首先,在「大智度論」裡,說「法性」(dharma-dhAtu)者是為諸法根據的位層,可是其(法性空),是直接了當意味著(無明轉為明)的事實。而在對(原始的前分)插入部分和改變部分的(佛性(dharma-dhAtu)因緣生),明顯地是(無明轉為明)的事。
次(つ)いで、「大智度論(だいちどろん)」においては、法性(ほうしょう)が本無今有(ほんむこんう)でないのは法性(ほうしょう)が空(くう)であるからである、と説(と)かれた。同様(どうよう)に、(オリジナルな前分(ぜんぶん))への(曇無讖(どんむしん)による同(おな)じ)挿入部(そうにゅうぶ)においては、仏性(ぶっしょう)が本無今有(ほんむこんう)でないのは仏性(ぶっしょう)が因縁生(いんねんしょう)であるからである、と説(と)かれたのである。
接著在「大智度論」說,法性非(不是)本無今有的是因為法性是空。同樣地,在(原始的前分)的插入部分說,佛性非(不是)本無今有的是因為佛性是因緣生。
以上(いじょう)が「大智度論(だいちどろん)」と「北本(ほくほん)涅槃経(ねはんきょう)」との間(あいだ)に現(あらわ)れている示差(しさ)である。したがって、本有今無(ほんうこんむ)偈(けい)の理解(りかい)をめぐる今後(こんご)の考察(こうさつ)の焦点(しょうてん)になってくるのは、以下(いか)の三(み)つの問題(もんだい)である。
以上是出現於「大智度論」和「北本涅槃經」之間的差異。進而,就圍繞在本無今有偈理解的今後的考察的焦點,是以下的三個問題。
①「大智度論(だいちどろん)」の(法性(ほうしょう)の空(くう))と「北本(ほくほん)涅槃経(ねはんきょう)」の(仏性(ぶっしょう)の因縁生(いんねんしょう))とは、共(とも)に(無明(むみょう)が明(みょう)に転(てん)ずる)ことを指示(しじ)する概念(がいねん)であるが、龍樹(りょうじゅ)のこの事態(じたい)に対(たい)する理解(りかい)が理念的(りねんてき)な表現(ひょうげん)であった(事実的(じじつてき)レヴェルに留(と)まっていた)のに対(たい)して、曇無讖(どんむしん)はこの事態(じたい)に対(たい)してどの程度自覚的(ていどじかくてき)であるのか(その認識(にんしき)が原理的(げんりてき)レヴェルまで届(とど)いているのか)。
「大智度論」的(法性空)與「北本涅槃經」的(佛性因緣生)者,都是指示(無明轉為明)的概念,可是,相對於龍樹對此事態的理解是理念上的表現(停留於事實的水準),而曇無讖對此事態是有多少程度自覺性呢(其認識達到原理上的水準嗎)。
②「北本(ほくほん)涅槃経(ねはんきょう)」における「仏性常住(ぶっしょうじょうじゅう)」と(仏性因縁生(ぶっしょういんねんしょう))(《無常(むじょう)》)という、一見(いっけん)、相互(そうご)に矛盾(むじゅん)する事態(じたい)は、どのような連関(れんかん)の中(なか)で捉(とら)えられていたのか(それらは同一(どういつ)のより根本的事態(こんぽんてきじたい)の中(なか)で統合的(とうごうてき)に捉(とら)えられていたのか否(いな)か)。
「北本涅槃經」「佛性常住」和(佛性因緣生)(《無常》)說,乍看為互相矛盾的事態,在怎樣的關聯當中可掌握呢(那些是否從同一根本性事態當中可掌握其統一的內容呢)。
③「北本(ほくほん)涅槃経(ねはんきょう)」における、仏性(ぶっしょう)の(内在的(ないざいてき)な局面(きょくめん))と(超越的(ちょうえつてき)な局面(きょくめん))とは、当然(とうぜん)、同一(どういつ)なる事態(じたい)の弁証法的(べんしょうほうてき)が把握(はあく)の中(なか)において、統一的(とういつてき)に理解(りかい)されるべきことなのであるが、それが、この「経(きょう)」においてなされていたかどうか、ないしは、どの程度(ていど)なされていたのか。
在「北本涅槃經」,佛性(內在性的局面)與(超越性的局面)者,在充分理解之中,當然在同一事態的變成辯證的把握當中,是可統一性的理解,可是,那在此「經」是否作了呢,或者,作到怎樣的程度呢?














