは実名文字の裏返しであって、織田信長の花押にその適例を見ることができる。織田信長は
中的一個字倒寫的花押例,追溯到遙遠的平安末期,久安四年(一一四八)四月十五日三春是行的花押(圖10),收在東大寺圖書館所藏的東大寺文書,為是行的起請文的押署,可明白是「行」的草書體向右傾倒。這樣花押的作法通行於中世且繼續存在,突然戰國時代出現新樣式,感覺不美,在現在的無中世的適當例子,進入與之前不同的新樣式。
與倒置實名文字相關是的是翻面的實名文字,以織田信長的花押是最好的例子。織田信長
頁149
頻繁に花押を改めたことで知られる人物であって、大まかに分類しても前後八類を数えることができる(図11~18)。すなわち信長は、父のあとをついでまず足利様の花押(図11)を用いたが(天文十八、九年〔一五四九、五〇〕頃)、天文二十一年になると、ここに取り上げる第Ⅱ型(図12)を用いており、以後頻々と形を変えて、ついに足利様に戻ることはなかった(信長の花押については奥野高広『織田信長文書の研究』下巻巻末参照)。さて、信長のこの花押の左部分は「長」の草体裏返した形である。残りの右部分は判然としないけれども、「信」の字を形象化したものの裏返しと見てはどうであろうか。もしそうならば、こ
是周知頻繁改變花押的人物,粗略分類前後有八種。(圖11~18)信長延續其父用足利樣式的花押(圖11)(天文十八、九〔一五四九、五○〕),天文二十一年時改為第Ⅱ型(圖12),之後一直改變,最後不回到足利樣式(信長花押參照奧野高広《織田信長文書の研究)下卷的最後。)信長的花押左部分是「長」的草書體翻面,雖然殘留的右半部不明確,可看出是「信」字的形象化再翻面。若如此的話,
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の花押は「信長」の二字を左横書にして裏返した形となる。左横書、裏返しという二重の意外性をもつものとして、新奇、奇抜な花押の続出した当代にあって、一頭地を抜くと評してよいであろう。
それでは、実名文字の倒置とか裏返しのような新奇な型を用いる主たる意図は何であろうか。花押の原拠を秘匿できる点や、ここにあげた浅井久政・織田信長の例に見られる如く、比較的短い線(極端な場合には点に近くなる)を多数み合わせている点などから考えれば、これらの型は偽造、盗用の防止を主眼として作成されたと見てようであろう。この解釈を裏付けるかのように、浅井長政は図9の花押に年を追うて小変更を加えて、次第に横長の方形に変えており、信長に至っては、Ⅱ型よりも一層短線と点の多いⅢ型(図13)、Ⅳ型(図14)へと移ってゆくのである(Ⅲ型、Ⅳ型が何もとづくものか、いまだ成案をえない)。
這個花押是「信長」二字左橫書再翻面。左橫書加上翻面這二個特別的書寫方式,是成為當代新奇的花押。
倒置實名文字或翻面的新奇型花押,其用意何在。花押的原來是要隱匿的,如淺井久政、長政及織田信長的例子可見,多數組合是用比較短的線條(近乎極端的狀態),這樣是為了防止偽造及盜用。以此為解釋的證據,淺井長政隨著年齡增長有小變化,改成橫長的方形,到了信長的Ⅲ型(圖13),比Ⅱ型更多短線及點再轉移到Ⅳ型(圖14)。(但是基於何因成為此型,無法得知)95.10.15 96.06.19
B苗字の文字の使用
B使用家族姓氏的文字-150
October 18, 2007
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たわけではあるまい。長時の子で六波羅探題となった義宗の花押(図42)は、前掲宗方の花押(図27)との類似に注目すれば、「宗」の形象化と見てよいであろう。それを図43で実線をもって示す。あるいは点線AとBを「小」の左右の点を変形したものと見て、この花押全体で「宗」を表わすとも見られる。次に義宗の子で、永仁(一二九三―九九)の頃六波羅探題をつとめた久時の花押(図44)は明らかに「久」字の形象化である(図45で実線をもって示す)。また、久時の子で、鎌倉幕府最後の執権となった守時の花押(図46、山内首藤文書、正中二年〔一三二五〕関東裁許状の継目裏)も「守」字の形象化であろう(点線
長時之子義宗在成為六波羅探題時的花押(圖27)應注意其類似的地方「宗」的形象化。圖43實線來表示,或虛線A和B是「小」的加點變形。全體是表示「宗」字。義宗之子在永仁(一二九三-九九)時任職六波羅探題的花押(圖44),可明白是「久」字的形象化(圖45以實線表示)。久時之子守時在鎌倉幕府最後執權的花押(圖46山內首藤文書,正中二年〔一三二五〕關東判決書的簽名)是「守」字的形象化
頁122
より左の部分に注目。
泰時の弟(義時の四男)政村の系統には、判読可能な花押は少ない。時政型の花押として判読できるのは、政村の子時村の初期の花押(図47)くらいである。これは今まで見てきた多くの時政型の花押とちがって、終筆を大きく真右に張り出した点に特徴があって、この点が「村」の草体(図48)と一致するところから、「村」を元にした花押と判断される。おそらく左の長い縦線と右終筆の半円形とで「村」を表わし、中央部の点線で示した部分(図49)で「日」を表わしたものであろう。左端の小さな縦線が「村」の第一画「一」を表わすのか、草体における終筆の点
(注意虛線的左部分)
泰時之弟(義時的四男)政村系統(北條政村),可判讀的花押不多。時政型的花押可判讀,政村之子時村初期的花押(圖47)是困難判讀的。今日可見多是與時政型的花押不同,最後的筆畫是向右外張點的特徵。這個點是「村」的草體(圖48),從此點可判斷是從「村」字的花押。可能左方的長縱線與右方最後筆畫的半圓形表示「村」,中央的虛線(圖49)表示「日」字。左端較小的縱線是表示「村」的第一筆「一」,移動了草書體的最後筆畫,
頁123
を移したのか、いずれとも断定できない。この花押は、時村が六波羅探題に赴任した当初の弘安(一二七八―八八)初年のものであって、弘安末年頃になると、全くちがった形の花押(図50)を用いるようになる。この方は父政村の花押(図51)に酷似している点が注目されるけれども、原拠の文字は父の場合同様判読できない。
義時の弟で佐介家の祖となった時房の花押については、先に述べた。この一流では、時房の長子で六波羅探題を長くつとめた時盛の花押が、父と同じく時政である。図52は時盛の貞永・嘉禎頃(一二三二―三八)の花押であるが、それより五年ほど溯った安貞年間
義時の弟で佐介家の祖となった時房の花押については、さきに述べた。この一流では、時房の長子で六波羅探題を長くつとめた時盛の花押が、父と同じく時政である。図52は時盛の貞永・嘉禎頃(一二三二―三八)の花押であるが、それより五年ほど溯った安貞年間
並無法全部判定。這個花押是時村在赴任六波羅探題弘安(一二七八-八八)初年與弘安末年時期的花押(圖50)全然不同。此時與父親政村的花押(圖51)相似,無法判定原字與父親相同。
義時之子成為佐介家之祖時房的花押,先前已記述,是屬於一流系,時房長子時盛任六波羅探題的花押,與其父同樣是時政型。圖52是時盛於貞永、嘉禎時期(一二三二-三八)的花押,從五年回溯到安貞年間
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(一二二七―二九)の花押(図53、大橋文書)の方が、彼の花押の祖型として、判読に好都合である。この花押は、父や祖父の花押と共通の右の二画(図53の点線より右)を除くと、図54のような形となり、「盛」の部分に当たる「皿」の変形と判読できる。図52は図53を修正したもので、原拠の文字に変更はないであろう。時盛の孫で、六波羅探題在職中失脚誅死した時国の花押(図55)も、右に張り出した終筆の円形を除いてみると、太字の部分が「王」の変形、細い線の円形が「口」を表わし、両者を合わせて「国」を表わしている。
佐介の流で時盛の弟朝直から出た大佛家では、まず朝直の花押(図56)は、図57の実線
(一二二七-二九)的花押(圖53大橋文書)的方是他的花押祖型,判讀上是相同的。這個花押與父、祖父的共通點除了右二畫外,成為圖54的形式,判讀上應為「盛」的一部分「皿」的變形。圖52是圖53的修正圖,但不改變原來的字體。時盛之孫時國在任職六波羅探題中下台被誅死的花押(圖55),也是除了在向右外張以圓為最後筆畫外,粗體字的部分是「王」的變形,細字的圓表示「口」,兩者組合成「國」字。
在佐介流時,時盛之弟朝直出家,首先是朝直的花押(圖56),而圖57的實線
頁125
部分で「朝」の草体の偏部を表わし、点線部分で旁の「月」を表わしたもの(「月」の草体を形象して、右に多きく張り出し、時政に仕上げている)、つまり全体で「朝」をあらわす一字の花押である。次に、朝直の子で、連署として執権時宗を輔佐した宣時の花押(図59)は中央部の楕円を二つ重ねた形が特徴的だが、これは「宣」の中の「日」を表わしている。宣時の孫で、延慶元年(一三〇八)六波羅探題となり、翌年京都で没した貞房の花押(図60)は、基本部分が三つの楕円からなり、しかもそれらの楕円二つが横重ねで、一つが縦に右側に配されている点まで、後述の貞時の花押(図68)とそっくりであって、この三つの楕円は「貞」の「目」を形象化したものと考えられる。
表示「朝」的草書體偏旁,虛線的部分表示「月」(「月」的草書體形象化,向右大幅外張,是修飾時政型),總之全體表示「朝」的一字花押。朝直之子宣時任職連署時輔佐執權的時宗的花押(圖59)其中央的二個重疊的圓是其特徵,表示「宣」中的「日」。宣時之孫貞房延慶元年(一三○八)成為六波羅探題,翌年在京都過世的花押(圖60),基本上是三個圓,然而二個圓是橫式重疊,另一個是縱向在右側配置。後述的貞時花押(圖68)也與此相似,三個圓是「貞」的「目」形象化。95.10.9
頁126
北条氏の嫡統第二代の義時は、父時政の花押とは全く趣きを異にする花押を用いた(図61、62)。時政の花押が実名の二字の各一部(日と攵)の合成であるのに対して、義時の花押は「義」の一字であり、時政の場合は全体の形が梯形をなすのに対して、義時の場合はほとんど三角形であり、時政の場合、終筆が内まきにはね上げる形になっているのに対して、義時の場合は右下端に小さな三角形をつ
二 義時型的花押-126
北條氏的嫡統第二代義時,與其父時政的花押全然不相同(圖61、62)。時政的花押是取實名中的各一部分合成(日與),義時的花押只有「義」一字,時政的外形是成梯形,而義時大約是三角形,時政的最後一筆 向上揚,義時的右下角形成小三角形,
頁127
くり、それも頂点から左に筆を下ろして右に底辺線を引き、左上にのばして頂点に合する(図61)、もしくは筆をさらに上方にのばして、全形の最頂点である縦線の上端で上げる(図62)。これは図63に実線で示すように、「義」字の省画と補筆(右下端部三角形の底辺)によって作成されたと見られ、義時の子朝時(図64)をはじめとして、一族子孫の中に、この型を踏襲する者が少なからず現れた。次に、この型に属する花押で、原拠の文字の判読できるものでかについて述べよう。
まず朝時の子、つまり義時の孫で、文永九年(一二七二)謀叛の嫌疑を受けて、不慮の死をとげた名越家の時章の花押(図65)は、
從頂點向左下筆延伸向右的底線,與左上延伸的頂點結合(圖61),可能是進一延伸到上方的最頂點,上揚到縱線的上端。(圖62)。圖63的實線來表示「義」字的省略及加上的筆畫(右下角的三角形的底邊),義時之子朝時(圖64),一族的子孫不少開始沿襲此法,僅只判讀這個花押的原出處的字。
首先是朝時之子,即義時之孫時章,在文永九年(一二七二)受到謀叛的嫌疑,意外死去,是在名越家的花押(圖65)
頁128
「章」の中の「早」の草体(図67)を配している(図66、点線部分に注目)。
次に義時の嫡流で、義時の玄孫に当たり、蒙古襲来時の執権時宗の嫡子である貞時の花押(図68)は、右下方の三角形に義時型の特徴がよく出ている。この花押は、さきに貞房の花押(図60)を取り上げた際に言及したように、二つの楕円を横に重ね、もう一つの楕円を縦に配している点に特徴があり、それは「貞」字の「目」を象ったもの、それもただ楕円を横に三つ重ねることを避けて、配置に工夫を凝らして、文字の図形化、形象化をはかっていると解したい。図68は弘安七年(一二八四)のものであるが(円覚寺文書)、同十年には図69(東寺文書)、正安二年(一三〇〇)には図70(熊谷文書)、嘉元三年(一三〇五)には図71(斉藤文書)というふうに、花押の頻繁な変化が見られ、図68のおける楕円三個という特徴は失われた如くであるが、全体的に見れば、これらの変化は徐々に加えられた小修正の結果であって、途中で原拠の文字が変わったわけではあるまい。
貞時の嫡子で、執権北条氏の嫡統最後の人となった高時の花押も義時型である。その最も早い時期のものとして、正和二年(一三一三)の図72(相模文書)があり、同四年には図73(三宝院文書)、同五年には図74(池田文書)の如く、次々と形が変わり、結局元亨(一三
「章」是「早」的草書體(圖65)來作為花押(注此圖66的虛線)。
義時的嫡系其玄孫貞時,在蒙古來襲時為執權時宗之嫡子的花押(圖68)屬於義時雃的特徵是右下方三角形。這個花押是取法先前貞房的花押(圖60),重疊二個橫式圖及配上一個縱的的圖的特徵,如同「貞」字「目」,只是避免了三個重疊的橫式橢圓,可看到其配置的功夫,成為文字的圖形化及形象化。圖68是弘安七年(一二八四)的花押(圓覺寺文書),弘安十年圖69(東寺文書)、正安二年(一三○○)圖70(熊谷文書)、嘉元三年(一三○五)圖71(齋藤文書),花押變化十分頻繁,圖68是失去三個橢圓的特徵,以整體來看慢慢的加入小修正,在其中變化原本的文字。
貞時的嫡子高時是執權北條氏的最後嫡系,也是義時型,最早時期的花押是圖72(相模文書)正和二年(一三一三),正和四年是圖73(三寶院文書)、正和五年圖74(池田文書),漸漸改變其形,最後是元亨(一三二一-二四)年間
頁130
二一―二四)頃には図75の形に落ちつくのである。今、祖型と思われる図72、73を見ると、頭部に三角形、その下に丸みをおびた縦長の方形を置き、その右に小さな楕円を二つ縦に配しているのが、この花押の特徴である。これを図形化すれば図76のようになる。左側の大きな三角形と長方形だけに注目すれば、前掲随時の花押(図30)に似ているけれど、これが果たして随時のように「有」の形象化であるか、疑いなきを得ない。私はむしろ、三角形と長方形には特別の意味はなく、「高」の中の第三~六画を「日」で表わし、これをデフォルメして□の形にしたのではないかと考える。もう一つ「高」字を「日」で表わし
的圖75。以祖型來思考是圖72、73,頭部為三角形,其下帶有圓形的縱長方形,右邊是配二個縱的小橢圓形為此花押的特徵。此花押圓形化成為圖76,要注意左側是大的三角形與長方形,與前面介紹的隨時花押(圖30)相似,隨時的花押是「有」的形象化。三角形及長方形並沒有特別的意思,表示「高」的第三到六畫「日」,不是表示「」形,而是表示「高」字的「日」。
頁131
た例として、高時から一字を与えられたといわれる足利高氏(尊氏)の花押(図77)がある。次に高時の花押における右側の二つの小楕円は何かといえば、これまた「時」の中の「日」の形象化ではあるまいか。年代が下るに従って、この部分が次第に全形の中での比重を増しているのが注目される。
時宗の弟の子、従って貞時の従弟に当たり、正安三年(一三〇一)貞時のあとを襲って執権となった師時の、執権時代の花押は図78であるが、その祖型とおぼしき弘安七年(一二八四)の花押(図79、蒲神社文書)を見ると、図80で実線をもって示した部分が「」に当たり、点線をもって示した部分が「」
從高時的一個字,如足利高氏(尊氏)的花押(圖77)也有此例。高時的花押右側為何是二個小橢圓,應是「時」的「日」形象化。年代增加,這個部分佔全部外形的比重增加。
時宗之弟宗攻之子為貞時的從弟師時,在正安三年(一三○一)沿襲了貞時掌執權,其任職執權時代的花押圖78。其祖型是弘安七年(一二八四)的花押(圖79蒲神社文書),圖80的實線表示「」,虛線是「」
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に当たる(図81、師の草体参照)。つまり全体で「師」を表わすと解せられる。次に前出時村の孫で、正和元年(一三一二)執権となった煕時の花押(図82)は、上に横線を二本、その下に楕円を横に二つ配し、縦線で全体の中央を貫いているように見えるが、この人物がはじめ貞泰と名乗り、これを煕時と改めた事実(鎌倉年代記、北条時政以来執権次第)に照らすと、「泰」の「」を横線四本と縦線で表わしているのではあるまいか(泰時の花押の説明と図14参照)。もしこの判読が正しいとすれば、煕時は初名貞泰の時に定めた花押を、改名後も根本的な改変しに用い続けたことになろう(一一七頁、兼時の例参照)。
(參照圖81師字的草書體)。總之,全體表示「師」字。前出的時村之孫熙時在正和元年(一三一二)成為執權時的花押(圖82),上面是二條橫線,下面是配二個橢圓,以縱線貫穿中央,開始將貞泰這個名字改為熙時(鎌倉年代記,任職北條時政以來的執權),,「泰」的「」以四條橫線及縱線表示(參照圖14泰時的花押),如果判讀正確的話,熙時是以初名貞泰定的花押,並無改變,繼續沿用(參照頁一一七,兼時的例子)。
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幕府最後の連署、茂時の連署時代の花押は図83だが、初期の花押(図84)を見ると、明らかに「茂」を元にしたもので、図85の実線部分が「茂」そのまま、点線部分は形象化のための補筆である。
終わりに、時政型から義時型に変わった花押の例を一つだけあげておく。それは北条久時の花押であって、六波羅探題在任の正応(一二八八―九三)末年から永仁四年(一二九六)までは前掲の如く(図44)時政型だが、正安元年(一二九九)には義時型に転じている(図87)。
任職幕府最後的連署,在茂時的連署花押(圖83),初期的花押(圖84),可知是「茂」字,圖85的實線表示「茂」,虛線是形象化的補筆。
最後,從時政型改變為義時型的花押一例,是北條久時的花押,在正應末年(一二八八-九三)開始到永仁四年(一二九六)任職六波羅探題如前揭(圖44)的時政型,在正安元年(一二九九)轉化為義時型的花押(圖87)。
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三 金澤一族の花押
三 金澤一族的花押-134
最後に金澤文庫にゆかりの深い金澤一門の花押を観察したい。文庫の創設者実時の花押(図88)を取り上げるに当たって、まず試みに、実時以前の人物で「実」の字を原拠とする数人の花押を列挙してみる。図89は藤原実光(権中納言、久安三年[一一四七]没)の花押であって、わかりやすく書き直すと図90のようになり、「毌」と「ㄦ」つまり「実」と「光」の各部分と読める。次に図91は三代将軍源実朝の花押であって、図92で実線をもって示した部分が「」の形象化である。初筆の部分がウ冠を示し、「毌」に当たる部分は筆順を変えている。点線部分は「月」であろう。次に図93は天永二年(一一一一)の文書に見える僧慶実の花押であって、分かりやすくこれを書き直すと図94のようになる。これの右側の点は「慶」の草体の終画であろう。それを除いた部分は「」の草体を元にして、
最後要去觀察的與金澤文庫關係很深的金澤一門的花押。實時是文庫的創設者,其花押(圖88),首在在其之前以「實」為字的花押已有列舉。圖89是藤原實光(權中納言,久安三年〔一一四七〕沒)的花押,很容易分辨其更正的圖90是「毋」與「ㄦ」,總之是「實」與「光」的一部分。圖91是三代將軍源實朝的花押,圖92實線是「」的形象化。起筆的部分是表示ウ冠,改變「」的筆畫順序,虛線是「月」。圖93是僧人慶實於天永二年(一一一)的文書,其圖94為修正後的芯押。右側是「慶」的草書體最後筆畫,除了「」的草書體的
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筆順を変えた形である。以上の三例によって、原拠の「実」が「」もしくは「毌」で表わされ、また、それから花押が作られる際に、間々本来の筆順に変更が加えられることが分かる。そして、以上三例を実時の花押と対照すると、後者もまた「実」のもとづいて「」を形象化していることが知られる。すなわち図88の点線より左の部分が、筆順を変えた「毌」の形象化であり、点線より右の部分は時政型花押における終筆の形式であり、あるいはそれと同時に「時」の草体に終筆をも表わしているかもしれない。金澤文庫第二代の主、顯時の花押(図95)は、形といい運筆といい、時政型・義時型のいずれにも属さない特異な花押であって、北条一族の花押群中に独り異彩を放っている。この花押の特徴は、中央上部の横楕円形、縦の二線、終筆としての右上部の点、以上の三点である。今、「顕」字の草体(図96)を見ると、偏部分の上部に、本字の「日」に当たる曲線(図97の実線上部)があって、これが花押に形象化されて斜めの横楕円形となってきわめて自然であり、その下の縦長の曲線二本(図97の実線下部)が、本字における「糸」二本の並列に当たり、これが花押に形象化される際、縦長の直線二本となったと見ることができる。今出川公顕の自署(岩崎小弥太氏所蔵文書)において「顕」のこの部分がほとんど二
筆畫順序改變。根據以上的三個例子,原來的「實」是「」可能以「」表示,從花押的製作時,加上變更筆畫順序。於是以上面三例對照實時的花押,後者是「實」以「」的形象化,即是圖88的虛線左部分,改變了筆畫順序「毋」的形象化,由虛線的右部分成為時政型花押的最後筆畫,或是表示「時」的早書體的最後筆畫。
金澤文庫的第二代主人顯時的花押(圖95),外形及運筆都很不錯,不屬於時政、義時型的獨特花押。其特徵是中央上部的橫式橢圓衫、二條縱線,最後一筆是右上部的點,有上述三個特徵。「顯」字的草體(圖96),上部的偏旁是本字的「日」曲線(圖97的實線上部分),之下有二條縱長的曲線(圖97實線的下部分),在本字是二條「糸」並列,在形象化之際,成為二條縱長的直線。出川公顯的自署(岩崎小彌太氏所藏的文書),「顯」的部分大約是二
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本の斜線になっている点を参照(図98)。そして図95における終筆の一点は、「顕」の草体の旁部分の三点(、、、)を省画した表現と見ることはできまいか。また二本の縦線を包む形の大きな楕円形は、図97偏部の点線部分の変形であろう。
顕時の花押に似た花押は、北条一族中にはもとより、広く当時の武家の中にも見出せないように思われる。建武新政前後に後醍醐天皇方として活躍した結城宗広の花押(図99)、ほぼ同時時代の貴族洞院公賢(園太暦の記主)の花押(図100)が割合近い形といえよう。
次は顕時の嫡子で文庫第三代の主、貞顕の花押である。貞顕は六波羅探題となって上洛した正安四年(一三〇二)頃から延慶(一三〇八―一一)頃までは、図101のような花押を用い、正和(一三一二―一七)初年頃からこれに小変化を加えて、横長・縦短にして、元亨(一三二一―二四)頃には図102のように変えた。これは、初期のものに比べると、随分形が変わっているけれども、運筆は両者ともほとんど同じであって、原拠の文字が途中で変わったとは考えらない。そこで図101について観察すると、右下端の三角形に注目して、これを義時型に含めることはできようが、左端に三角形の張り出しを作った点は、今まで見た義時型にはないところである。この左の張り出しは、右下端の三角形と均衡をとって、
條斜線(圖98)。在圖95的最後筆畫的一點是「顯」草書體的偏旁三點「」省略筆畫的表現。又包著二條縱線的大橢圓是圖97的虛線部分變形。
與顯時相似的花押,以北條一族為中心,在當時廣泛的武家花押並未看見。建武新政前後活躍於後醍醐天皇方的結城宗廣花押(圖99),大約同時代的貴族洞院公賢(園太曆的記主)花押(圖100)外形很接近。
顯時的嫡子文庫第三代主人貞顯的花押,他是在六波羅探題時入京,從正安四年(一三○二)到延慶(一三○八-一一)期間用圖101的花押,正和(一三一二-一七)初年開始有了小變化,橫長、縱短,圓102是元亨(一三二一-二四)時改變的,比初期,程度相當變化,但在運筆方面大約相同,不考量改變了原來的字體。觀察圖101,注意右下角的三角形,含有義時型的特徵,左端外張的三角形,並不是義時型。左方向外與右下角三角形,是為均衡。
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安定した形を作るために加えられた補筆と見てよいのではないか。この左三角の張り出しは、永仁四年(一二九六)の関東下知状(東寺百合文書マ)の継目裏判(図103)や、貞顕の花押あたりを早い例として、鎌倉末期になると、大仏維貞(図104)、北条英時(図105)、同政平(図106、東寺百合文書せ)などをあげることができる。そこで図101の左右両端の張り出しを除くと、図107のようになる。これはほぼ父顕時の花押と同形である。もしさきに試みた顕時の花押の判読が当たっているとすれば、この貞顕の花押も「顕」、厳密にいえば、顕時の場合の「頁」に当たる点が貞顕のにはないから、これは「」を原拠にしたと見ること
有安定外形,而補筆並不是好的。左三角外張的有永仁四年(一二九六)關東下知狀(東寺百合文書)繼目的花押(圖103)與貞顯的花押是較早的例子,在鎌倉末期的大佛維貞(圖104)、北條英時(圖105)、同政平(圖106東寺百合文書)。除圖101左右外張,圖107也是如此.。大概於父顯時的花押同形。若先前試讀顯時的芯押判讀正確的話,貞顯的花押也是嚴密的「顯」字,顯時是以「頁」為顯字,貞顯則不是,以「」為原依據。
たわけではあるまい。長時の子で六波羅探題となった義宗の花押(図42)は、前掲宗方の花押(図27)との類似に注目すれば、「宗」の形象化と見てよいであろう。それを図43で実線をもって示す。あるいは点線AとBを「小」の左右の点を変形したものと見て、この花押全体で「宗」を表わすとも見られる。次に義宗の子で、永仁(一二九三―九九)の頃六波羅探題をつとめた久時の花押(図44)は明らかに「久」字の形象化である(図45で実線をもって示す)。また、久時の子で、鎌倉幕府最後の執権となった守時の花押(図46、山内首藤文書、正中二年〔一三二五〕関東裁許状の継目裏)も「守」字の形象化であろう(点線
長時之子義宗在成為六波羅探題時的花押(圖27)應注意其類似的地方「宗」的形象化。圖43實線來表示,或虛線A和B是「小」的加點變形。全體是表示「宗」字。義宗之子在永仁(一二九三-九九)時任職六波羅探題的花押(圖44),可明白是「久」字的形象化(圖45以實線表示)。久時之子守時在鎌倉幕府最後執權的花押(圖46山內首藤文書,正中二年〔一三二五〕關東判決書的簽名)是「守」字的形象化
頁122
より左の部分に注目。
泰時の弟(義時の四男)政村の系統には、判読可能な花押は少ない。時政型の花押として判読できるのは、政村の子時村の初期の花押(図47)くらいである。これは今まで見てきた多くの時政型の花押とちがって、終筆を大きく真右に張り出した点に特徴があって、この点が「村」の草体(図48)と一致するところから、「村」を元にした花押と判断される。おそらく左の長い縦線と右終筆の半円形とで「村」を表わし、中央部の点線で示した部分(図49)で「日」を表わしたものであろう。左端の小さな縦線が「村」の第一画「一」を表わすのか、草体における終筆の点
(注意虛線的左部分)
泰時之弟(義時的四男)政村系統(北條政村),可判讀的花押不多。時政型的花押可判讀,政村之子時村初期的花押(圖47)是困難判讀的。今日可見多是與時政型的花押不同,最後的筆畫是向右外張點的特徵。這個點是「村」的草體(圖48),從此點可判斷是從「村」字的花押。可能左方的長縱線與右方最後筆畫的半圓形表示「村」,中央的虛線(圖49)表示「日」字。左端較小的縱線是表示「村」的第一筆「一」,移動了草書體的最後筆畫,
頁123
を移したのか、いずれとも断定できない。この花押は、時村が六波羅探題に赴任した当初の弘安(一二七八―八八)初年のものであって、弘安末年頃になると、全くちがった形の花押(図50)を用いるようになる。この方は父政村の花押(図51)に酷似している点が注目されるけれども、原拠の文字は父の場合同様判読できない。
義時の弟で佐介家の祖となった時房の花押については、先に述べた。この一流では、時房の長子で六波羅探題を長くつとめた時盛の花押が、父と同じく時政である。図52は時盛の貞永・嘉禎頃(一二三二―三八)の花押であるが、それより五年ほど溯った安貞年間
義時の弟で佐介家の祖となった時房の花押については、さきに述べた。この一流では、時房の長子で六波羅探題を長くつとめた時盛の花押が、父と同じく時政である。図52は時盛の貞永・嘉禎頃(一二三二―三八)の花押であるが、それより五年ほど溯った安貞年間
並無法全部判定。這個花押是時村在赴任六波羅探題弘安(一二七八-八八)初年與弘安末年時期的花押(圖50)全然不同。此時與父親政村的花押(圖51)相似,無法判定原字與父親相同。
義時之子成為佐介家之祖時房的花押,先前已記述,是屬於一流系,時房長子時盛任六波羅探題的花押,與其父同樣是時政型。圖52是時盛於貞永、嘉禎時期(一二三二-三八)的花押,從五年回溯到安貞年間
頁124
(一二二七―二九)の花押(図53、大橋文書)の方が、彼の花押の祖型として、判読に好都合である。この花押は、父や祖父の花押と共通の右の二画(図53の点線より右)を除くと、図54のような形となり、「盛」の部分に当たる「皿」の変形と判読できる。図52は図53を修正したもので、原拠の文字に変更はないであろう。時盛の孫で、六波羅探題在職中失脚誅死した時国の花押(図55)も、右に張り出した終筆の円形を除いてみると、太字の部分が「王」の変形、細い線の円形が「口」を表わし、両者を合わせて「国」を表わしている。
佐介の流で時盛の弟朝直から出た大佛家では、まず朝直の花押(図56)は、図57の実線
(一二二七-二九)的花押(圖53大橋文書)的方是他的花押祖型,判讀上是相同的。這個花押與父、祖父的共通點除了右二畫外,成為圖54的形式,判讀上應為「盛」的一部分「皿」的變形。圖52是圖53的修正圖,但不改變原來的字體。時盛之孫時國在任職六波羅探題中下台被誅死的花押(圖55),也是除了在向右外張以圓為最後筆畫外,粗體字的部分是「王」的變形,細字的圓表示「口」,兩者組合成「國」字。
在佐介流時,時盛之弟朝直出家,首先是朝直的花押(圖56),而圖57的實線
頁125
部分で「朝」の草体の偏部を表わし、点線部分で旁の「月」を表わしたもの(「月」の草体を形象して、右に多きく張り出し、時政に仕上げている)、つまり全体で「朝」をあらわす一字の花押である。次に、朝直の子で、連署として執権時宗を輔佐した宣時の花押(図59)は中央部の楕円を二つ重ねた形が特徴的だが、これは「宣」の中の「日」を表わしている。宣時の孫で、延慶元年(一三〇八)六波羅探題となり、翌年京都で没した貞房の花押(図60)は、基本部分が三つの楕円からなり、しかもそれらの楕円二つが横重ねで、一つが縦に右側に配されている点まで、後述の貞時の花押(図68)とそっくりであって、この三つの楕円は「貞」の「目」を形象化したものと考えられる。
表示「朝」的草書體偏旁,虛線的部分表示「月」(「月」的草書體形象化,向右大幅外張,是修飾時政型),總之全體表示「朝」的一字花押。朝直之子宣時任職連署時輔佐執權的時宗的花押(圖59)其中央的二個重疊的圓是其特徵,表示「宣」中的「日」。宣時之孫貞房延慶元年(一三○八)成為六波羅探題,翌年在京都過世的花押(圖60),基本上是三個圓,然而二個圓是橫式重疊,另一個是縱向在右側配置。後述的貞時花押(圖68)也與此相似,三個圓是「貞」的「目」形象化。95.10.9
頁126
北条氏の嫡統第二代の義時は、父時政の花押とは全く趣きを異にする花押を用いた(図61、62)。時政の花押が実名の二字の各一部(日と攵)の合成であるのに対して、義時の花押は「義」の一字であり、時政の場合は全体の形が梯形をなすのに対して、義時の場合はほとんど三角形であり、時政の場合、終筆が内まきにはね上げる形になっているのに対して、義時の場合は右下端に小さな三角形をつ
二 義時型的花押-126
北條氏的嫡統第二代義時,與其父時政的花押全然不相同(圖61、62)。時政的花押是取實名中的各一部分合成(日與),義時的花押只有「義」一字,時政的外形是成梯形,而義時大約是三角形,時政的最後一筆 向上揚,義時的右下角形成小三角形,
頁127
くり、それも頂点から左に筆を下ろして右に底辺線を引き、左上にのばして頂点に合する(図61)、もしくは筆をさらに上方にのばして、全形の最頂点である縦線の上端で上げる(図62)。これは図63に実線で示すように、「義」字の省画と補筆(右下端部三角形の底辺)によって作成されたと見られ、義時の子朝時(図64)をはじめとして、一族子孫の中に、この型を踏襲する者が少なからず現れた。次に、この型に属する花押で、原拠の文字の判読できるものでかについて述べよう。
まず朝時の子、つまり義時の孫で、文永九年(一二七二)謀叛の嫌疑を受けて、不慮の死をとげた名越家の時章の花押(図65)は、
從頂點向左下筆延伸向右的底線,與左上延伸的頂點結合(圖61),可能是進一延伸到上方的最頂點,上揚到縱線的上端。(圖62)。圖63的實線來表示「義」字的省略及加上的筆畫(右下角的三角形的底邊),義時之子朝時(圖64),一族的子孫不少開始沿襲此法,僅只判讀這個花押的原出處的字。
首先是朝時之子,即義時之孫時章,在文永九年(一二七二)受到謀叛的嫌疑,意外死去,是在名越家的花押(圖65)
頁128
「章」の中の「早」の草体(図67)を配している(図66、点線部分に注目)。
次に義時の嫡流で、義時の玄孫に当たり、蒙古襲来時の執権時宗の嫡子である貞時の花押(図68)は、右下方の三角形に義時型の特徴がよく出ている。この花押は、さきに貞房の花押(図60)を取り上げた際に言及したように、二つの楕円を横に重ね、もう一つの楕円を縦に配している点に特徴があり、それは「貞」字の「目」を象ったもの、それもただ楕円を横に三つ重ねることを避けて、配置に工夫を凝らして、文字の図形化、形象化をはかっていると解したい。図68は弘安七年(一二八四)のものであるが(円覚寺文書)、同十年には図69(東寺文書)、正安二年(一三〇〇)には図70(熊谷文書)、嘉元三年(一三〇五)には図71(斉藤文書)というふうに、花押の頻繁な変化が見られ、図68のおける楕円三個という特徴は失われた如くであるが、全体的に見れば、これらの変化は徐々に加えられた小修正の結果であって、途中で原拠の文字が変わったわけではあるまい。
貞時の嫡子で、執権北条氏の嫡統最後の人となった高時の花押も義時型である。その最も早い時期のものとして、正和二年(一三一三)の図72(相模文書)があり、同四年には図73(三宝院文書)、同五年には図74(池田文書)の如く、次々と形が変わり、結局元亨(一三
「章」是「早」的草書體(圖65)來作為花押(注此圖66的虛線)。
義時的嫡系其玄孫貞時,在蒙古來襲時為執權時宗之嫡子的花押(圖68)屬於義時雃的特徵是右下方三角形。這個花押是取法先前貞房的花押(圖60),重疊二個橫式圖及配上一個縱的的圖的特徵,如同「貞」字「目」,只是避免了三個重疊的橫式橢圓,可看到其配置的功夫,成為文字的圖形化及形象化。圖68是弘安七年(一二八四)的花押(圓覺寺文書),弘安十年圖69(東寺文書)、正安二年(一三○○)圖70(熊谷文書)、嘉元三年(一三○五)圖71(齋藤文書),花押變化十分頻繁,圖68是失去三個橢圓的特徵,以整體來看慢慢的加入小修正,在其中變化原本的文字。
貞時的嫡子高時是執權北條氏的最後嫡系,也是義時型,最早時期的花押是圖72(相模文書)正和二年(一三一三),正和四年是圖73(三寶院文書)、正和五年圖74(池田文書),漸漸改變其形,最後是元亨(一三二一-二四)年間
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二一―二四)頃には図75の形に落ちつくのである。今、祖型と思われる図72、73を見ると、頭部に三角形、その下に丸みをおびた縦長の方形を置き、その右に小さな楕円を二つ縦に配しているのが、この花押の特徴である。これを図形化すれば図76のようになる。左側の大きな三角形と長方形だけに注目すれば、前掲随時の花押(図30)に似ているけれど、これが果たして随時のように「有」の形象化であるか、疑いなきを得ない。私はむしろ、三角形と長方形には特別の意味はなく、「高」の中の第三~六画を「日」で表わし、これをデフォルメして□の形にしたのではないかと考える。もう一つ「高」字を「日」で表わし
的圖75。以祖型來思考是圖72、73,頭部為三角形,其下帶有圓形的縱長方形,右邊是配二個縱的小橢圓形為此花押的特徵。此花押圓形化成為圖76,要注意左側是大的三角形與長方形,與前面介紹的隨時花押(圖30)相似,隨時的花押是「有」的形象化。三角形及長方形並沒有特別的意思,表示「高」的第三到六畫「日」,不是表示「」形,而是表示「高」字的「日」。
頁131
た例として、高時から一字を与えられたといわれる足利高氏(尊氏)の花押(図77)がある。次に高時の花押における右側の二つの小楕円は何かといえば、これまた「時」の中の「日」の形象化ではあるまいか。年代が下るに従って、この部分が次第に全形の中での比重を増しているのが注目される。
時宗の弟の子、従って貞時の従弟に当たり、正安三年(一三〇一)貞時のあとを襲って執権となった師時の、執権時代の花押は図78であるが、その祖型とおぼしき弘安七年(一二八四)の花押(図79、蒲神社文書)を見ると、図80で実線をもって示した部分が「」に当たり、点線をもって示した部分が「」
從高時的一個字,如足利高氏(尊氏)的花押(圖77)也有此例。高時的花押右側為何是二個小橢圓,應是「時」的「日」形象化。年代增加,這個部分佔全部外形的比重增加。
時宗之弟宗攻之子為貞時的從弟師時,在正安三年(一三○一)沿襲了貞時掌執權,其任職執權時代的花押圖78。其祖型是弘安七年(一二八四)的花押(圖79蒲神社文書),圖80的實線表示「」,虛線是「」
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に当たる(図81、師の草体参照)。つまり全体で「師」を表わすと解せられる。次に前出時村の孫で、正和元年(一三一二)執権となった煕時の花押(図82)は、上に横線を二本、その下に楕円を横に二つ配し、縦線で全体の中央を貫いているように見えるが、この人物がはじめ貞泰と名乗り、これを煕時と改めた事実(鎌倉年代記、北条時政以来執権次第)に照らすと、「泰」の「」を横線四本と縦線で表わしているのではあるまいか(泰時の花押の説明と図14参照)。もしこの判読が正しいとすれば、煕時は初名貞泰の時に定めた花押を、改名後も根本的な改変しに用い続けたことになろう(一一七頁、兼時の例参照)。
(參照圖81師字的草書體)。總之,全體表示「師」字。前出的時村之孫熙時在正和元年(一三一二)成為執權時的花押(圖82),上面是二條橫線,下面是配二個橢圓,以縱線貫穿中央,開始將貞泰這個名字改為熙時(鎌倉年代記,任職北條時政以來的執權),,「泰」的「」以四條橫線及縱線表示(參照圖14泰時的花押),如果判讀正確的話,熙時是以初名貞泰定的花押,並無改變,繼續沿用(參照頁一一七,兼時的例子)。
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幕府最後の連署、茂時の連署時代の花押は図83だが、初期の花押(図84)を見ると、明らかに「茂」を元にしたもので、図85の実線部分が「茂」そのまま、点線部分は形象化のための補筆である。
終わりに、時政型から義時型に変わった花押の例を一つだけあげておく。それは北条久時の花押であって、六波羅探題在任の正応(一二八八―九三)末年から永仁四年(一二九六)までは前掲の如く(図44)時政型だが、正安元年(一二九九)には義時型に転じている(図87)。
任職幕府最後的連署,在茂時的連署花押(圖83),初期的花押(圖84),可知是「茂」字,圖85的實線表示「茂」,虛線是形象化的補筆。
最後,從時政型改變為義時型的花押一例,是北條久時的花押,在正應末年(一二八八-九三)開始到永仁四年(一二九六)任職六波羅探題如前揭(圖44)的時政型,在正安元年(一二九九)轉化為義時型的花押(圖87)。
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三 金澤一族の花押
三 金澤一族的花押-134
最後に金澤文庫にゆかりの深い金澤一門の花押を観察したい。文庫の創設者実時の花押(図88)を取り上げるに当たって、まず試みに、実時以前の人物で「実」の字を原拠とする数人の花押を列挙してみる。図89は藤原実光(権中納言、久安三年[一一四七]没)の花押であって、わかりやすく書き直すと図90のようになり、「毌」と「ㄦ」つまり「実」と「光」の各部分と読める。次に図91は三代将軍源実朝の花押であって、図92で実線をもって示した部分が「」の形象化である。初筆の部分がウ冠を示し、「毌」に当たる部分は筆順を変えている。点線部分は「月」であろう。次に図93は天永二年(一一一一)の文書に見える僧慶実の花押であって、分かりやすくこれを書き直すと図94のようになる。これの右側の点は「慶」の草体の終画であろう。それを除いた部分は「」の草体を元にして、
最後要去觀察的與金澤文庫關係很深的金澤一門的花押。實時是文庫的創設者,其花押(圖88),首在在其之前以「實」為字的花押已有列舉。圖89是藤原實光(權中納言,久安三年〔一一四七〕沒)的花押,很容易分辨其更正的圖90是「毋」與「ㄦ」,總之是「實」與「光」的一部分。圖91是三代將軍源實朝的花押,圖92實線是「」的形象化。起筆的部分是表示ウ冠,改變「」的筆畫順序,虛線是「月」。圖93是僧人慶實於天永二年(一一一)的文書,其圖94為修正後的芯押。右側是「慶」的草書體最後筆畫,除了「」的草書體的
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筆順を変えた形である。以上の三例によって、原拠の「実」が「」もしくは「毌」で表わされ、また、それから花押が作られる際に、間々本来の筆順に変更が加えられることが分かる。そして、以上三例を実時の花押と対照すると、後者もまた「実」のもとづいて「」を形象化していることが知られる。すなわち図88の点線より左の部分が、筆順を変えた「毌」の形象化であり、点線より右の部分は時政型花押における終筆の形式であり、あるいはそれと同時に「時」の草体に終筆をも表わしているかもしれない。金澤文庫第二代の主、顯時の花押(図95)は、形といい運筆といい、時政型・義時型のいずれにも属さない特異な花押であって、北条一族の花押群中に独り異彩を放っている。この花押の特徴は、中央上部の横楕円形、縦の二線、終筆としての右上部の点、以上の三点である。今、「顕」字の草体(図96)を見ると、偏部分の上部に、本字の「日」に当たる曲線(図97の実線上部)があって、これが花押に形象化されて斜めの横楕円形となってきわめて自然であり、その下の縦長の曲線二本(図97の実線下部)が、本字における「糸」二本の並列に当たり、これが花押に形象化される際、縦長の直線二本となったと見ることができる。今出川公顕の自署(岩崎小弥太氏所蔵文書)において「顕」のこの部分がほとんど二
筆畫順序改變。根據以上的三個例子,原來的「實」是「」可能以「」表示,從花押的製作時,加上變更筆畫順序。於是以上面三例對照實時的花押,後者是「實」以「」的形象化,即是圖88的虛線左部分,改變了筆畫順序「毋」的形象化,由虛線的右部分成為時政型花押的最後筆畫,或是表示「時」的早書體的最後筆畫。
金澤文庫的第二代主人顯時的花押(圖95),外形及運筆都很不錯,不屬於時政、義時型的獨特花押。其特徵是中央上部的橫式橢圓衫、二條縱線,最後一筆是右上部的點,有上述三個特徵。「顯」字的草體(圖96),上部的偏旁是本字的「日」曲線(圖97的實線上部分),之下有二條縱長的曲線(圖97實線的下部分),在本字是二條「糸」並列,在形象化之際,成為二條縱長的直線。出川公顯的自署(岩崎小彌太氏所藏的文書),「顯」的部分大約是二
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本の斜線になっている点を参照(図98)。そして図95における終筆の一点は、「顕」の草体の旁部分の三点(、、、)を省画した表現と見ることはできまいか。また二本の縦線を包む形の大きな楕円形は、図97偏部の点線部分の変形であろう。
顕時の花押に似た花押は、北条一族中にはもとより、広く当時の武家の中にも見出せないように思われる。建武新政前後に後醍醐天皇方として活躍した結城宗広の花押(図99)、ほぼ同時時代の貴族洞院公賢(園太暦の記主)の花押(図100)が割合近い形といえよう。
次は顕時の嫡子で文庫第三代の主、貞顕の花押である。貞顕は六波羅探題となって上洛した正安四年(一三〇二)頃から延慶(一三〇八―一一)頃までは、図101のような花押を用い、正和(一三一二―一七)初年頃からこれに小変化を加えて、横長・縦短にして、元亨(一三二一―二四)頃には図102のように変えた。これは、初期のものに比べると、随分形が変わっているけれども、運筆は両者ともほとんど同じであって、原拠の文字が途中で変わったとは考えらない。そこで図101について観察すると、右下端の三角形に注目して、これを義時型に含めることはできようが、左端に三角形の張り出しを作った点は、今まで見た義時型にはないところである。この左の張り出しは、右下端の三角形と均衡をとって、
條斜線(圖98)。在圖95的最後筆畫的一點是「顯」草書體的偏旁三點「」省略筆畫的表現。又包著二條縱線的大橢圓是圖97的虛線部分變形。
與顯時相似的花押,以北條一族為中心,在當時廣泛的武家花押並未看見。建武新政前後活躍於後醍醐天皇方的結城宗廣花押(圖99),大約同時代的貴族洞院公賢(園太曆的記主)花押(圖100)外形很接近。
顯時的嫡子文庫第三代主人貞顯的花押,他是在六波羅探題時入京,從正安四年(一三○二)到延慶(一三○八-一一)期間用圖101的花押,正和(一三一二-一七)初年開始有了小變化,橫長、縱短,圓102是元亨(一三二一-二四)時改變的,比初期,程度相當變化,但在運筆方面大約相同,不考量改變了原來的字體。觀察圖101,注意右下角的三角形,含有義時型的特徵,左端外張的三角形,並不是義時型。左方向外與右下角三角形,是為均衡。
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安定した形を作るために加えられた補筆と見てよいのではないか。この左三角の張り出しは、永仁四年(一二九六)の関東下知状(東寺百合文書マ)の継目裏判(図103)や、貞顕の花押あたりを早い例として、鎌倉末期になると、大仏維貞(図104)、北条英時(図105)、同政平(図106、東寺百合文書せ)などをあげることができる。そこで図101の左右両端の張り出しを除くと、図107のようになる。これはほぼ父顕時の花押と同形である。もしさきに試みた顕時の花押の判読が当たっているとすれば、この貞顕の花押も「顕」、厳密にいえば、顕時の場合の「頁」に当たる点が貞顕のにはないから、これは「」を原拠にしたと見ること
有安定外形,而補筆並不是好的。左三角外張的有永仁四年(一二九六)關東下知狀(東寺百合文書)繼目的花押(圖103)與貞顯的花押是較早的例子,在鎌倉末期的大佛維貞(圖104)、北條英時(圖105)、同政平(圖106東寺百合文書)。除圖101左右外張,圖107也是如此.。大概於父顯時的花押同形。若先前試讀顯時的芯押判讀正確的話,貞顯的花押也是嚴密的「顯」字,顯時是以「頁」為顯字,貞顯則不是,以「」為原依據。
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