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本部落所刊登之內容,皆由作者個人所提供,不代表 yam天空部落 本身立場。
April 24, 2008
頁240
用姓及名的各一個字組合成的花押有勝田主計及田邊治通。大藏官僚出身的寺內(大正五)、清浦(大正十三)內閣藏相,在田中內閣(昭和三)任文相的勝田主計(一八六九-一九四八)的花押(圖263)翻面成縱行如圖264,可明白其實線部分是「月」的偏旁草書體。殘留的虛線是何意思,可能是短的三條橫線是「月」的縱線(實線是虛線加上去的部分),表示「計」的草書體(參照264與「斗」的形狀相似)。
頁241
即此花押是「勝」的偏部加上「計」,進一步翻面成橫長的作品,有凝聚力。
出身遞信官僚被舉為平沼內閣的書記官長,轉任遞相,在第三次近衛內閣任內相田邊治通(一八七八-一九五○)的花押(圖265),上是「田」下配「通」,「通」的「」作為底線,是比較容易理解的花押。花押「田」上橫線是「」的變形,「田」與「通」中央由一筆縱線貫通(圖266),可見其功夫。
平假名及片假名的使用-241
使用平假名的花押,首先是姓(含有其一部分)以假名書寫的有曾根荒助、宇垣一成及井野碩哉。
長州藩士之子所生,明治三十年代伊藤、山縣內閣任法相、農商相,日俄戰爭時,為桂內閣的藏相,負責軍費用的調度曾根荒助(一八四九-一九一○)的花押
頁242
(圖267)一見可知其是書寫「そ」,接續「ね」。
從大正末到昭和初年任清浦、加藤(高明)、若槻、濱口四代內閣的陸相,被稱為「政界的彗星」,昭和十二年因陸軍反對組閣困難的宇垣一成(一八六八-一九五六)的花押(圖268),可以用圖269來分解,左邊是「う」右邊是「か」,加上天地二線,天的橫婚是「」部分的縱直線,加上左右的斜線(虛線的部分)讀成「木」。此花押以姓的假名書寫。
頁243
農林官僚出身,從第二次近藤內閣到東條內閣連續任為農相,戰後成為法相的井野碩哉(一八九一-一九八○)的花押(圖270),圖271是其分解,由「井」加上「の」合成,加上底線(但是「井」的第二畫橫線與「の」重疊),並且此花押的筆順如圖271。
以假名書寫名字(含其一部分)合成的,有野田卯太郎、奧田義人及八代六郎的花押。
年輕時進入自由黨,不久成為政友會最高幹部原內閣(大正七)的遞相,護憲三派內閣(大正十三)任商工相
頁244
野田卯太郎(一八五三-一九二七)的花押(圖272),圖273的實線是「う」,無誤,其他虛線部分無法解釋。在其中加入「タ」,進一步左橫斜線合成表示「田」。
以農商務省出身的官僚山本內閣(大正二)時任文相,後來被舉為法相,作東京市長有名的奧田義人(一八六○-一九一七)的花押(圖274)是「よ」與「人」的合成,「人」也讀作「し」,是其下功夫的地方,可讀成「よし人」。
山本內閣瓦解後,在第二次大隈內閣(大正三)
頁245
任海相,シーメンス事件之後為海軍大將八代六郎(一八六○-一九三○)的花押(圖275)是「ろ」加入「くら」的形如圖276,「ら」是「郎」的草書體,表示「ろく郎」。
羅馬字的花押-245
最後舉幾個羅馬字的花押,作為政黨政治家的政友會幹事長,在田中內閣(昭和二)成為遞相,在岡田內閣(昭和十一)再度為遞相「人情大臣」望月圭介(一八六七-一九四一)花押(圖277),姓以「m」加上底線。
由文部官僚歷任京城、九州帝大學校長,米內閣(昭和十五)文相松浦鎮次郎(一八七二-一九四五)的花押與望月大約同形用「m」的花押。
歷任朝日新聞副社長、放送協會會長之後,被舉為鈴木終戰內閣的海南情報局長下村宏(一八七五-一九五七)的花押(圖279)明白其是「H」與「&」即其名組合(圖280)。
最後是昭和初年活躍於英、法、美的駐在財務官「津島」中心、小磯、東久邇兩內閣的藏相津島壽(一八八-一九六七)的花押(圖280)是「J」(橫倒)與「T」(倒轉)即名字的組合(圖282)。「」的頭右端是細,右下方的點無法理解其意。
95.11.1初稿
初稿發表處-248
笠松宏至,解說-「前人未踏」的花押研究-249
用字索引-259
人名索引-266
圖像大部分,東京大學史料編纂所《花押かかみ》
平凡社《書の日本史 第九卷》〈花押総覧〉
頁249
解説―「前人未踏」の花押研究 笠松宏至
ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
頁250
書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
頁251
八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
頁252
私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
頁253
の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
頁254
ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
頁255
結んでいる。
佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
頁256
が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである
(かさまつ ひろし/日本中世史)
92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。
(笠松宏至/日本中世史)97.2.2
用姓及名的各一個字組合成的花押有勝田主計及田邊治通。大藏官僚出身的寺內(大正五)、清浦(大正十三)內閣藏相,在田中內閣(昭和三)任文相的勝田主計(一八六九-一九四八)的花押(圖263)翻面成縱行如圖264,可明白其實線部分是「月」的偏旁草書體。殘留的虛線是何意思,可能是短的三條橫線是「月」的縱線(實線是虛線加上去的部分),表示「計」的草書體(參照264與「斗」的形狀相似)。
頁241
即此花押是「勝」的偏部加上「計」,進一步翻面成橫長的作品,有凝聚力。
出身遞信官僚被舉為平沼內閣的書記官長,轉任遞相,在第三次近衛內閣任內相田邊治通(一八七八-一九五○)的花押(圖265),上是「田」下配「通」,「通」的「」作為底線,是比較容易理解的花押。花押「田」上橫線是「」的變形,「田」與「通」中央由一筆縱線貫通(圖266),可見其功夫。
平假名及片假名的使用-241
使用平假名的花押,首先是姓(含有其一部分)以假名書寫的有曾根荒助、宇垣一成及井野碩哉。
長州藩士之子所生,明治三十年代伊藤、山縣內閣任法相、農商相,日俄戰爭時,為桂內閣的藏相,負責軍費用的調度曾根荒助(一八四九-一九一○)的花押
頁242
(圖267)一見可知其是書寫「そ」,接續「ね」。
從大正末到昭和初年任清浦、加藤(高明)、若槻、濱口四代內閣的陸相,被稱為「政界的彗星」,昭和十二年因陸軍反對組閣困難的宇垣一成(一八六八-一九五六)的花押(圖268),可以用圖269來分解,左邊是「う」右邊是「か」,加上天地二線,天的橫婚是「」部分的縱直線,加上左右的斜線(虛線的部分)讀成「木」。此花押以姓的假名書寫。
頁243
農林官僚出身,從第二次近藤內閣到東條內閣連續任為農相,戰後成為法相的井野碩哉(一八九一-一九八○)的花押(圖270),圖271是其分解,由「井」加上「の」合成,加上底線(但是「井」的第二畫橫線與「の」重疊),並且此花押的筆順如圖271。
以假名書寫名字(含其一部分)合成的,有野田卯太郎、奧田義人及八代六郎的花押。
年輕時進入自由黨,不久成為政友會最高幹部原內閣(大正七)的遞相,護憲三派內閣(大正十三)任商工相
頁244
野田卯太郎(一八五三-一九二七)的花押(圖272),圖273的實線是「う」,無誤,其他虛線部分無法解釋。在其中加入「タ」,進一步左橫斜線合成表示「田」。
以農商務省出身的官僚山本內閣(大正二)時任文相,後來被舉為法相,作東京市長有名的奧田義人(一八六○-一九一七)的花押(圖274)是「よ」與「人」的合成,「人」也讀作「し」,是其下功夫的地方,可讀成「よし人」。
山本內閣瓦解後,在第二次大隈內閣(大正三)
頁245
任海相,シーメンス事件之後為海軍大將八代六郎(一八六○-一九三○)的花押(圖275)是「ろ」加入「くら」的形如圖276,「ら」是「郎」的草書體,表示「ろく郎」。
羅馬字的花押-245
最後舉幾個羅馬字的花押,作為政黨政治家的政友會幹事長,在田中內閣(昭和二)成為遞相,在岡田內閣(昭和十一)再度為遞相「人情大臣」望月圭介(一八六七-一九四一)花押(圖277),姓以「m」加上底線。
由文部官僚歷任京城、九州帝大學校長,米內閣(昭和十五)文相松浦鎮次郎(一八七二-一九四五)的花押與望月大約同形用「m」的花押。
歷任朝日新聞副社長、放送協會會長之後,被舉為鈴木終戰內閣的海南情報局長下村宏(一八七五-一九五七)的花押(圖279)明白其是「H」與「&」即其名組合(圖280)。
最後是昭和初年活躍於英、法、美的駐在財務官「津島」中心、小磯、東久邇兩內閣的藏相津島壽(一八八-一九六七)的花押(圖280)是「J」(橫倒)與「T」(倒轉)即名字的組合(圖282)。「」的頭右端是細,右下方的點無法理解其意。
95.11.1初稿
初稿發表處-248
笠松宏至,解說-「前人未踏」的花押研究-249
用字索引-259
人名索引-266
圖像大部分,東京大學史料編纂所《花押かかみ》
平凡社《書の日本史 第九卷》〈花押総覧〉
頁249
解説―「前人未踏」の花押研究 笠松宏至
ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
頁250
書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
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八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
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私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
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の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
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ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
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結んでいる。
佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
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が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである
(かさまつ ひろし/日本中世史)
92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。
(笠松宏至/日本中世史)97.2.2
April 8, 2008
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―一九二四)の花押(図200)は「彦」の草体(図201A)そのまま。大蔵官僚から加藤(友)内閣(大正十一)の蔵相にあげられ、ついで日銀総裁となった市来乙彦(一八七二―一九五四)の花押(図202)は「彦」の草体の終筆を底線としたもの。また、内閣官僚から政界に入って戦中の衆議院議長、敗戦時の厚相をつとめた岡田忠彦(一八七八―一九五八)の花押(図203)は、やはり「彦」の草体(図201B)を元にしつつ、終わりの「」を「」の形にしたところに工夫が見られる。平沼閥の検事として頭角を現し、昭和十二―十四年の間、林・近衛・平沼三代の内閣で法相に任じた塩野季彦(一八八〇―一九四九)の花押(図204)
是「彥」的草書體(圖201A)的樣式。從大藏官僚,被推舉為加藤(友)內閣(大正十一)的大藏大臣,成為日銀總裁的市來乙彥(一八七二-一九五四)的
的花押(圖202)是「彥」的草書體加上底線。從內閣官僚進入政界,在戰時為眾議院議長,戰敗時的厚相岡田忠彥(一八七八-一九五八)的花押(圖203),果然是「彥」的草書體(圖201B),最後的「」是成為「」,可見其功夫。平沼閥的檢事時表現其能力,在昭和十二-十四年間,歷任林、近衛、平沼三代內閣的法相鹽野季彥(一八八○-一九四九)的花押(圖204)
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は、起筆を著しく省画しつつ(図201C参照)、「」を岡田の場合と同じ形に変えている。
〔雄〕 この字を用いたものに尾崎行雄・桜内幸雄の花押がある。“憲政の神様”尾崎幸雄(一八五九―一九五四)の花押(図205)は「雄」草体(図206)そのもの。また、財界から政界に転じて民政党に属し、商工(第二次若槻内閣)・農林(平沼内閣)・大蔵(米内内閣)等大臣に歴任した桜内幸雄(一八八〇―一九四七)の花押(図207)は、左の木偏のように見える部分(図208の点線より左)が「幸」の草体で、右の部分が「雄」(図206A)だから、これは名の二字の合成である。
起筆省略其畫(參照圖201C),「」與岡田同形。
〔雄〕字使用的有尾崎行雄、櫻內幸雄的花押。被稱為「憲政之神」的尾崎行雄(一八五九-一九五四)的花押(圖205)是「雄」的草書體(圖206)。從財政轉入政治界,屬於民政黨,任商工(第二次若槻內閣)、農林(平沼內閣)、大藏(米內內閣)等大臣的櫻內幸雄花押(圖207),左邊是木的偏旁(圖208虛線的左邊)是「幸」的草書體,右邊是「雄」(圖206A),由名字的二個字合成。
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〔千〕 この字を用いたものに渡辺千冬・江木千之・千石興太郎の花押がある。昭和四―六年(浜口・第二次若槻内閣法相)をつとめた渡辺千冬(一八七六―一九四〇)の花押(図209)は、裏返して縦長にしてみると「千」の字が見えてくる(図210の実線部分)。そして、他の部分(同上点線部分)を横にすれば「辺」の形象化が見られる。つまり、この花押は「辺」の中に「千」を入れたもののようである。次に、内務官僚からあげられて清浦内閣の文相となった江木千之(一八五三―一九三二)の花押(図211)は「工」の右に「千」を配し、左の縦曲線で「」(サンズイ)を表わ
〔千〕用此字花押的有渡邊千冬、江木千之、千石興太郎。昭和四-六年(濱口、第二次若槻內閣)的法相渡邊千冬(一八七六-一九四○)的花押(圖209),「千」是翻面且縱長(圖210實線的部分),其他的部分(虛線的部分)橫的是「邊」的形象化。總之,這個花押是以「邊」加上「千」置入其中。從內務官僚被舉的清浦內閣文相的江木千之(一八五三-一九三二)的花押(圖211)是「工」的右邊加上「千」,左邊的縱曲線表示「」(三點水)
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したもの、つまり「江」と「千」の合成(図212)である。また、産業組合運動を興して大政翼賛会総務となり、敗戦直後の農相をつとめた千石興太郎(一八七四―一九五〇)の花押(図213)は「千」と「石」の合成である(図214)。
同じ文字を用いた複数の花押における類型性や異同の観察は以上にとどめて、以下には、之・不・民・丙・孝・苗・宙・岑・孫・寧・礼などの文字を用いた花押を一つずつあげてみよう。
東条内閣の情報局総裁、ついで外相、敗戦時の南京駐在大使の谷正之(一八八九―一九六
總之,是「江」與「千」的合成(圖212)。振興產業組合運動,成為大政翼會總務,戰敗之後任職農相的千石興太郎(一八七四-一九五○)的花押(圖213)是「千」與「石」合成(圖214)。
僅止在用同樣文字在複數花押類型性及異同的觀察,之、不、民、丙、孝、苗、宙、岑、孫、寧、禮等文字的花押,一字舉一個。
東條內閣的情報局長,及歷任外相、在戰敗時駐南京大使谷正之
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二)の花押(図215)は「之」の篆書(図216)を元にしたもの。
尾張藩出身の文部官僚、明治十三年司法卿
(一八八九-一九六二)的花押(圖215)原字是「之」的篆書(圖216)。
尾張藩出身的文部官僚,明治十三年任司法卿,在明治二十四年成為法相(第一次松方內閣)田中不二麿(一八四五-一九○九)花押(圖217)以「否」加上底線及點,或可能是點與底線振示「二」。
出身佐賀藩的大久保利通原參議昇為司法卿,在明治二十年代歷任樞密院議長、法相、文相等的大木喬任(一八三二-九九)的花押是翻面圖219,「民」的形象化,大木是選「民」字
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因其俗名為「民平」。
明治陸軍創設期的軍人,第一次(明治二十四)、第二次(明治二十九)松方內閣陸相高島鞆之助(一八四四-一九一六)號為「革丙」(「鞆」的分解),其花押(圖220)是「丙」形象化加底線。
從自由民權家成為自由黨、政友會的幹部,明治四十一年眾議院議長、同四十四年成為文相(第二次西園寺)長谷場純孝(一八五四-一九一四)的花押(圖221)是用「孝」,「子」的部分有些變形。平安中期人物藤原孝理
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的「孝」兩者比對,形象化有大大的不同。
參與東京專門學校(之後的早稻田大學)的創設、第二次大隈內閣的文相及早稻田大學總長的高田早苗(一八六○-一九三八)的花押(圖222)用「苗」字,運筆可見其功夫。
山口縣出身的律師,戰敗後成為東久邇、幣原兩內閣的法相岩田宙造(一八七五-一九六六)的花押(圖224)由「宙」的ウ冠與「由」的第一畫重疊,由的最後一畫是底線,岩石宙造的「由」中心線不突出,成為「田」形,含有姓「田」的意思。
昭和六-十一年間任犬養、齋藤、岡田三代內閣的海相海軍大將大角岑生(一八七六-一九四一)的花押(圖225)其原字是「岑」,最後二筆畫成為點,加上底線,另一是底線是最後筆畫成為「生」。
從內務官僚進入政治圈,任職民政黨濱口內閣商工相的俵孫一(一八六九-一九四四)的花押(圖226)是羅馬字,為「孫」的草體(圖227)
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加底線表示「一」,是「孫一」的形象化。
久留米藩主的嫡男,貴族院的革新派,第一次近衛內閣的農相、大政翼賛會事務總長、作定有馬賴義之父有馬賴寧(一八八四-一九五七)的花押(圖228)分解圖是圖229,除去「寧」的最後二筆(丁),大約是忠實的形象化。
從大藏官僚進入政界的憲政會、民政黨領袖,組閣二次,是戰時的重要人物若槻禮次郎(一八六六-一九四九)的花押(圖230)是「禮」的草體(圖231),「示」的偏旁較小,旁邊較大,特別是最後的筆畫為大的底線,筆畫順序有些功夫(圖232)。若槻也用「禮」草書體作為花押(圖233)。
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三 大臣的花押(三)-230
下面是二字合成、用平假名及羅馬字。
二字合成的花押-230
首先是二字合成,用名字的二個字,山縣有朋系官僚重要人物,從第一次桂內閣(明治三十四)到第二次大隈內閣(大正四),歷任遞信、農商務(二任)、內務(二任)大臣大浦兼武(一八五○-一九一八)的花押(圖234)。「兼」的右下加上小的「武」草書體(平假名「む」)(圖235)(虛線右是「む」)
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「武」的草書體,第一次見到會以為是「」的變形(以圖236分解就容易了)。全體向左傾斜是其功夫的地方。這個時代的花押以手一筆書寫再修飾珍貴且筆畫多的花押,顯示其榮耀。
開設帝國議會以來的代議士,立憲同志會、憲政會的重鎮、第二次大隈內閣的遞相箕浦勝人(一八五四-一九二九)的花押(圖237)也是其名的二個字,「勝」的最後筆畫是「人」的第一畫與之重疊,有少許變形程度的形象化。
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鹿兒島藩士之子,由內務官僚立身任第一次山本內閣(大正二)書記官長,第二次山本內閣(大正十二)鐵道相山之內一次(一八六六-一九三二)花押(圖239)有著天地二線的明朝體,天線是取名的「一」,左橫的二點是「次」的「」(二水),底線是「次」的最後筆畫移過去(圖240的虛線)。
憲政會、民政黨最高幹部濱口、第二次若槻民政黨內閣遞相,純粹是政黨政治家小泉又次泉(一八六五-一九五一)的花押(圖241),與山之內的作法有點類似。小泉的「又」第二畫的部分是「次」的旁部「欠」
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最後筆畫是山之內一樣同底線(圖242)。「次」的「」(二水)省略。
犬養、齋藤內閣的陸相成為皇道派首領「呼風的哲將」,在二二六事件聲望低落,會說話的陸軍大臣男爵荒木貞夫(一八七七-一九六六)的花押(圖243)分解成圖244,上部是「貞」,下部是「夫」,最後筆畫移動成底線,總之是「貞夫」的形象化。
作為東條的左右手,從第二次近衛內閣到東條內閣(昭和十六-十八)成為企畫院總裁,擔任戰時統制經濟的責任者,陸軍中將鈴木貞一(一八八八-一九八九)的花押(圖245),
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是天的橫線是名字的「一」,下部分是翻面再立起,「貞」的最後二筆畫省略。右邊的點與虛線D表示「貞」的最後二筆畫。虛線ABC的部分,是為了全體形態的假線。
軍人中,被期待才幹,作為皇道派有力者,在二二六事件中退役,日中戰爭開發時,在上海被起用稱為「覆面將軍」陸軍中將柳川平助(一八七九-一九四五)的花押(圖247)分解為圖248,上部是「平」,下部是「力」(「助」的偏旁)。「平」在花押化之時,縱線不突出下部,是通例。因此,「平」與「王」的外形相近。國派的政黨田中政友會內閣鐵道相小川平吉(一八六九-一九四二)是「平」的花押(圖249)為其例。僅止於突出的程度。柳川的花押筆順可能如圖248。
作為個好的東京市長,廣田內閣拓務相、阿部內閣的鐵道相,俳號青嵐永田秀次郎(一八七六-一九四三)的花押(圖250)容易理解,圖解成圖251。實線的部分是「秀」的草書體,虛線部分是「二」的形象化,總之這個花押
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是「秀」與「二」合成。
從大藏官僚任平沼、東條、小磯三代內閣的藏相,戰敗之後被舉為宮內相石渡莊太郎(一八九一-一九五○)的花押(圖252),分解如圖253,上部是「莊」,下部是「太」各別的形象化。
姓氏文字的合成花押,所謂維新三傑之一,出身於薩摩,薩摩最沒人氣的政治家大久保利通(一八三○-一八七八)的花押(圖254),並無法解讀十分,試著去敘述,此花押分解如圖255
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右邊的實線可明白是「久」,左邊的實線與右邊的實線「久」的第三畫(右下長長的外張)合成「大」字。即此花押是「大」與「久」,可是含有的底線(虛線的部分)有何意義無法理解。中間部分是與「千」相似的形體,採用「利」的偏旁「禾」,無法成案,僅可解讀其花押含「大」與「久」字。此花押是大久保於明治七年時所用,不久變成圖256,「久」的判讀變的困難。
以外務官僚立身,第二次伊藤內閣(明治二十七)的內相、第二次松方內閣(明治二十九年)的遞相野村靖(一八四二-一九○九)的花押(圖257),分解圖(圖258)虛線上部分是「林」為「埜」(野)的一部分,虛線下部分是「村」的旁邊,表示「寸」,即此為花押為「林」加上「寸」。
第二次、第三次近衛內閣(昭和十五、十六)任海相,決定是否對美開戰,在大臣室中僅讀漢籍的海軍大將及川古志郎(一八八三-一九五八)
頁239
的花押(圖259),分解成圖260,實線部分表示「及」,「及」的第一裡的左斜線與中央部分的二條縱線表示「川」,加上底線。殘留的部分(虛線所示四個地方)無法理解。
二二六事件後從廣田內閣財界被起用於文相,特別的人事平生釟三郎(一八六○-一九四六)的花押(圖261),是「平」之下加上「生」(圖262)是平凡的花押,「平」的二點成為長的橫線,相反的下面的橫線變短是「平」字的變化,全體以一個字可見其功夫。
―一九二四)の花押(図200)は「彦」の草体(図201A)そのまま。大蔵官僚から加藤(友)内閣(大正十一)の蔵相にあげられ、ついで日銀総裁となった市来乙彦(一八七二―一九五四)の花押(図202)は「彦」の草体の終筆を底線としたもの。また、内閣官僚から政界に入って戦中の衆議院議長、敗戦時の厚相をつとめた岡田忠彦(一八七八―一九五八)の花押(図203)は、やはり「彦」の草体(図201B)を元にしつつ、終わりの「」を「」の形にしたところに工夫が見られる。平沼閥の検事として頭角を現し、昭和十二―十四年の間、林・近衛・平沼三代の内閣で法相に任じた塩野季彦(一八八〇―一九四九)の花押(図204)
是「彥」的草書體(圖201A)的樣式。從大藏官僚,被推舉為加藤(友)內閣(大正十一)的大藏大臣,成為日銀總裁的市來乙彥(一八七二-一九五四)的
的花押(圖202)是「彥」的草書體加上底線。從內閣官僚進入政界,在戰時為眾議院議長,戰敗時的厚相岡田忠彥(一八七八-一九五八)的花押(圖203),果然是「彥」的草書體(圖201B),最後的「」是成為「」,可見其功夫。平沼閥的檢事時表現其能力,在昭和十二-十四年間,歷任林、近衛、平沼三代內閣的法相鹽野季彥(一八八○-一九四九)的花押(圖204)
頁222
は、起筆を著しく省画しつつ(図201C参照)、「」を岡田の場合と同じ形に変えている。
〔雄〕 この字を用いたものに尾崎行雄・桜内幸雄の花押がある。“憲政の神様”尾崎幸雄(一八五九―一九五四)の花押(図205)は「雄」草体(図206)そのもの。また、財界から政界に転じて民政党に属し、商工(第二次若槻内閣)・農林(平沼内閣)・大蔵(米内内閣)等大臣に歴任した桜内幸雄(一八八〇―一九四七)の花押(図207)は、左の木偏のように見える部分(図208の点線より左)が「幸」の草体で、右の部分が「雄」(図206A)だから、これは名の二字の合成である。
起筆省略其畫(參照圖201C),「」與岡田同形。
〔雄〕字使用的有尾崎行雄、櫻內幸雄的花押。被稱為「憲政之神」的尾崎行雄(一八五九-一九五四)的花押(圖205)是「雄」的草書體(圖206)。從財政轉入政治界,屬於民政黨,任商工(第二次若槻內閣)、農林(平沼內閣)、大藏(米內內閣)等大臣的櫻內幸雄花押(圖207),左邊是木的偏旁(圖208虛線的左邊)是「幸」的草書體,右邊是「雄」(圖206A),由名字的二個字合成。
頁223
〔千〕 この字を用いたものに渡辺千冬・江木千之・千石興太郎の花押がある。昭和四―六年(浜口・第二次若槻内閣法相)をつとめた渡辺千冬(一八七六―一九四〇)の花押(図209)は、裏返して縦長にしてみると「千」の字が見えてくる(図210の実線部分)。そして、他の部分(同上点線部分)を横にすれば「辺」の形象化が見られる。つまり、この花押は「辺」の中に「千」を入れたもののようである。次に、内務官僚からあげられて清浦内閣の文相となった江木千之(一八五三―一九三二)の花押(図211)は「工」の右に「千」を配し、左の縦曲線で「」(サンズイ)を表わ
〔千〕用此字花押的有渡邊千冬、江木千之、千石興太郎。昭和四-六年(濱口、第二次若槻內閣)的法相渡邊千冬(一八七六-一九四○)的花押(圖209),「千」是翻面且縱長(圖210實線的部分),其他的部分(虛線的部分)橫的是「邊」的形象化。總之,這個花押是以「邊」加上「千」置入其中。從內務官僚被舉的清浦內閣文相的江木千之(一八五三-一九三二)的花押(圖211)是「工」的右邊加上「千」,左邊的縱曲線表示「」(三點水)
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したもの、つまり「江」と「千」の合成(図212)である。また、産業組合運動を興して大政翼賛会総務となり、敗戦直後の農相をつとめた千石興太郎(一八七四―一九五〇)の花押(図213)は「千」と「石」の合成である(図214)。
同じ文字を用いた複数の花押における類型性や異同の観察は以上にとどめて、以下には、之・不・民・丙・孝・苗・宙・岑・孫・寧・礼などの文字を用いた花押を一つずつあげてみよう。
東条内閣の情報局総裁、ついで外相、敗戦時の南京駐在大使の谷正之(一八八九―一九六
總之,是「江」與「千」的合成(圖212)。振興產業組合運動,成為大政翼會總務,戰敗之後任職農相的千石興太郎(一八七四-一九五○)的花押(圖213)是「千」與「石」合成(圖214)。
僅止在用同樣文字在複數花押類型性及異同的觀察,之、不、民、丙、孝、苗、宙、岑、孫、寧、禮等文字的花押,一字舉一個。
東條內閣的情報局長,及歷任外相、在戰敗時駐南京大使谷正之
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二)の花押(図215)は「之」の篆書(図216)を元にしたもの。
尾張藩出身の文部官僚、明治十三年司法卿
(一八八九-一九六二)的花押(圖215)原字是「之」的篆書(圖216)。
尾張藩出身的文部官僚,明治十三年任司法卿,在明治二十四年成為法相(第一次松方內閣)田中不二麿(一八四五-一九○九)花押(圖217)以「否」加上底線及點,或可能是點與底線振示「二」。
出身佐賀藩的大久保利通原參議昇為司法卿,在明治二十年代歷任樞密院議長、法相、文相等的大木喬任(一八三二-九九)的花押是翻面圖219,「民」的形象化,大木是選「民」字
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因其俗名為「民平」。
明治陸軍創設期的軍人,第一次(明治二十四)、第二次(明治二十九)松方內閣陸相高島鞆之助(一八四四-一九一六)號為「革丙」(「鞆」的分解),其花押(圖220)是「丙」形象化加底線。
從自由民權家成為自由黨、政友會的幹部,明治四十一年眾議院議長、同四十四年成為文相(第二次西園寺)長谷場純孝(一八五四-一九一四)的花押(圖221)是用「孝」,「子」的部分有些變形。平安中期人物藤原孝理
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的「孝」兩者比對,形象化有大大的不同。
參與東京專門學校(之後的早稻田大學)的創設、第二次大隈內閣的文相及早稻田大學總長的高田早苗(一八六○-一九三八)的花押(圖222)用「苗」字,運筆可見其功夫。
山口縣出身的律師,戰敗後成為東久邇、幣原兩內閣的法相岩田宙造(一八七五-一九六六)的花押(圖224)由「宙」的ウ冠與「由」的第一畫重疊,由的最後一畫是底線,岩石宙造的「由」中心線不突出,成為「田」形,含有姓「田」的意思。
昭和六-十一年間任犬養、齋藤、岡田三代內閣的海相海軍大將大角岑生(一八七六-一九四一)的花押(圖225)其原字是「岑」,最後二筆畫成為點,加上底線,另一是底線是最後筆畫成為「生」。
從內務官僚進入政治圈,任職民政黨濱口內閣商工相的俵孫一(一八六九-一九四四)的花押(圖226)是羅馬字,為「孫」的草體(圖227)
頁229
加底線表示「一」,是「孫一」的形象化。
久留米藩主的嫡男,貴族院的革新派,第一次近衛內閣的農相、大政翼賛會事務總長、作定有馬賴義之父有馬賴寧(一八八四-一九五七)的花押(圖228)分解圖是圖229,除去「寧」的最後二筆(丁),大約是忠實的形象化。
從大藏官僚進入政界的憲政會、民政黨領袖,組閣二次,是戰時的重要人物若槻禮次郎(一八六六-一九四九)的花押(圖230)是「禮」的草體(圖231),「示」的偏旁較小,旁邊較大,特別是最後的筆畫為大的底線,筆畫順序有些功夫(圖232)。若槻也用「禮」草書體作為花押(圖233)。
頁230
三 大臣的花押(三)-230
下面是二字合成、用平假名及羅馬字。
二字合成的花押-230
首先是二字合成,用名字的二個字,山縣有朋系官僚重要人物,從第一次桂內閣(明治三十四)到第二次大隈內閣(大正四),歷任遞信、農商務(二任)、內務(二任)大臣大浦兼武(一八五○-一九一八)的花押(圖234)。「兼」的右下加上小的「武」草書體(平假名「む」)(圖235)(虛線右是「む」)
頁231
「武」的草書體,第一次見到會以為是「」的變形(以圖236分解就容易了)。全體向左傾斜是其功夫的地方。這個時代的花押以手一筆書寫再修飾珍貴且筆畫多的花押,顯示其榮耀。
開設帝國議會以來的代議士,立憲同志會、憲政會的重鎮、第二次大隈內閣的遞相箕浦勝人(一八五四-一九二九)的花押(圖237)也是其名的二個字,「勝」的最後筆畫是「人」的第一畫與之重疊,有少許變形程度的形象化。
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鹿兒島藩士之子,由內務官僚立身任第一次山本內閣(大正二)書記官長,第二次山本內閣(大正十二)鐵道相山之內一次(一八六六-一九三二)花押(圖239)有著天地二線的明朝體,天線是取名的「一」,左橫的二點是「次」的「」(二水),底線是「次」的最後筆畫移過去(圖240的虛線)。
憲政會、民政黨最高幹部濱口、第二次若槻民政黨內閣遞相,純粹是政黨政治家小泉又次泉(一八六五-一九五一)的花押(圖241),與山之內的作法有點類似。小泉的「又」第二畫的部分是「次」的旁部「欠」
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最後筆畫是山之內一樣同底線(圖242)。「次」的「」(二水)省略。
犬養、齋藤內閣的陸相成為皇道派首領「呼風的哲將」,在二二六事件聲望低落,會說話的陸軍大臣男爵荒木貞夫(一八七七-一九六六)的花押(圖243)分解成圖244,上部是「貞」,下部是「夫」,最後筆畫移動成底線,總之是「貞夫」的形象化。
作為東條的左右手,從第二次近衛內閣到東條內閣(昭和十六-十八)成為企畫院總裁,擔任戰時統制經濟的責任者,陸軍中將鈴木貞一(一八八八-一九八九)的花押(圖245),
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是天的橫線是名字的「一」,下部分是翻面再立起,「貞」的最後二筆畫省略。右邊的點與虛線D表示「貞」的最後二筆畫。虛線ABC的部分,是為了全體形態的假線。
軍人中,被期待才幹,作為皇道派有力者,在二二六事件中退役,日中戰爭開發時,在上海被起用稱為「覆面將軍」陸軍中將柳川平助(一八七九-一九四五)的花押(圖247)分解為圖248,上部是「平」,下部是「力」(「助」的偏旁)。「平」在花押化之時,縱線不突出下部,是通例。因此,「平」與「王」的外形相近。國派的政黨田中政友會內閣鐵道相小川平吉(一八六九-一九四二)是「平」的花押(圖249)為其例。僅止於突出的程度。柳川的花押筆順可能如圖248。
作為個好的東京市長,廣田內閣拓務相、阿部內閣的鐵道相,俳號青嵐永田秀次郎(一八七六-一九四三)的花押(圖250)容易理解,圖解成圖251。實線的部分是「秀」的草書體,虛線部分是「二」的形象化,總之這個花押
頁236
是「秀」與「二」合成。
從大藏官僚任平沼、東條、小磯三代內閣的藏相,戰敗之後被舉為宮內相石渡莊太郎(一八九一-一九五○)的花押(圖252),分解如圖253,上部是「莊」,下部是「太」各別的形象化。
姓氏文字的合成花押,所謂維新三傑之一,出身於薩摩,薩摩最沒人氣的政治家大久保利通(一八三○-一八七八)的花押(圖254),並無法解讀十分,試著去敘述,此花押分解如圖255
頁237
右邊的實線可明白是「久」,左邊的實線與右邊的實線「久」的第三畫(右下長長的外張)合成「大」字。即此花押是「大」與「久」,可是含有的底線(虛線的部分)有何意義無法理解。中間部分是與「千」相似的形體,採用「利」的偏旁「禾」,無法成案,僅可解讀其花押含「大」與「久」字。此花押是大久保於明治七年時所用,不久變成圖256,「久」的判讀變的困難。
以外務官僚立身,第二次伊藤內閣(明治二十七)的內相、第二次松方內閣(明治二十九年)的遞相野村靖(一八四二-一九○九)的花押(圖257),分解圖(圖258)虛線上部分是「林」為「埜」(野)的一部分,虛線下部分是「村」的旁邊,表示「寸」,即此為花押為「林」加上「寸」。
第二次、第三次近衛內閣(昭和十五、十六)任海相,決定是否對美開戰,在大臣室中僅讀漢籍的海軍大將及川古志郎(一八八三-一九五八)
頁239
的花押(圖259),分解成圖260,實線部分表示「及」,「及」的第一裡的左斜線與中央部分的二條縱線表示「川」,加上底線。殘留的部分(虛線所示四個地方)無法理解。
二二六事件後從廣田內閣財界被起用於文相,特別的人事平生釟三郎(一八六○-一九四六)的花押(圖261),是「平」之下加上「生」(圖262)是平凡的花押,「平」的二點成為長的橫線,相反的下面的橫線變短是「平」字的變化,全體以一個字可見其功夫。
March 2, 2008
頁201
に転じ、政友会総裁、総理大臣となった田中義一の花押(図110)は「義」の略体(図111)を形象化して天地二線を加えたもののようである。
海軍では、大正年間数次の内閣に海軍大臣に任じ、大正十一年総理大臣となった加藤友三郎の花押(図112)は実線部分が「友」を表わし、点線部分が「郎」を表し、これに底線を加えている(図113)。また日露戦争に偉功をたて、大正年間大将に進み、海軍大臣となった村上格一の花押(図114)は「各」の草体(図115)を形象化して底線を加えたものであろう。
降って、大正十年陸軍大臣、陸軍大将つい
,成為政友會總裁及總理大臣的田中義一的花押(圖110)是「義」的略體(圖111)的形象化,加上天地二線。
在海軍中,於大正年間數次任職海軍大臣,在大正十一年成為總理大臣的加藤友三郎花押(圖112)實線表示「友」,虛線表示「郎」,加上底線(圖113)。日俄戰爭中建立功績,大正年間進昇大將,成為海軍大臣的村上格一花押(圖114)是「各」的草書體(圖115)形象化,加上底線。
大正十年陸軍大臣,在陸軍大將時
頁203
で朝鮮総督となった山梨半造の花押(図116)は「利」(実線部分)に天地二線(点線部分)と右上に点を加えたもの(図117)。「越境将軍」「喰い逃げ内角」など芳しからぬ声価を残した陸軍大将、総理大臣の林銑十郎の花押(図118)は「林」の草体(図119)を形象化して底線を加えたもの。阿部内閣の陸軍大臣、敗戦時の元帥、第二総軍司令官畑俊六の花押(図121)は「俊」の草体(図122)を形象化しつつ、「しゆん」を含ませたものに天地二線を加えて一工夫している(図124)。朝鮮総督から東条退陣のあとを受けて首相となった小磯国昭の花押(図125)は「国」の「玉」を上に出し、「口」(くにがまえ)を少し変形させ、
成為朝鮮總督的山梨半造花押(圖116)是「利」(實線部分),及天地二線(虛線部分),加上右上的點(圖117)。留下不好名聲「不負責的內閣」「越境將軍」的陸軍大將、總理大臣林銑十郎的花押(圖118)是「林」的草書體(圖119)形象化,加上底線。阿部內閣時的陸軍大臣、敗戰時的元帥、笫二總軍司令官畑俊六花押(圖121)是「俊」的草書體(圖122)的形象化,含「しゆん」,再加上天地線(圖124)。從朝鮮總督到東條退陣後,成為首相的小磯國昭花押(圖125),是「國」的「玉」在上方突出,「口」較少變形,
頁204
「日」(点線部分)をその中に入れた、なかなか凝ったもの(図126)。また関東軍参謀長を経て近衛内閣の陸軍大臣となり、極東裁判で死刑となった板垣征四郎の花押(図127)は「勇」の古体(図128)を形象化したもののようである。
海軍大将、海軍大臣、そして二・二六事件で危うく死を免れた首相岡田啓介の花押(図129)は「啓」の古体(図130)にもとづき「石」を形象化し底線を加えたもの。もう一人、望みなき日米交渉を託された海軍中将、駐米大使野村吉三郎の花押(図131)は「吉」の終画を底線とした平凡なもの。
「日」(虛線部分)置入中間,有其凝聚力(圖126)。歷經關東軍參謀長的近衛內閣陸軍大臣,在極東裁判時被處死刑的板垣征四郎花押(圖127),是「勇」的古體(圖128)形象化。
海軍大將、海軍大臣在二二六事件免於死亡的首相岡田啟介花押(圖129)是「啟」的古體(圖130)為基礎,將「石」形象化加上底線。被寄託日美交涉的海軍中將駐美大使野村吉三郎的花押(圖131)是「吉」的最後筆畫為底線,十分平凡。
頁205
戦後の大臣たち
戰後大臣的花押-205
まず吉田茂の花押(図132)は「茂」を多少形象化した程度の簡単なもの。なお吉田はこれに底線をくわえたもの(図133)も用いている。戦前、京大事件の時の文部大臣で、戦後紆余曲折を経てようやく総理大臣となったけ鳩山一郎の花押(図134)は「一郎」(「郎」は「ら」となる)に底線をを加えたもの(図135、同じ「一郎」を形象化した一九〇頁、本野一郎のものと比較されたい)。戦前、朝日新聞主筆、副社長、小磯内閣の情報局総裁、戦後は保守合同に挺身して自由民主党を結成した直後急死した緒方
首先是吉田茂的花押(圖132),多少有「茂」的形象化,程度上簡單。吉田,也加上底線(圖133)。戰前,京大事件時的文部大臣,歷經戰後的曲折,成為總理大臣鳩山一郎花押(圖134),為「一郎」(「郎」是「ら」)加上底線(圖135,頁一九○同樣「一郎」的本野一郎比較)。戰前朝日新聞主筆、副社長、小磯內閣的情報局總裁,戰後挺身保守合同,結成自由民主黨之後,急死的緒方
頁206
竹虎の花押(図136)は難解だが、「方」に、普通底線を加えるところを斜線を加えたのではなかろうか(図137)。そして「方」の中に「オ」を含めたとも見られる。幣原内閣の農相として農地改革に取り組み、改進党・民主党の中心となり日中交流に尽くした松村謙三の花押(図138)は「謙」の草体を用いて、終画を長くして底線としたもの(一八七頁、安達謙蔵の花押と対比されたい)。岸信介の花押(図139)は「介」を用いて天地二線を加えたものだが、左の縦線と終末の点は「信」の人偏を表すのであろうか。戦前は自由民主党首脳の一人として活躍した松野鶴平の花押(図140)は
竹虎的花押(圖136)很難解,「方」加上普通的底線(圖137),在「方」中含「才」字。幣原內閣的農相處理農地改革,成為改進常、民主黨的中心,盡力於日中交流的松村謙三的花押(圖138)是用「謙」的草書體,最後再畫長底線(請比對頁一八七安達謙藏的花押)。岸信介的花押(圖139)用「介」字再加上天地二線,左方的縱線與最後的點表示「信」的人字偏旁。戰後任米內內閣鐵道相,戰後活躍於自由民主黨首腦的松野鶴平花押(圖140)
頁207
「つる」に底線で、品川弥二郎の花押を思い出させる。戦前、東洋経済新報に拠って自由主義の論陣を張り、戦後は自民党総裁選で二・三位連合で岸を破って首相となったもの、病を得て六十日で退陣した石橋湛山の花押(図141)は、「湛」の草体(図142)に底線を加えたもの(「湛」の終わりの部分に運筆の工夫が加えられている)。
月給倍増論で民心をつかんだ池田勇人の花押(図143)は「勇」の草体(図145)を形象化したもので、運筆は模写(図144)の点線で示したような順序になっている。戦後大臣の花押中秀逸の作へはなかろうか。内閣持続最長不倒を誇った佐藤栄作の花押(図146)は
「つる」加底線,由品川彌二郎的花押思考出來。戰前,據東洋經濟新報主張自由主義,戰後在自民黨總裁選舉的破解二、三位連合,成為首相,因病六十日而退位的石橋湛山的花押(圖141)是以「湛」字為草書體(圖142)加上底線(「湛」的最後部分有運筆的工夫)。
以月給倍增論收民心的池田勇人的花押(圖143)是「勇」的草書體(圖145)的形象化,模寫其運筆以(圖144)的虛線表示其順序。戰後大臣的花押中秀逸之作,以內閣持續最長的佐藤榮作花押(圖146)
頁208
「左」と「藤」の草体(図147)を重ねて底線を加えたもの。代議士連続五十年を超えた「議会の子」三木武夫の花押(図148)は、「m」に底線を加えたものであることが、初期の花押(図149、模写)でよく分かる。三木退陣のあと、念願の首相の座についた福田赳夫の花押(図150)は「田」(「福」の一部でもある)に底線を加えたように見えるが、初期のもの(図151、模写)を見えると、「フクタ」の三字(クとタを重ねる)に底線を加えたもののようである。
是「左」與「藤」的草書體(圖147)重疊加底線。超過五十年代議士「議會之子」三木武夫的花押(圖148)是「m」加底線,初期的花押(圖149模寫)可知。三木武夫退陣後,有希望成為首相的福田赳夫的花押(圖150)的「田」(「福」的一部分)加底線。初期花押(圖151模寫),是三個字「フクタ」(ク和タ重疊)加底線。
頁209
二 大臣の花押(続)
二 大臣的花押(續)-209
一八八五年(明治十八)内閣制度発足以降の大臣の花押を材料として、近代の花押をなお詳しく観察してみたい。まず、一字の花押を中心にして、同じ字を用いた複数の花押を比較検討する。
一字の花押
〔毅・敏〕まず「毅」の花押を取り上げてみる。先に紹介した犬養毅の花押(図152)は「毅」の草体(図153)を元にしたものだが(一八四頁参照)、長州陸軍の巨頭・元帥・陸軍大将として大正五年首相となった寺内正毅(一八五二―一九一九)の花押(図154)は、
一八八五年(明治十八)內閣制度開始以來,用大臣的花押作為材料,詳細觀察近代的花押。首先,以一字花押為中心,用同樣的字來比較不同的花押。
一字花押-209
〔毅、敏〕首先是「毅」字花押,先前介紹犬養毅的花押(圖152)的「毅」草書體(圖153)(參照頁一八四),以長州陸軍的重要人物、元帥、陸軍大將的身份,在大正五年成為首相的寺內正毅(一八五二-一九一九)的花押(圖154),
頁211
「毅」の草体を元にしつつ、第一画の点を右横に移して天地二線の間に縦線三本を配する図形化した形(図155)となっている。犬養と寺内の対照とやや似ているのが「敏」の草体を花押化した河野敏鎌と武富時敏の対照である。土佐藩の出身で、明治二十年代、農商務・司法・内務・文部等の大臣に歴任した河野敏鎌(一八四四―一八九五)の花押(図156)は「敏」の草体(図158)に底線を加えたもの。これに対して、佐賀県の出身で第二次大隈内閣(大正三)の逓相・蔵相をつとめた武富時敏(一八五五―一九三八)の花押(図157)は、元は同じ「敏」だが、着しく図形化した形(図159)となっている。
〔敬〕 さきに紹介した原敬の花押(図160)は「苟」の草体を形象化だが(一八二頁参照)、裁判官から検事に転じ、第一次桂内閣(明治三十六)の法相、下って大正三―九年宮内相となった波多野敬直(一八五〇―一九二二)の花押はほとんど「敬」の草体(図162)そのまま。また商法の教授から官僚に転じて司法・文部・農商務の諸相を歴任した岡野敬次郎(一八六五―一九二五)の花押(図163)は「苟」をやや図形化した形。また渋沢栄一の孫で日銀総裁、敗戦直後の蔵相、常民文化の研究と常民資料の保存に尽瘁した渋
漸漸以「毅」的草書體,向右橫移第一畫的點,天地線之間加上三條縱線再圖形化(圖155)。犬養及寺內的對照有點相似,「敏」的草書體花押化,以河野敏鎌及武富時敏來對照,土佐藩出身,在明治二十年代歷任農商務、司法、內務、文部等大臣的河野敏鎌(一八四四-一八九五)的花押(圖156)是「敏」的草書體(圖158)加上底線。對照出身佐賀縣,任職第二次大隈內閣(大正三)的遞相、藏相武富時敏(一八五五-一九三八)的花押(圖157)是與「敏」同樣,成為圖形化(圖159)。
〔敬〕之前介紹的原敬花押(圖160)是「苟」字草書體的形象化(參照頁一八二),從裁判官轉任檢事,在第一次桂內閣(明治三十六年)任法相,在大正三年-九年成為內務大臣波多野敬直(一八五○-一九二二)花押(圖161)大概是「敬」的草書體(圖1622)。從商法教授轉任官僚,歷任司法、文部、農商務諸相的岡野敬次郎(一八六五-一九二五)花押(圖163)是「苟」的圖形化。澁澤榮一之孫在日銀總裁,戰敗後盡力於百姓文化研究及保存的
頁213
沢敬三(一八九六―一九六三)の花押(図164)は縦の彎曲線が四本となっている(図165)が、これも「敬」の草体(図162)にもとづくもの。そして中の小さな横線二本と底線とで名の「三」を表している。
〔致〕 この字を用いたものに、裁判官から検事に転じ第三次桂内閣(大正元)、寺内内閣(大正五)の法相に任じ、また法政大学学長としても知られた松室致(一八五二―一九三一)の花押(図106)がある。これは「致」の草体(図167)の終画を底線に変えた形である。
〔青〕「敏」を用いた武富時敏の花押と似た形のものに、明治前期の外交官で明治二十二―三十三年の間に三度外相に任じた青木周蔵(一八四四―一九一四)の花押(図168)がある。これはおそらく底線と左部分で「主」、右部分で「月」を表す(図169)、すなわち全体で「青」を表わし、それに天の一線を加えたものであろう。しかし、同じ「青」を用いても、昭和五、六年の海相(浜口内閣・第二次若槻内閣)安保清種(一八七〇―一九四八)の場合(図170)は、「月」の第二画を大きく右に張り出し、中の二点を右上の点と底線とに変
澁澤敬三(一八九六-一九六三)花押(圖164)是以四條縱的彎曲線(圖165),是「敬」的草書體(圖162),較小的二條橫線與底線,表示名字的「三」。
〔致〕的字,從裁判官任檢事,在第三次桂內閣(大正元)、寺內內閣(大正五年)任職法相,也是法政大學校長松室致(一八五二-一九三一)的花押(圖166)。是「致」(圖166)的草書體,其最後筆晝變形成底線。
〔青〕用「敏」字的武富時敏的花押類似,明治前期的外交官,在明治二十-三十三年間三度任職外務大臣的青木周藏(一八四四-一九一四)花押(圖168),可能是底線在左部分是「主」,右部分是「月」(圖169),全體表示青,再加上天一線。可是,同樣用「青」,在昭和五、六年任職海軍大臣(濱口內閣、第二次若槻內閣)的安保清種(一八七○-一九四八)(圖170),其「月」的第二畫是向右外張,右上的點是中間二點加底線
頁214
えたものとなっているし(図171)、大蔵官僚から企画院総裁・蔵相となり、初代の大東亜相に任じた青木一男(一八八九―一九八二)の場合(図172)は、「青」に底線を加えた、簡単明瞭、お義理のような花押である。
もう一つ武富時敏の花押と似た形のものに、財界人で斉藤内閣の商工相に任ぜられ、足利尊氏賛美論で右翼の攻撃にさらされた中島久万吉(一八七三―一九六〇)の花押(図173)がある。これは、分解すると図174のようになって、「久万」の二字に底線を加えたことが分かる(「久」の第三画と「万」の第二画とが重なる)。
變形(圖171)。從大藏官僚成為企畫院總裁、大藏大臣,任第一次的大東亞相青木一男(一八八九-一九八二)(圖172)是「青」加上底線,簡單明瞭,含義理的花押。
與武富時敏相似的花押,在財政界任齋藤內閣的商工相時,因足利尊氏讚美論受到右翼攻擊的中島久萬吉(一八七三-一九六○)的花押(圖173),分解成圖174,是「久萬」加上底線。(「久」的)第三畫與「萬」的第二畫重疊。)
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〔謙・廉〕 いずれも「兼」を主体とする字である。「謙」には、すでに紹介した安達謙蔵(図175、一八七頁参照)、松村謙三(図176、二〇六頁参照)の外に、小松謙次郎の花押(図177)があり、「廉」には中小路廉の花押(図178)がある。逓信官僚から貴族院議員となり、清浦内閣(大正十三)の鉄道相に任じた小松謙次郎(一八六三―一九三二)の花押は、「謙」の草体(図179)を用いて、終画を底線にした形で、ほとんど松村謙三の花押と同形である。また、検事から転じて逓信省ついで内務省につとめ、第三次桂内閣、寺内内閣の両度農商務相に任じた仲小路廉(一八六六―一九二四)の場合は「」(マダレ)に「兼」の草体を配
〔謙、廉〕全部以「兼」為主體的,已經介紹過的安達謙藏(參照頁一八七圖175)、松村謙三(圖176,參照頁二○六)之外,小松謙次郎的花押(圖177),「廉」是仲小路廉的花押(圖178),從遞信官僚成為貴族院議員清浦內閣(大正十三)任職鐵道相小松謙次郎(一八六三-一九三二)的花押是「謙」的草書體(圖179),以底線為最後筆畫,形體上大約是與松村謙三的花押同形。從檢察官轉任遞信省,任職於內務省,並在第三次桂內閣、寺內內閣兩度任農商務相的仲小路廉(一八六六-一九二四)「」(マダレ)是配上「兼」的草書體
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したものだが、「」で「」を表し、その横線と「兼」の草体の第一画を重ねている。なお、筆順を図180で示す。
〔忠〕 この字を用いたもの町田忠治・三土忠造・石黒忠篤・広瀬久忠らの花押がある。憲政会・民政党の幹部として農相・商工相に任じ、民政党最後の総裁となった町田忠治(一八六三―一九四六)の花押(図181)はとくに説明するでもない「忠」そのもの。新聞記者から政友会に入り文部・大蔵等の大臣を歴任した三土忠造(一八七一―一九四八)の花押(図182)は、「心」に当る部分を(・の形に変えて底線を加えたのと、終わりの筆順に一工夫しているのが特徴である(図183に筆順を示す)。農林官僚から第二次近衛内閣(昭和十五)の農相、鈴木終戦内閣の農商務相となった。“農政の神様”石黒忠篤(一八八四―一九六〇)の花押(図184)は「忠」の下に「馬」の草体(図185)をつけた二合体。内閣官僚から平沼内閣(昭和十四)の厚相にあげられた広瀬久忠(一八八九―一九七四)の花押(図166)も「久」と「忠」を重ねて形象化したもの(図187)。
以「」表示「」,其橫線與「兼」的草書體第一畫重疊,筆順如圖180。
〔忠〕字的使用有町田忠治、三土忠造、石黑忠篤、廣瀨久忠等。憲政會、民政黨的幹部及任職農相、商工相,為民政黨最後的總裁町田忠治(一八六三-一九四六)的花押(圖181)無法明確的說明。從新聞記者進入政友會,歷任文部、大藏等大臣三土忠造(一八七一-一九四八)的花押(圖182)以「心」為部分(變形成˙加上底線),最後的筆畫下了工夫(筆順如圖183)。從農林官僚成為第二次近衛內閣(昭和十五年)的農相、鈴木終戰內閣的農商務相,被稱為「農政之神」的石黑忠篤(一八八四-一九六○)的花押(圖184)是「忠」下面加上「馬」的草書體(圖185)的二合體。從內務官僚被推舉為平沼內閣厚生大臣的廣瀨久忠(一八八九-一九七四)的花押(圖186)是「久」加上「忠」的重疊形象化。
頁218
〔英〕 この字を用いたものに小松原英太郎・馬場鍈一・安井英二の花押がある。新聞界から転じて官界に入り、第二次桂内閣(明治四十一)の文相として南北朝正閏問題の政治的処理に当った小松原英太郎(一八五二―一九一九)の花押(図188)は、終わりの二画「人」を左右二つの点に変えた形(図189)。広田内閣(昭和十一)の蔵相として、軍事費の急膨張を容れた馬場財政の主、馬場鍈一(一八七九―一九三七)の花押(図190)は、図191のような筆順で、点線の左が「金」、右が「英」の「人」を省いた形である。内務官僚から第一次近衛内閣(昭和十二)の文相、第二次近衛内閣の内相に任ぜられた安井英二(一八九
〔英〕字的使用有小松原英太郎、馬場一、安井英二的花押。從新聞界轉任官界,在第二次桂內閣(明治四十一)任文相,處理南北朝正閏問題的小松原英太郎(一八五二-一九一九)的花押(圖188),最後二筆畫「人」變成左右兩點(圖189)。廣田內閣(昭和十一年)成為藏相,造成軍事費急速膨漲的馬場財政之主的馬場一(一八七九-一九三七)的花押(圖190),圖191是其筆順,虛線左邊是「金」,右邊是「英」省略「人」的部分。從內務官僚、第一次近衛內閣(昭和十二)的文相,任第二次近衛內閣的內相安井英二(一八九○
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〇―一九八二)の花押(図192)もほぼ小松原のものと同じだが、点を三つにしている(図193)のが小異といえようか。
〔直〕 この字を用いたものに片岡直温と星野直樹の花押がある。第一次若槻内閣(大正十五)の蔵相として昭和二年金融恐慌を誘発した国会失言で知られる片岡直温(一八五九―一九三四)の花押(図194)は「尚」のように見えるが、古く「直」を用いた大仏貞直(執権北条氏の一族)や徳川家康の花押(七二―七三頁参照)と同じく「直」の草体(図195)を元にしたもので、第一画の横線を二つの点に変えたところに工夫が見られる。戦時期革新官
-一九八二)的花押(圖192)大約與小松原的同樣,有三個點(圖193)是小小不同處。
〔直〕之使用的花押有片岡直溫及星野直樹。第一次若槻內閣(大正十五)藏相,及昭和二年國會失言導致金融恐慌的片岡直溫(一八五九-一九三四)的花押(圖194),是如「尚」字,是古代的「直」與大佛貞直(執權北條氏一族)及德川家康的花押(參照頁七二-七三)同樣是「直」的草書體(圖195),第一畫的橫線變成二個點,是其下功夫之處。戰時革新官
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僚の雄として企画院総裁、東条内閣(昭和十六)の書記官長に任じた星野直樹(一八九二―一九七八)の花押(図196)はこれに比べて全くの走り書き風(図197)である。なお、内務官僚出身で幣原内閣(昭和二十)の書記官長・国務相となった次田大三郎(一八八三―一九六〇)の花押(図198)は「直」に似ているけれども、これは「大」と「三」の合成(図199)である。
〔彦〕この字を用いたものに伊集院彦吉・市来乙彦・岡田忠彦・塩野季彦の花押がある。薩摩出身の外交官で、第二次山本内閣(大正十二)の外相となった伊集院彦吉(一八六四
僚之雄企畫院總裁、東條內閣(昭和十六)任書記官長的星野直樹(一八九二-一九七八)的花押(圖196)是以快寫的方式書寫(圖197)。以內務官僚出身,成為幣原內閣(昭和二十)的書記官長、國務相的次田大三郎(一八八三-一九六○)的花押(圖198)與「直」字相似,可是是「大」與「三」的合成(圖199)。
〔彥〕字使用的有伊集院彥吉、市來乙彥、岡田忠彥、野季彥的花押。以薩摩藩出身的外交官,成為第二次山本內閣(大正十二)的外相伊集院彥吉(一八六四-一九二四)
に転じ、政友会総裁、総理大臣となった田中義一の花押(図110)は「義」の略体(図111)を形象化して天地二線を加えたもののようである。
海軍では、大正年間数次の内閣に海軍大臣に任じ、大正十一年総理大臣となった加藤友三郎の花押(図112)は実線部分が「友」を表わし、点線部分が「郎」を表し、これに底線を加えている(図113)。また日露戦争に偉功をたて、大正年間大将に進み、海軍大臣となった村上格一の花押(図114)は「各」の草体(図115)を形象化して底線を加えたものであろう。
降って、大正十年陸軍大臣、陸軍大将つい
,成為政友會總裁及總理大臣的田中義一的花押(圖110)是「義」的略體(圖111)的形象化,加上天地二線。
在海軍中,於大正年間數次任職海軍大臣,在大正十一年成為總理大臣的加藤友三郎花押(圖112)實線表示「友」,虛線表示「郎」,加上底線(圖113)。日俄戰爭中建立功績,大正年間進昇大將,成為海軍大臣的村上格一花押(圖114)是「各」的草書體(圖115)形象化,加上底線。
大正十年陸軍大臣,在陸軍大將時
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で朝鮮総督となった山梨半造の花押(図116)は「利」(実線部分)に天地二線(点線部分)と右上に点を加えたもの(図117)。「越境将軍」「喰い逃げ内角」など芳しからぬ声価を残した陸軍大将、総理大臣の林銑十郎の花押(図118)は「林」の草体(図119)を形象化して底線を加えたもの。阿部内閣の陸軍大臣、敗戦時の元帥、第二総軍司令官畑俊六の花押(図121)は「俊」の草体(図122)を形象化しつつ、「しゆん」を含ませたものに天地二線を加えて一工夫している(図124)。朝鮮総督から東条退陣のあとを受けて首相となった小磯国昭の花押(図125)は「国」の「玉」を上に出し、「口」(くにがまえ)を少し変形させ、
成為朝鮮總督的山梨半造花押(圖116)是「利」(實線部分),及天地二線(虛線部分),加上右上的點(圖117)。留下不好名聲「不負責的內閣」「越境將軍」的陸軍大將、總理大臣林銑十郎的花押(圖118)是「林」的草書體(圖119)形象化,加上底線。阿部內閣時的陸軍大臣、敗戰時的元帥、笫二總軍司令官畑俊六花押(圖121)是「俊」的草書體(圖122)的形象化,含「しゆん」,再加上天地線(圖124)。從朝鮮總督到東條退陣後,成為首相的小磯國昭花押(圖125),是「國」的「玉」在上方突出,「口」較少變形,
頁204
「日」(点線部分)をその中に入れた、なかなか凝ったもの(図126)。また関東軍参謀長を経て近衛内閣の陸軍大臣となり、極東裁判で死刑となった板垣征四郎の花押(図127)は「勇」の古体(図128)を形象化したもののようである。
海軍大将、海軍大臣、そして二・二六事件で危うく死を免れた首相岡田啓介の花押(図129)は「啓」の古体(図130)にもとづき「石」を形象化し底線を加えたもの。もう一人、望みなき日米交渉を託された海軍中将、駐米大使野村吉三郎の花押(図131)は「吉」の終画を底線とした平凡なもの。
「日」(虛線部分)置入中間,有其凝聚力(圖126)。歷經關東軍參謀長的近衛內閣陸軍大臣,在極東裁判時被處死刑的板垣征四郎花押(圖127),是「勇」的古體(圖128)形象化。
海軍大將、海軍大臣在二二六事件免於死亡的首相岡田啟介花押(圖129)是「啟」的古體(圖130)為基礎,將「石」形象化加上底線。被寄託日美交涉的海軍中將駐美大使野村吉三郎的花押(圖131)是「吉」的最後筆畫為底線,十分平凡。
頁205
戦後の大臣たち
戰後大臣的花押-205
まず吉田茂の花押(図132)は「茂」を多少形象化した程度の簡単なもの。なお吉田はこれに底線をくわえたもの(図133)も用いている。戦前、京大事件の時の文部大臣で、戦後紆余曲折を経てようやく総理大臣となったけ鳩山一郎の花押(図134)は「一郎」(「郎」は「ら」となる)に底線をを加えたもの(図135、同じ「一郎」を形象化した一九〇頁、本野一郎のものと比較されたい)。戦前、朝日新聞主筆、副社長、小磯内閣の情報局総裁、戦後は保守合同に挺身して自由民主党を結成した直後急死した緒方
首先是吉田茂的花押(圖132),多少有「茂」的形象化,程度上簡單。吉田,也加上底線(圖133)。戰前,京大事件時的文部大臣,歷經戰後的曲折,成為總理大臣鳩山一郎花押(圖134),為「一郎」(「郎」是「ら」)加上底線(圖135,頁一九○同樣「一郎」的本野一郎比較)。戰前朝日新聞主筆、副社長、小磯內閣的情報局總裁,戰後挺身保守合同,結成自由民主黨之後,急死的緒方
頁206
竹虎の花押(図136)は難解だが、「方」に、普通底線を加えるところを斜線を加えたのではなかろうか(図137)。そして「方」の中に「オ」を含めたとも見られる。幣原内閣の農相として農地改革に取り組み、改進党・民主党の中心となり日中交流に尽くした松村謙三の花押(図138)は「謙」の草体を用いて、終画を長くして底線としたもの(一八七頁、安達謙蔵の花押と対比されたい)。岸信介の花押(図139)は「介」を用いて天地二線を加えたものだが、左の縦線と終末の点は「信」の人偏を表すのであろうか。戦前は自由民主党首脳の一人として活躍した松野鶴平の花押(図140)は
竹虎的花押(圖136)很難解,「方」加上普通的底線(圖137),在「方」中含「才」字。幣原內閣的農相處理農地改革,成為改進常、民主黨的中心,盡力於日中交流的松村謙三的花押(圖138)是用「謙」的草書體,最後再畫長底線(請比對頁一八七安達謙藏的花押)。岸信介的花押(圖139)用「介」字再加上天地二線,左方的縱線與最後的點表示「信」的人字偏旁。戰後任米內內閣鐵道相,戰後活躍於自由民主黨首腦的松野鶴平花押(圖140)
頁207
「つる」に底線で、品川弥二郎の花押を思い出させる。戦前、東洋経済新報に拠って自由主義の論陣を張り、戦後は自民党総裁選で二・三位連合で岸を破って首相となったもの、病を得て六十日で退陣した石橋湛山の花押(図141)は、「湛」の草体(図142)に底線を加えたもの(「湛」の終わりの部分に運筆の工夫が加えられている)。
月給倍増論で民心をつかんだ池田勇人の花押(図143)は「勇」の草体(図145)を形象化したもので、運筆は模写(図144)の点線で示したような順序になっている。戦後大臣の花押中秀逸の作へはなかろうか。内閣持続最長不倒を誇った佐藤栄作の花押(図146)は
「つる」加底線,由品川彌二郎的花押思考出來。戰前,據東洋經濟新報主張自由主義,戰後在自民黨總裁選舉的破解二、三位連合,成為首相,因病六十日而退位的石橋湛山的花押(圖141)是以「湛」字為草書體(圖142)加上底線(「湛」的最後部分有運筆的工夫)。
以月給倍增論收民心的池田勇人的花押(圖143)是「勇」的草書體(圖145)的形象化,模寫其運筆以(圖144)的虛線表示其順序。戰後大臣的花押中秀逸之作,以內閣持續最長的佐藤榮作花押(圖146)
頁208
「左」と「藤」の草体(図147)を重ねて底線を加えたもの。代議士連続五十年を超えた「議会の子」三木武夫の花押(図148)は、「m」に底線を加えたものであることが、初期の花押(図149、模写)でよく分かる。三木退陣のあと、念願の首相の座についた福田赳夫の花押(図150)は「田」(「福」の一部でもある)に底線を加えたように見えるが、初期のもの(図151、模写)を見えると、「フクタ」の三字(クとタを重ねる)に底線を加えたもののようである。
是「左」與「藤」的草書體(圖147)重疊加底線。超過五十年代議士「議會之子」三木武夫的花押(圖148)是「m」加底線,初期的花押(圖149模寫)可知。三木武夫退陣後,有希望成為首相的福田赳夫的花押(圖150)的「田」(「福」的一部分)加底線。初期花押(圖151模寫),是三個字「フクタ」(ク和タ重疊)加底線。
頁209
二 大臣の花押(続)
二 大臣的花押(續)-209
一八八五年(明治十八)内閣制度発足以降の大臣の花押を材料として、近代の花押をなお詳しく観察してみたい。まず、一字の花押を中心にして、同じ字を用いた複数の花押を比較検討する。
一字の花押
〔毅・敏〕まず「毅」の花押を取り上げてみる。先に紹介した犬養毅の花押(図152)は「毅」の草体(図153)を元にしたものだが(一八四頁参照)、長州陸軍の巨頭・元帥・陸軍大将として大正五年首相となった寺内正毅(一八五二―一九一九)の花押(図154)は、
一八八五年(明治十八)內閣制度開始以來,用大臣的花押作為材料,詳細觀察近代的花押。首先,以一字花押為中心,用同樣的字來比較不同的花押。
一字花押-209
〔毅、敏〕首先是「毅」字花押,先前介紹犬養毅的花押(圖152)的「毅」草書體(圖153)(參照頁一八四),以長州陸軍的重要人物、元帥、陸軍大將的身份,在大正五年成為首相的寺內正毅(一八五二-一九一九)的花押(圖154),
頁211
「毅」の草体を元にしつつ、第一画の点を右横に移して天地二線の間に縦線三本を配する図形化した形(図155)となっている。犬養と寺内の対照とやや似ているのが「敏」の草体を花押化した河野敏鎌と武富時敏の対照である。土佐藩の出身で、明治二十年代、農商務・司法・内務・文部等の大臣に歴任した河野敏鎌(一八四四―一八九五)の花押(図156)は「敏」の草体(図158)に底線を加えたもの。これに対して、佐賀県の出身で第二次大隈内閣(大正三)の逓相・蔵相をつとめた武富時敏(一八五五―一九三八)の花押(図157)は、元は同じ「敏」だが、着しく図形化した形(図159)となっている。
〔敬〕 さきに紹介した原敬の花押(図160)は「苟」の草体を形象化だが(一八二頁参照)、裁判官から検事に転じ、第一次桂内閣(明治三十六)の法相、下って大正三―九年宮内相となった波多野敬直(一八五〇―一九二二)の花押はほとんど「敬」の草体(図162)そのまま。また商法の教授から官僚に転じて司法・文部・農商務の諸相を歴任した岡野敬次郎(一八六五―一九二五)の花押(図163)は「苟」をやや図形化した形。また渋沢栄一の孫で日銀総裁、敗戦直後の蔵相、常民文化の研究と常民資料の保存に尽瘁した渋
漸漸以「毅」的草書體,向右橫移第一畫的點,天地線之間加上三條縱線再圖形化(圖155)。犬養及寺內的對照有點相似,「敏」的草書體花押化,以河野敏鎌及武富時敏來對照,土佐藩出身,在明治二十年代歷任農商務、司法、內務、文部等大臣的河野敏鎌(一八四四-一八九五)的花押(圖156)是「敏」的草書體(圖158)加上底線。對照出身佐賀縣,任職第二次大隈內閣(大正三)的遞相、藏相武富時敏(一八五五-一九三八)的花押(圖157)是與「敏」同樣,成為圖形化(圖159)。
〔敬〕之前介紹的原敬花押(圖160)是「苟」字草書體的形象化(參照頁一八二),從裁判官轉任檢事,在第一次桂內閣(明治三十六年)任法相,在大正三年-九年成為內務大臣波多野敬直(一八五○-一九二二)花押(圖161)大概是「敬」的草書體(圖1622)。從商法教授轉任官僚,歷任司法、文部、農商務諸相的岡野敬次郎(一八六五-一九二五)花押(圖163)是「苟」的圖形化。澁澤榮一之孫在日銀總裁,戰敗後盡力於百姓文化研究及保存的
頁213
沢敬三(一八九六―一九六三)の花押(図164)は縦の彎曲線が四本となっている(図165)が、これも「敬」の草体(図162)にもとづくもの。そして中の小さな横線二本と底線とで名の「三」を表している。
〔致〕 この字を用いたものに、裁判官から検事に転じ第三次桂内閣(大正元)、寺内内閣(大正五)の法相に任じ、また法政大学学長としても知られた松室致(一八五二―一九三一)の花押(図106)がある。これは「致」の草体(図167)の終画を底線に変えた形である。
〔青〕「敏」を用いた武富時敏の花押と似た形のものに、明治前期の外交官で明治二十二―三十三年の間に三度外相に任じた青木周蔵(一八四四―一九一四)の花押(図168)がある。これはおそらく底線と左部分で「主」、右部分で「月」を表す(図169)、すなわち全体で「青」を表わし、それに天の一線を加えたものであろう。しかし、同じ「青」を用いても、昭和五、六年の海相(浜口内閣・第二次若槻内閣)安保清種(一八七〇―一九四八)の場合(図170)は、「月」の第二画を大きく右に張り出し、中の二点を右上の点と底線とに変
澁澤敬三(一八九六-一九六三)花押(圖164)是以四條縱的彎曲線(圖165),是「敬」的草書體(圖162),較小的二條橫線與底線,表示名字的「三」。
〔致〕的字,從裁判官任檢事,在第三次桂內閣(大正元)、寺內內閣(大正五年)任職法相,也是法政大學校長松室致(一八五二-一九三一)的花押(圖166)。是「致」(圖166)的草書體,其最後筆晝變形成底線。
〔青〕用「敏」字的武富時敏的花押類似,明治前期的外交官,在明治二十-三十三年間三度任職外務大臣的青木周藏(一八四四-一九一四)花押(圖168),可能是底線在左部分是「主」,右部分是「月」(圖169),全體表示青,再加上天一線。可是,同樣用「青」,在昭和五、六年任職海軍大臣(濱口內閣、第二次若槻內閣)的安保清種(一八七○-一九四八)(圖170),其「月」的第二畫是向右外張,右上的點是中間二點加底線
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えたものとなっているし(図171)、大蔵官僚から企画院総裁・蔵相となり、初代の大東亜相に任じた青木一男(一八八九―一九八二)の場合(図172)は、「青」に底線を加えた、簡単明瞭、お義理のような花押である。
もう一つ武富時敏の花押と似た形のものに、財界人で斉藤内閣の商工相に任ぜられ、足利尊氏賛美論で右翼の攻撃にさらされた中島久万吉(一八七三―一九六〇)の花押(図173)がある。これは、分解すると図174のようになって、「久万」の二字に底線を加えたことが分かる(「久」の第三画と「万」の第二画とが重なる)。
變形(圖171)。從大藏官僚成為企畫院總裁、大藏大臣,任第一次的大東亞相青木一男(一八八九-一九八二)(圖172)是「青」加上底線,簡單明瞭,含義理的花押。
與武富時敏相似的花押,在財政界任齋藤內閣的商工相時,因足利尊氏讚美論受到右翼攻擊的中島久萬吉(一八七三-一九六○)的花押(圖173),分解成圖174,是「久萬」加上底線。(「久」的)第三畫與「萬」的第二畫重疊。)
頁215
〔謙・廉〕 いずれも「兼」を主体とする字である。「謙」には、すでに紹介した安達謙蔵(図175、一八七頁参照)、松村謙三(図176、二〇六頁参照)の外に、小松謙次郎の花押(図177)があり、「廉」には中小路廉の花押(図178)がある。逓信官僚から貴族院議員となり、清浦内閣(大正十三)の鉄道相に任じた小松謙次郎(一八六三―一九三二)の花押は、「謙」の草体(図179)を用いて、終画を底線にした形で、ほとんど松村謙三の花押と同形である。また、検事から転じて逓信省ついで内務省につとめ、第三次桂内閣、寺内内閣の両度農商務相に任じた仲小路廉(一八六六―一九二四)の場合は「」(マダレ)に「兼」の草体を配
〔謙、廉〕全部以「兼」為主體的,已經介紹過的安達謙藏(參照頁一八七圖175)、松村謙三(圖176,參照頁二○六)之外,小松謙次郎的花押(圖177),「廉」是仲小路廉的花押(圖178),從遞信官僚成為貴族院議員清浦內閣(大正十三)任職鐵道相小松謙次郎(一八六三-一九三二)的花押是「謙」的草書體(圖179),以底線為最後筆畫,形體上大約是與松村謙三的花押同形。從檢察官轉任遞信省,任職於內務省,並在第三次桂內閣、寺內內閣兩度任農商務相的仲小路廉(一八六六-一九二四)「」(マダレ)是配上「兼」的草書體
頁217
したものだが、「」で「」を表し、その横線と「兼」の草体の第一画を重ねている。なお、筆順を図180で示す。
〔忠〕 この字を用いたもの町田忠治・三土忠造・石黒忠篤・広瀬久忠らの花押がある。憲政会・民政党の幹部として農相・商工相に任じ、民政党最後の総裁となった町田忠治(一八六三―一九四六)の花押(図181)はとくに説明するでもない「忠」そのもの。新聞記者から政友会に入り文部・大蔵等の大臣を歴任した三土忠造(一八七一―一九四八)の花押(図182)は、「心」に当る部分を(・の形に変えて底線を加えたのと、終わりの筆順に一工夫しているのが特徴である(図183に筆順を示す)。農林官僚から第二次近衛内閣(昭和十五)の農相、鈴木終戦内閣の農商務相となった。“農政の神様”石黒忠篤(一八八四―一九六〇)の花押(図184)は「忠」の下に「馬」の草体(図185)をつけた二合体。内閣官僚から平沼内閣(昭和十四)の厚相にあげられた広瀬久忠(一八八九―一九七四)の花押(図166)も「久」と「忠」を重ねて形象化したもの(図187)。
以「」表示「」,其橫線與「兼」的草書體第一畫重疊,筆順如圖180。
〔忠〕字的使用有町田忠治、三土忠造、石黑忠篤、廣瀨久忠等。憲政會、民政黨的幹部及任職農相、商工相,為民政黨最後的總裁町田忠治(一八六三-一九四六)的花押(圖181)無法明確的說明。從新聞記者進入政友會,歷任文部、大藏等大臣三土忠造(一八七一-一九四八)的花押(圖182)以「心」為部分(變形成˙加上底線),最後的筆畫下了工夫(筆順如圖183)。從農林官僚成為第二次近衛內閣(昭和十五年)的農相、鈴木終戰內閣的農商務相,被稱為「農政之神」的石黑忠篤(一八八四-一九六○)的花押(圖184)是「忠」下面加上「馬」的草書體(圖185)的二合體。從內務官僚被推舉為平沼內閣厚生大臣的廣瀨久忠(一八八九-一九七四)的花押(圖186)是「久」加上「忠」的重疊形象化。
頁218
〔英〕 この字を用いたものに小松原英太郎・馬場鍈一・安井英二の花押がある。新聞界から転じて官界に入り、第二次桂内閣(明治四十一)の文相として南北朝正閏問題の政治的処理に当った小松原英太郎(一八五二―一九一九)の花押(図188)は、終わりの二画「人」を左右二つの点に変えた形(図189)。広田内閣(昭和十一)の蔵相として、軍事費の急膨張を容れた馬場財政の主、馬場鍈一(一八七九―一九三七)の花押(図190)は、図191のような筆順で、点線の左が「金」、右が「英」の「人」を省いた形である。内務官僚から第一次近衛内閣(昭和十二)の文相、第二次近衛内閣の内相に任ぜられた安井英二(一八九
〔英〕字的使用有小松原英太郎、馬場一、安井英二的花押。從新聞界轉任官界,在第二次桂內閣(明治四十一)任文相,處理南北朝正閏問題的小松原英太郎(一八五二-一九一九)的花押(圖188),最後二筆畫「人」變成左右兩點(圖189)。廣田內閣(昭和十一年)成為藏相,造成軍事費急速膨漲的馬場財政之主的馬場一(一八七九-一九三七)的花押(圖190),圖191是其筆順,虛線左邊是「金」,右邊是「英」省略「人」的部分。從內務官僚、第一次近衛內閣(昭和十二)的文相,任第二次近衛內閣的內相安井英二(一八九○
頁219
〇―一九八二)の花押(図192)もほぼ小松原のものと同じだが、点を三つにしている(図193)のが小異といえようか。
〔直〕 この字を用いたものに片岡直温と星野直樹の花押がある。第一次若槻内閣(大正十五)の蔵相として昭和二年金融恐慌を誘発した国会失言で知られる片岡直温(一八五九―一九三四)の花押(図194)は「尚」のように見えるが、古く「直」を用いた大仏貞直(執権北条氏の一族)や徳川家康の花押(七二―七三頁参照)と同じく「直」の草体(図195)を元にしたもので、第一画の横線を二つの点に変えたところに工夫が見られる。戦時期革新官
-一九八二)的花押(圖192)大約與小松原的同樣,有三個點(圖193)是小小不同處。
〔直〕之使用的花押有片岡直溫及星野直樹。第一次若槻內閣(大正十五)藏相,及昭和二年國會失言導致金融恐慌的片岡直溫(一八五九-一九三四)的花押(圖194),是如「尚」字,是古代的「直」與大佛貞直(執權北條氏一族)及德川家康的花押(參照頁七二-七三)同樣是「直」的草書體(圖195),第一畫的橫線變成二個點,是其下功夫之處。戰時革新官
頁220
僚の雄として企画院総裁、東条内閣(昭和十六)の書記官長に任じた星野直樹(一八九二―一九七八)の花押(図196)はこれに比べて全くの走り書き風(図197)である。なお、内務官僚出身で幣原内閣(昭和二十)の書記官長・国務相となった次田大三郎(一八八三―一九六〇)の花押(図198)は「直」に似ているけれども、これは「大」と「三」の合成(図199)である。
〔彦〕この字を用いたものに伊集院彦吉・市来乙彦・岡田忠彦・塩野季彦の花押がある。薩摩出身の外交官で、第二次山本内閣(大正十二)の外相となった伊集院彦吉(一八六四
僚之雄企畫院總裁、東條內閣(昭和十六)任書記官長的星野直樹(一八九二-一九七八)的花押(圖196)是以快寫的方式書寫(圖197)。以內務官僚出身,成為幣原內閣(昭和二十)的書記官長、國務相的次田大三郎(一八八三-一九六○)的花押(圖198)與「直」字相似,可是是「大」與「三」的合成(圖199)。
〔彥〕字使用的有伊集院彥吉、市來乙彥、岡田忠彥、野季彥的花押。以薩摩藩出身的外交官,成為第二次山本內閣(大正十二)的外相伊集院彥吉(一八六四-一九二四)
February 13, 2008
頁249
解説―「前人未踏」の花押研究 笠松宏至
ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
頁250
書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
頁251
八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
頁252
私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
頁253
の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
頁254
ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
頁255
結んでいる。
佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
頁256
が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである
(かさまつ ひろし/日本中世史)
92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。
(笠松宏至/日本中世史)97.2.2
解説―「前人未踏」の花押研究 笠松宏至
ひと頃、“今……が面白い”というフレーズが流行ったことがあった。一九七九秋、雑誌『月刊百科』に「花押を読む試み(1) 裏返し文字の花押」が発表されたとき、“今花押が面白くなった”と、誰もがそう感じたのではないだろうか。北条早雲を裏返し直立させる。そこに実名「長氏」の二字がうかび上がる、と佐藤氏はいう。あまりの意外さに“本当かしら”、私はそう思った。多年佐藤氏が数々の著書・論文に接してきて、はじめての感想だった。緻密な論証と高度な論理性。それが強い説得力をもって読者に迫る作品ばかりであったからである。だが頁を追って、朝倉教景・近衛家煕と例示されると、今度も納得せざるを得なかった。そうして、“花押が面白くなった”のである。
もちろんそれまでも、歴史研究の上で、花押の存在が軽視されてきたわけではない。本
解說-「前人未踏」的花押研究 笠松宏至
前些日子,流行“現在……是有趣的」的慣用迵。在一九七年年秋雜誌《月刊百科》發表〈試讀花押(1)從裏面外翻的文字花押〉時,「現在花押是有趣的,誰都沒有感覺到嗎?北條早雲的花押是從裏往外翻直立起來。這是用實名「長氏」二個字」浮現出來,佐藤氏說。不意外「真的嗎」我認為是這樣的。多年後佐藤氏一個接一個著書及論文,這是最初的感想。緻密的論證與高度的論理性。讓讀者有很強的說服力。但是每頁頁,在朝倉教景、近衛家熙的例子中,這次得到結論。「花押是有趣的」。
當然至今,在歷史研究上,並沒有輕視花押的存在,
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書「Ⅰ花押小史」に述べられているように、文書の年代比定や、真偽鑑定などさまざまに利用されてきた。そして私の知る限り、高次元の実証に花押を用い、鮮やかな成功を収める嚆矢ともいうべきは、今から六十年近くも昔、当時若冠二十余歳の佐藤氏であったように思われる。
即ち鎌倉時代後期の幕府の判決書(「関東・六波羅下知状」)の紙継目の裏に据えられた花押の数の変化、及びその主の考証によって、当時幕府裁判の中核的組織である引付の変遷を、まざまざと可視的に論証したのである(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一九四三年初刊)。この本の原型は、佐藤の卒業論文であるが、戦前という研究史段階で、学部卒論にこうしたハイレベルの作業がなされたという事実には、ただ驚くほかはない。
このよに佐藤と花押の因縁は古くかつ深いものであった。しかしそれはあくまでも“利用する”という立場であり、“読む”という視点を最初からもたれていたとは思えない。「花押の形や作り方が気になり出してから二十年近くになる。ふとしたことで歴史上の人物いく人かの花押を解説する仕事にかかわったのが、ことの始まりだった。」本書の「はしがき」はこう書き出されている。平凡社選書の一冊として本書が刊行されたのが一九八
本書所述〈Ⅰ花押小史〉,利用在各式各樣文書年代的比較及真偽鑑定等。因我所知有限,花押,應可作為用在再進一步的實證,成為各式成功的開始。至今已近六十年,當時二十多歲的佐藤式。
鎌倉時代後期的幕府判決書(「關東˙六波羅下知狀)的文書中有花押的數種變化,根據其主要的考證,當時幕府裁的重要組織關於訴訟的變遷,以可見到的證據來論證很清楚(《鎌倉幕府訴訟制度的研究》,一九四三年初刊)這本書的原型是佐藤氏的畢業論文,在戰前研究史的階段中,是很高水準的大學畢業論文,不外令人驚訝。
佐藤藤氏與花押的因緣是很早及深遠的。可是在徹底的「利用」的立場,我不認為「閱讀」是從最初的視點開始。
「注意花押的外形與作法已有近二十年。想不出來在歷史上的人有誰解說花押,是從他開始」。本書「序」寫到。作為平凡社選書,本書刊行是在一九八
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八年だから、時系列的にいえば、「気になり出した」のはずいぶん古いことになる。それにしては、その時々の佐藤氏の学問的興味関心を、親しく伺う機会に恵まれてきた私の記憶の中に、これに類するものがまったくないのはどうしたことだろう。たぶんそれは、花押をタテにしたりヨコにしたり、あげくは裏返しにしたりする話を、花押といえばせいぜい頼朝と尊氏のそれくらいしか思い出せない私相手に、しかも紙も鉛筆もない珈琲店の席上では、さすがの佐藤氏も不適当と思われたせいだったのであろう。
それはともかく、この「はしがき」に、私は特別の感慨をおぼえた。それはこの仕事が「ふとしたこと」(具体的には某雑誌の表紙絵に用いる花押解説の連載であった由であるが)に始まったという事実である。なぜなら、著書・論文はもちろん、今や学界の貴重な財産ともいうべき『中世法制史料集』や『鎌倉・室町守護制度の研究』など幾多のライフワークは、それぞれが有機的な連関をもち、それぞれが佐藤氏にとって必然性をもつ仕事であって、「ふとしてこと」にきっかけをもつ本書は、まったくの異色の存在というほかないからである。
「花押なんて遊びですよ」、そういわれたのを聞いた憶えがある。右に述べた理由から、
八年,以一系列的,「注意」是很早的事。此時佐藤氏的學問興趣與關心,在我的記憶中伺機而給與幫忙。類似這樣是不全然如此。大部分的花押有縱寫橫書,結果是從裏向外翻面,所謂花押最大的限度,以我而言是賴朝與尊氏可是在沒有鉛筆及紙的咖啡店座位上,總之佐藤氏也無適合的樣子。
總之在「序」中,我覺得特別的感慨。這個工作是「偶然的」(具體的是因某雜誌的封面畫,連載花押解說而來)而關始的事實。為何會如此,當然是著書與論文,在今天學界的重要財產《中世法制史料集》、《鎌倉‧室町守護制度的研究》等多數的生活工作,是與這些有著有機的關連,因此這個工作對佐藤氏是必然的,在本書以「偶然」的,不外乎是不同的。
我回憶聽到「花押如何遊戲」。右方所述的理由中
頁252
私はこの言葉に単なる謙辞ではないものを感じる。しかしそれにしても恐るべき“遊び”ではあった。
こうして異例のきっかけから始まった作業は、十年たらずのうち、数編の論考を生み(これは佐藤氏にとって決して遅いペースではない)、花押研究にまったく前人未踏の分野を切り拓いた。花押を用いられ始めて約十一世紀、無数の花押が作られ使われて現在に至っている。しかしそれを“読み”秘められた背景を探ろうとした試みは、ほとんど皆無であった。いやむしろ発想そのものがなかったといってよいであろう。
では“ふとして”きっかけをもった佐藤氏が、なぜ比較的短時日の間に、かくも独創的な成果を生み出し得たのか、その理由を、本書の中でも一つの白眉ともいうべき信長花押を例として考えてみよう。高質な研究が、どのような土台の上に築かれていくかを考える好例となると思えるからである。
まず第一。「たまたま遥か後代の人物勝海舟の花押を寓目する機会を得て、これを手がかりとして」(本書一五六頁)。いうまでもなく佐藤氏は中世史家であり、発表された業績はほとんど中世の外に出ていない。しかし氏の学問的関心は全時代に及び、とくに「日記」
我的話不僅不是謙辭。可是恐怕應是「遊戲」。
在不同的例子中其關始作業的動機,不到十年,已有數編的考證(佐藤氏的決定不是緩慢的步調),花押研究是完全前人所未進行的分野。從花押開始使用大約是十一世紀,至今已創作出無數的花押。可是「閱讀」它,及試著去探索這個神秘的背景,大概都沒有人去做。不研究的想法當然沒有。
「偶然」對於佐藤氏,為何在短時間,可以得到成果呢?這個理由是在本書中有一個最特別的應是信長的花押。高品質的研究,是建立在怎樣的基礎上,這是個好例子。
首先,「偶然得到發現遙遠後代的人物勝海舟的花押,作為解決的方法」(本書一五六頁)。當然以佐藤來看是中世史家,發表的文章不外是中世史。可是他的學問是關心全面時代,
頁253
の蒐集を中心にした近現代政治史の造詣が深いことはつとに知られている。海舟花押との出合いは、決して“たまたま”ではないのである。
そして第二。これが一番の肝心であるが、海舟花押をみて、ただちにこれから勝麟太郎の「麟」の「草体の下半部を左右に開いた形」を直感し得る能力の持ち主であるという点である。佐藤氏の古文書の解読力については、今や伝説でさえある。一般に古文書を読むには(あたりまえだが)、(1)文字 (2)ことば (3)文章の論理 の三要素に熟達することが必要である。
佐藤氏はつねづね「自分は(1)不得意であり、したがって(2)・(3)から(1)を考えるという方法をとらざるを得ないことが多い」と語っておられるが、私には到底信じられない。「この字はこう読むのではないでしょうか」と私の問いに「いや違う。だってその字はこうこう書くでしょう」、そういってすらすらと草書体の文字を書き示してくださるのをみて、私がどれほどと羨望の念を禁じ得なかったことか。「読める」の背景に「書ける」があり、これが花押を「読む」ことの大きなポイントだと私は考える。
これにしても「麟」なんどという、めったにお目にかかれない文字のくずしをどうして
特別急於搜集「日記」,對近現代政治史也有很深的造詣。海舟花押的發現,覺不是「偶然」。
第二,這是很重要的。看海舟的花押,可以馬上從勝麟太郎的「麟」,直覺出其字有「草書體下半部是向左右展開」的能力。佐藤氏的古文書解讀力來看,現在及以前的說法應有(當然要)(1)文字(2)句子(3)文章的結構三個要素都很熟悉。
佐藤氏常常說「自己對(1)不熟,因此不得不由(2)(3)來推論(1)的情形很多」,我到底還是不相信。「這個字讀不懂嗎?」我說「不是的。但這個字是這樣寫」,可以順利去解讀出草書體,我不得不羨慕「閱讀」的背景是能「書寫」,這是「閱讀」花押很大的重點。
「麟」是怎樣,不太思索這個是怎樣的崩字
頁254
ご存じだったのか。もっとも佐藤氏はこういわれるにちがいない。「麟じゃなくて、鹿と粦の合成とみれば、べつに珍しくもなんともないですよ」。
そして第三。あたりまえのことだが、海舟花押をみて、信長のそれを連想しなければ、何も始まらない。つまり氏の脳裡に、「頻々花押を変えた信長の花押歴」がすべてインプットされ、いつでも呼び出し可能の状態にあったことを意味する。もっともこれも氏に聞けば、「信長の花押がなかなか読めなかったから、すぐ思い出しただけ。第一、信長の花押もしらないの貴方ぐらいのものですよ」といわれるかも知れない。
しかし「筆者は初めこれを解読できなかった」という淡々たる叙述の裏に、どれだけの試行錯誤があったことか、それは想像に難しくない。たとえ“遊び”であり“楽しみ”であっても、努力なしには結果が得られないことはいうまでもない。
そして第四。こうして信長花押を麟と解読した氏は、それだけでは終らない。義堂周信の文をひいて「麒麟」の意義を確定し、これと政治史上の信長の位置とを結びつけ、「平和一統の願いという政治理念をこめた花押を選定」と推定し、さらに間もなく使用が始まる有名「天下布武」の印を「隠微な形で花押にこめられた寓意の堂々たる開花と
呢?佐藤氏特別說這沒有不一樣。「不是麟,由鹿與粦合成來看,沒有什麼特別的」。
第三,當然從海舟的花押來看,並沒有不去開始連想到信長的花押。總之他的腦子裡已輸入「各種信長花押的變化」,何時都可以叫出來的狀態。最特別是他聽到的話「信長的花押,在不閱讀的狀況下,僅僅可以馬上想出來。第一可能是你也並不知道信長的花押」。
可是「筆者開始時無法解讀」淡淡的敘述著,誰都會有錯誤的思考,這個想像不難。如「遊戲」「享樂」,不努力是不無法得到結果。
第四是佐藤解讀信長的花押麟,是沒有停止。在義堂周信的文中確定了「麒麟」的意義,結合了政治史上的信長位置推定「選定花押是為了灌入和平一統願望的政治理念」,進一步以其有名的「天下布武」的印章結合「以隱藏的意涵加入花押表示其勢力展開」。
頁255
結んでいる。
佐藤氏の研究に親しみ学んだ者は、ここで必ず思い出すだろう。それは氏がもっとも得意とした論証手段、即ち
文書様式の変化→政治制度の改変→政治権力の変質
という手法である。そういえば「上杉朝興が宿敵伊勢宗瑞(北条早雲)と同形の花押を用いた」ことから「花押を地位のシンボルと見て、敵の花押を用いることに、敵の地位を奪い敵を斃す意を寓した」(四六頁)のくだりを読んだとき、私は氏の名著『南北朝の動乱』の印象的な一節、「建武式目」が「延喜・天暦の徳化」を範としている点について、「延喜・天暦にかえれ、とは後醍醐のスローガンだったはずだが、何くわぬ顔で、これも採りこんでいるところは、反対党のスローガンを吸収することによって、反対党の存在理由を失わせる現代政党のやり方まさに同じではないか」とあったのを思い出した。
花押を単なる花押に終らせず、この本を異色の歴史書たらしめているのは、巨大な智識の蓄積と、独自の歴史認識の方法論があったのである。
「はしがき」はこう結ぶ。「早く自信をもって「試み」を省けるようになりたいというの
與佐藤氏的研究親近的學者,認為這是一定會想到的。這是佐藤的論証得到
文書樣式的變化→政治制度的改變→政治權力的變質。
有這樣的手法。以此言之「上杉朝興與宿敵伊勢宗瑞(北條早雲)用一樣的花押」,從此閱讀時「花押是地位的象徵,用敵人的花押,是奪取敵人的地位,及暗指擊斃獻人之意」(頁46),我就其名著《南北朝的動亂》印象其中一節〈建武式目〉是「延喜‧天曆的德化」為範例,「回到延喜‧天曆,應是後醍醐的主張,但是這是怎樣的外表,來加入這個,吸收反對黨的主張,使反對黨失去存在的理由與現代政黨手法一樣,不是嗎」。
單單花押是無法終止花押,這個特別的歷史書,是累積了巨大的智識及有獨自的歷史認知的方法論。
「序」有這樣的結果。「早有了自信,希望省略了「嘗試」
頁256
が、わが切なる願いである」と。自らの学問を律することに厳しい佐藤氏が、少なくとも外に向かって「自信」を宣言される日は恐らく来ないだろう。来ないことをむしろ願いたい。なぜなら、私たちはさらにつづく「試み」の読者でいられるからである
(かさまつ ひろし/日本中世史)
92.2.17初稿
,我熱切期望。」佐藤氏對自己的學問很嚴謹,很少向外宣言「自信」,恐怕無法達成。當然期望無法達成。為何,我進一步繼續作為「嘗試」讀者。
(笠松宏至/日本中世史)97.2.2
January 14, 2008
頁181
一字の花押181
一字花押-181
型によってまとめてみると、大臣の花押に関する限り、一字の花押すなわち名の一字もしくは姓の一字を用いたが圧倒的に多い。
まずの一字を用いたものとして、井上毅の花押(図14)は「毅」に底線を加えた簡明なもの。次に陸奥宗光の花押(図15)は明らかに「光」。ただ筆順は通常の書方とちがい、図16のような順序で、二つの点が最後にくるようである。創設期日本海軍の重鎮仁礼景範の花押(図17)は「景」で(図18)、終筆に当る右下部を大きく張り出しているのは前述
大臣的花押,一字花押是指名字的一字,可能用姓的花押佔壓倒性多數。
首先以名為一字的花押,井上毅(圖14)用「毅」加上底線,十分簡明。陸奧宗光的花押(圖15),明白是「光」。只是通常書寫的筆畫順序不同,圖16的順序,最後加二點。日本海軍創設者重鎮仁禮景範的花押(圖17)是「景」(圖18),最後筆是右下部外張,如前述
頁182
した江戸時代の型の名残りといえようか。日露戦争終結のボーツマス条約で日本代表をつとめた小村寿太郎の花押(図19)は「壽」の草体に底線を加えたもの。次に自由民権運動期の代表的政治家、板垣退助の花押(図20)は「退」と見てよいだろう。図21に点線で示した終筆が辶の一部とも、艮の一部とも見え、あるいは両方を兼ねているのかもしれない。現職の首相で最初にテロの犠牲者となった原敬の花押(図22)は「敬」の偏部「苟」の草体(図23)を形象化したものと見られる。次に、文部大臣としてよりも、風格のある帝大総長として知られる浜尾新の花押(図24)は
留下江戶時代殘留的外型。日俄戰爭結束,負責ポーツマス條約日本代表小村壽太郎的花押(圖19)是「壽」的草書體加底線。自由民權運動時期代表政治家板垣退助的花押(圖20)是「退」字,圖㈱虛線以「」為最後筆畫,左上二點是「」的一部分,也可見到「艮」的一部分,或兩者兼有。現職首相最初被暗殺的犧牲者原敬的花押(圖22)是「敬」的偏旁「苟」的草書體(圖23)的形象化。作為文部大臣有風格的帝國大學總長濱尾新的花押(圖24)
頁183
「新」の草体(図25)の変形。これと似た作り方に、大正末から昭和にかけて宮内大臣・内大臣に任じ、二・六事件で危うく暗殺を免れた牧野伸顕(吉田茂の岳父)の「顕」の花押(図26)がある(なお、第Ⅴ章一三六―一三八頁参照)。
東京駅頭、血盟団員の凶弾に斃れてついに再起できなかった首相浜口雄幸の花押(図28)は「雄」字で、「隹」の終筆の横線を長く引いて江戸時代以来の型にまとめている。五・一五事件で斃れた首相犬養毅の花押(図29)は「毅」の草体(図30)に底線を加えたもの。同じ字を用いても井上毅のものと比べて洗練された感じを受ける。ついで二・二六
是「新」的草書體(圖25)的變形,與其相似的作品是從大正末到昭和任職宮內大臣、內大臣在二、二六暗殺事件免於被暗殺的牧野伸顯(吉田茂岳父)以「顯」為花押(圖26)(參照第Ⅴ章頁一三六-一三八)
東京火車站因血盟團員的兇彈擊斃的首相濱口雄幸的花押(圖28)是「雄」字,最後筆畫是以「隹」結束,底線橫長,是江戶以來的樣式。五一五事件被擊斃的首相犬養毅的花押(圖29)是「毅」的草書體(圖30)加底線。同樣的字,井上毅的字更洗練。二二六事件
頁184
事件に斃れたない大臣斉藤実の花押(図31)は「実」の草体(図32)だが、「毋」の運筆(図33)にちょっと工夫を加えている。また近衛文麿の花押(図34)は「文」の古体「□」を用いている。最後の元老西園寺公望の花押(図36)は「望」の草体そのもの、清浦奎吾(図37)は実線部分が「五」、点線部分が「口」を表す。清浦はこの花押を少し変えて全体に丸い感じ花押(図39)も用いた。「腕の喜三郎」最後の政友会総裁鈴木喜三郎の花押(図40)は「喜」の草体(図41)、「選挙の神様」の異名通り凄腕の内務大臣安達謙蔵の花押(図42)は「謙」の草体(図43、「兼」の終画を長く引いて底線とする)、独ソ不可侵条
被擊斃的內大臣齋藤實的花押(圖31)是「實」的草書體(圖32),以「毋」來運筆(圖33),有加入一點工夫。近衛文磨的花押(圖34)是「文」的古體「」。最後的元老西園寺公望的花押(圖36)是「望」的草書體,清浦奎吾(圖37)的實線是「五」,虛線是「口」的意思。清浦的花押很少變化,整體的感覺似圓形(圖39)。「鐵腕喜三郎」最後政友會總裁鈴木喜三郎的花押(圖40)是「喜」的草書體(圖41),,有「選舉之神」的異名厲害的內務大臣安達謙藏的花押(圖42)是「謙」的草書體(圖43「兼」的最後筆畫拉長成為底線),發表德蘇不可侵犯條約
頁186
約の発表に為す術を知らず、「複雑怪奇」の語を残して政権を投げ出し平沼騏一郎の花押(図44)は「騏」の草体(図45)に底線を加えたもの。法学者から官界に入り文相・内相ついで宮相に任じ、枢密院議長となった一木喜徳郎の花押(図46)は「徳」の草体(図47)を形象化して、終画を長くして底線としたもの。検事総長・大審院長から広田内閣の司法大臣となった林頼三郎の花押(図48)は図49の実線部分が「束」に当ることは明らかだが、点線部分が「負」を表すかどうか、にわかに断定できない。ともかく「頼」を採って形象化し、底線を加えたものというってよい。
次に姓の一字を用いたものをあげると、明治の政治家の随一の名筆を謳われた副島種臣の花押(図50)は「副」の一字である。図52イの右上部の点線部分が「□」で、同じく実線部分が「□」であろう。運筆はなかなか凝っていて、図52ロのように書いたものらしい。(東京)帝国大学の文科大学学長・総長を経て伊藤内閣の文部大臣たなった外山正一(ゝ山)の花押(図53)は「外」の草体(図54)を少し変形させて(第一画を長くて、縦線を短くして)「分」の草体(図55)と見まがう形にしている。降って太平洋戦争敗戦直後の外務大臣として、米艦ミズーリ号上で降伏文書に署名調印した重光葵の花押(図56)は「重」の草体
留下「複雜奇怪」的話於政權上的平沼騏一郎的花押(圖44)是「騏」字的草書體(圖45)加上底線。從法學入官界文相及內相,任職宮相,成為樞密院議長的一木喜德郎的花押(圖46)是「德」的草書體(圖47)的形象化,最後以長底線為結尾。從檢事總長、大審院長成為廣田內閣的司法大臣林賴三郎的花押(圖48)是圖49的實線為「束」,虛線為「負」,一時無法斷定,此外「賴」字是採形象化,加上底線。
其次是用姓的一個子,明治政治家中的第一名筆副島種臣的花押(圖50)是「副」的一個字。圖52的右上部虛線是「」,同樣的實線是「」。運筆中凝聚力量,圖52如口的樣式。經歷(東京)帝國大學文科大學長、總長的伊藤內閣文部大臣外山正一(ゝ山)的花押(圖53)是「外」的草書體(圖54)變化較少(第一畫長,加短的縱線),其形是「分」的草書體(圖55)。太平洋戰爭戰後之後成為外務大臣,在美國艦上密斯理號簽下投降書的重光葵花押(圖56)是「重」的草書體
頁189
(図57)で、少し左に傾けてあるのが一工夫といったところ。
一字の最後にあげたいのは、健全財政を堅持して軍部に憎まれ、二・二六事件で殺された高橋是清の花押(図58)である。これは明らかに「恭」の形象化であって、姓名にない字であるから、高橋にとって特別の意味をもった字と考えられる。
二合の花押
伊藤博文の信任を得て大蔵大臣・逓信大臣に任じた初期政友会の重鎮渡辺国武の花押(図59)は、図60の実線部分が「武」の古体
(圖57),向左一點點傾斜,是其工夫。
最後舉的一字花押,是堅持健全財政,憎恨軍隊在二二六事件被殺的高橋是清的花押(圖58),可知其是「恭」的形象化,不是姓名,對高橋是有特別的意思。
二合花押-189
得到伊藤博文信任,仕職大藏大臣、遞信大臣初期政友會的重鎮渡邊國武花押(圖59),圖60的實線部分是「武」的古體
頁190
で、点線部分が口(くにがまえ)で「国」を表す。外交官出身で寺内内閣の外務大臣となった本野一郎の花押(図62)は、上の横線(天)が「一」、中間の半円と右の点で「ら」=「郎」、これに底線(地)を引いて明朝体にまとめたもの(後出の鳩山一郎の花押参照)。初期自由民権論者で、明治三十一年大隈内閣の逓信大臣、林有造の花押(図63)は「有」に「造」の「辶」を加えたもの。桂・山県系の官僚で内務大臣から内大臣に進んだ平田東助の花押(図64)は、図65左の点線部分が「東」の草体(図66)、右の「ゆ」に見えるのが「助」を表わし、これに底線を加えたもの。大正デモクラシーに立役者、憲政会初代総
虛線部分是口(國字),表現國字。以外交官出身任職外務大臣本野一郎的花押(圖62),上橫線(天)是「一」,中間的半圓及右邊的點是「ら」=「郎」」,底線(地)是成明朝體(參照後來的鳩山一郎的花押)。在初期自由民權論者,明治三十一年大隈內閣的遞信大臣、林有造的花押(圖63)是「有」及加上「造」的「」。桂、山縣系官僚,從內務大臣進昇到內大臣的平田東助花押(圖64),圖65左邊的虛線是「東」的草書體(圖66),右邊是「ゆ」,表示「助」,再加上底線。
大正民主主義的創立者,憲政會初代總裁
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一字の花押181
一字花押-181
型によってまとめてみると、大臣の花押に関する限り、一字の花押すなわち名の一字もしくは姓の一字を用いたが圧倒的に多い。
まずの一字を用いたものとして、井上毅の花押(図14)は「毅」に底線を加えた簡明なもの。次に陸奥宗光の花押(図15)は明らかに「光」。ただ筆順は通常の書方とちがい、図16のような順序で、二つの点が最後にくるようである。創設期日本海軍の重鎮仁礼景範の花押(図17)は「景」で(図18)、終筆に当る右下部を大きく張り出しているのは前述
大臣的花押,一字花押是指名字的一字,可能用姓的花押佔壓倒性多數。
首先以名為一字的花押,井上毅(圖14)用「毅」加上底線,十分簡明。陸奧宗光的花押(圖15),明白是「光」。只是通常書寫的筆畫順序不同,圖16的順序,最後加二點。日本海軍創設者重鎮仁禮景範的花押(圖17)是「景」(圖18),最後筆是右下部外張,如前述
頁182
した江戸時代の型の名残りといえようか。日露戦争終結のボーツマス条約で日本代表をつとめた小村寿太郎の花押(図19)は「壽」の草体に底線を加えたもの。次に自由民権運動期の代表的政治家、板垣退助の花押(図20)は「退」と見てよいだろう。図21に点線で示した終筆が辶の一部とも、艮の一部とも見え、あるいは両方を兼ねているのかもしれない。現職の首相で最初にテロの犠牲者となった原敬の花押(図22)は「敬」の偏部「苟」の草体(図23)を形象化したものと見られる。次に、文部大臣としてよりも、風格のある帝大総長として知られる浜尾新の花押(図24)は
留下江戶時代殘留的外型。日俄戰爭結束,負責ポーツマス條約日本代表小村壽太郎的花押(圖19)是「壽」的草書體加底線。自由民權運動時期代表政治家板垣退助的花押(圖20)是「退」字,圖㈱虛線以「」為最後筆畫,左上二點是「」的一部分,也可見到「艮」的一部分,或兩者兼有。現職首相最初被暗殺的犧牲者原敬的花押(圖22)是「敬」的偏旁「苟」的草書體(圖23)的形象化。作為文部大臣有風格的帝國大學總長濱尾新的花押(圖24)
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「新」の草体(図25)の変形。これと似た作り方に、大正末から昭和にかけて宮内大臣・内大臣に任じ、二・六事件で危うく暗殺を免れた牧野伸顕(吉田茂の岳父)の「顕」の花押(図26)がある(なお、第Ⅴ章一三六―一三八頁参照)。
東京駅頭、血盟団員の凶弾に斃れてついに再起できなかった首相浜口雄幸の花押(図28)は「雄」字で、「隹」の終筆の横線を長く引いて江戸時代以来の型にまとめている。五・一五事件で斃れた首相犬養毅の花押(図29)は「毅」の草体(図30)に底線を加えたもの。同じ字を用いても井上毅のものと比べて洗練された感じを受ける。ついで二・二六
是「新」的草書體(圖25)的變形,與其相似的作品是從大正末到昭和任職宮內大臣、內大臣在二、二六暗殺事件免於被暗殺的牧野伸顯(吉田茂岳父)以「顯」為花押(圖26)(參照第Ⅴ章頁一三六-一三八)
東京火車站因血盟團員的兇彈擊斃的首相濱口雄幸的花押(圖28)是「雄」字,最後筆畫是以「隹」結束,底線橫長,是江戶以來的樣式。五一五事件被擊斃的首相犬養毅的花押(圖29)是「毅」的草書體(圖30)加底線。同樣的字,井上毅的字更洗練。二二六事件
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事件に斃れたない大臣斉藤実の花押(図31)は「実」の草体(図32)だが、「毋」の運筆(図33)にちょっと工夫を加えている。また近衛文麿の花押(図34)は「文」の古体「□」を用いている。最後の元老西園寺公望の花押(図36)は「望」の草体そのもの、清浦奎吾(図37)は実線部分が「五」、点線部分が「口」を表す。清浦はこの花押を少し変えて全体に丸い感じ花押(図39)も用いた。「腕の喜三郎」最後の政友会総裁鈴木喜三郎の花押(図40)は「喜」の草体(図41)、「選挙の神様」の異名通り凄腕の内務大臣安達謙蔵の花押(図42)は「謙」の草体(図43、「兼」の終画を長く引いて底線とする)、独ソ不可侵条
被擊斃的內大臣齋藤實的花押(圖31)是「實」的草書體(圖32),以「毋」來運筆(圖33),有加入一點工夫。近衛文磨的花押(圖34)是「文」的古體「」。最後的元老西園寺公望的花押(圖36)是「望」的草書體,清浦奎吾(圖37)的實線是「五」,虛線是「口」的意思。清浦的花押很少變化,整體的感覺似圓形(圖39)。「鐵腕喜三郎」最後政友會總裁鈴木喜三郎的花押(圖40)是「喜」的草書體(圖41),,有「選舉之神」的異名厲害的內務大臣安達謙藏的花押(圖42)是「謙」的草書體(圖43「兼」的最後筆畫拉長成為底線),發表德蘇不可侵犯條約
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約の発表に為す術を知らず、「複雑怪奇」の語を残して政権を投げ出し平沼騏一郎の花押(図44)は「騏」の草体(図45)に底線を加えたもの。法学者から官界に入り文相・内相ついで宮相に任じ、枢密院議長となった一木喜徳郎の花押(図46)は「徳」の草体(図47)を形象化して、終画を長くして底線としたもの。検事総長・大審院長から広田内閣の司法大臣となった林頼三郎の花押(図48)は図49の実線部分が「束」に当ることは明らかだが、点線部分が「負」を表すかどうか、にわかに断定できない。ともかく「頼」を採って形象化し、底線を加えたものというってよい。
次に姓の一字を用いたものをあげると、明治の政治家の随一の名筆を謳われた副島種臣の花押(図50)は「副」の一字である。図52イの右上部の点線部分が「□」で、同じく実線部分が「□」であろう。運筆はなかなか凝っていて、図52ロのように書いたものらしい。(東京)帝国大学の文科大学学長・総長を経て伊藤内閣の文部大臣たなった外山正一(ゝ山)の花押(図53)は「外」の草体(図54)を少し変形させて(第一画を長くて、縦線を短くして)「分」の草体(図55)と見まがう形にしている。降って太平洋戦争敗戦直後の外務大臣として、米艦ミズーリ号上で降伏文書に署名調印した重光葵の花押(図56)は「重」の草体
留下「複雜奇怪」的話於政權上的平沼騏一郎的花押(圖44)是「騏」字的草書體(圖45)加上底線。從法學入官界文相及內相,任職宮相,成為樞密院議長的一木喜德郎的花押(圖46)是「德」的草書體(圖47)的形象化,最後以長底線為結尾。從檢事總長、大審院長成為廣田內閣的司法大臣林賴三郎的花押(圖48)是圖49的實線為「束」,虛線為「負」,一時無法斷定,此外「賴」字是採形象化,加上底線。
其次是用姓的一個子,明治政治家中的第一名筆副島種臣的花押(圖50)是「副」的一個字。圖52的右上部虛線是「」,同樣的實線是「」。運筆中凝聚力量,圖52如口的樣式。經歷(東京)帝國大學文科大學長、總長的伊藤內閣文部大臣外山正一(ゝ山)的花押(圖53)是「外」的草書體(圖54)變化較少(第一畫長,加短的縱線),其形是「分」的草書體(圖55)。太平洋戰爭戰後之後成為外務大臣,在美國艦上密斯理號簽下投降書的重光葵花押(圖56)是「重」的草書體
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(図57)で、少し左に傾けてあるのが一工夫といったところ。
一字の最後にあげたいのは、健全財政を堅持して軍部に憎まれ、二・二六事件で殺された高橋是清の花押(図58)である。これは明らかに「恭」の形象化であって、姓名にない字であるから、高橋にとって特別の意味をもった字と考えられる。
二合の花押
伊藤博文の信任を得て大蔵大臣・逓信大臣に任じた初期政友会の重鎮渡辺国武の花押(図59)は、図60の実線部分が「武」の古体
(圖57),向左一點點傾斜,是其工夫。
最後舉的一字花押,是堅持健全財政,憎恨軍隊在二二六事件被殺的高橋是清的花押(圖58),可知其是「恭」的形象化,不是姓名,對高橋是有特別的意思。
二合花押-189
得到伊藤博文信任,仕職大藏大臣、遞信大臣初期政友會的重鎮渡邊國武花押(圖59),圖60的實線部分是「武」的古體
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で、点線部分が口(くにがまえ)で「国」を表す。外交官出身で寺内内閣の外務大臣となった本野一郎の花押(図62)は、上の横線(天)が「一」、中間の半円と右の点で「ら」=「郎」、これに底線(地)を引いて明朝体にまとめたもの(後出の鳩山一郎の花押参照)。初期自由民権論者で、明治三十一年大隈内閣の逓信大臣、林有造の花押(図63)は「有」に「造」の「辶」を加えたもの。桂・山県系の官僚で内務大臣から内大臣に進んだ平田東助の花押(図64)は、図65左の点線部分が「東」の草体(図66)、右の「ゆ」に見えるのが「助」を表わし、これに底線を加えたもの。大正デモクラシーに立役者、憲政会初代総
虛線部分是口(國字),表現國字。以外交官出身任職外務大臣本野一郎的花押(圖62),上橫線(天)是「一」,中間的半圓及右邊的點是「ら」=「郎」」,底線(地)是成明朝體(參照後來的鳩山一郎的花押)。在初期自由民權論者,明治三十一年大隈內閣的遞信大臣、林有造的花押(圖63)是「有」及加上「造」的「」。桂、山縣系官僚,從內務大臣進昇到內大臣的平田東助花押(圖64),圖65左邊的虛線是「東」的草書體(圖66),右邊是「ゆ」,表示「助」,再加上底線。
大正民主主義的創立者,憲政會初代總裁
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