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2011/03/30--釋演梵(p343~344)
hcureligion 在天空部落發表於16:24:18 | 翻譯の文章
まず、「大智度論(だいちどろん)」においては、「法性(ほうしょう)」(dharma-dhAtu)ことは諸法(しょほう)の根拠(こんきょ)の位層(いそう)をなすものであったが、その(法性(ほうしょう)の空(くう))とは、端的(たんてき)に、(無明(むみょう)が明(みょう)に転(てん)ずる)という事実(じじつ)を意味(いみ)していた。そして、(オリジナルな前分(ぜんぶん))への(曇無讖(どんむしん)による)挿入部(そうにゅうぶ)と改変部(かいへんぶ)とにおける(仏性(ぶっしょう)(buddha-dhAtu)の因縁生(いんねんしょう))は、明(あき)らかに(無明(むみょう)が明(みょう)に転(てん)ずる)ことであったのである。
首先,在「大智度論」裡,說「法性」(dharma-dhAtu)者是為諸法根據的位層,可是其(法性空),是直接了當意味著(無明轉為明)的事實。而在對(原始的前分)插入部分和改變部分的(佛性(dharma-dhAtu)因緣生),明顯地是(無明轉為明)的事。
次(つ)いで、「大智度論(だいちどろん)」においては、法性(ほうしょう)が本無今有(ほんむこんう)でないのは法性(ほうしょう)が空(くう)であるからである、と説(と)かれた。同様(どうよう)に、(オリジナルな前分(ぜんぶん))への(曇無讖(どんむしん)による同(おな)じ)挿入部(そうにゅうぶ)においては、仏性(ぶっしょう)が本無今有(ほんむこんう)でないのは仏性(ぶっしょう)が因縁生(いんねんしょう)であるからである、と説(と)かれたのである。
接著在「大智度論」說,法性非(不是)本無今有的是因為法性是空。同樣地,在(原始的前分)的插入部分說,佛性非(不是)本無今有的是因為佛性是因緣生。
以上(いじょう)が「大智度論(だいちどろん)」と「北本(ほくほん)涅槃経(ねはんきょう)」との間(あいだ)に現(あらわ)れている示差(しさ)である。したがって、本有今無(ほんうこんむ)偈(けい)の理解(りかい)をめぐる今後(こんご)の考察(こうさつ)の焦点(しょうてん)になってくるのは、以下(いか)の三(み)つの問題(もんだい)である。
以上是出現於「大智度論」和「北本涅槃經」之間的差異。進而,就圍繞在本無今有偈理解的今後的考察的焦點,是以下的三個問題。
①「大智度論(だいちどろん)」の(法性(ほうしょう)の空(くう))と「北本(ほくほん)涅槃経(ねはんきょう)」の(仏性(ぶっしょう)の因縁生(いんねんしょう))とは、共(とも)に(無明(むみょう)が明(みょう)に転(てん)ずる)ことを指示(しじ)する概念(がいねん)であるが、龍樹(りょうじゅ)のこの事態(じたい)に対(たい)する理解(りかい)が理念的(りねんてき)な表現(ひょうげん)であった(事実的(じじつてき)レヴェルに留(と)まっていた)のに対(たい)して、曇無讖(どんむしん)はこの事態(じたい)に対(たい)してどの程度自覚的(ていどじかくてき)であるのか(その認識(にんしき)が原理的(げんりてき)レヴェルまで届(とど)いているのか)。
「大智度論」的(法性空)與「北本涅槃經」的(佛性因緣生)者,都是指示(無明轉為明)的概念,可是,相對於龍樹對此事態的理解是理念上的表現(停留於事實的水準),而曇無讖對此事態是有多少程度自覺性呢(其認識達到原理上的水準嗎)。
②「北本(ほくほん)涅槃経(ねはんきょう)」における「仏性常住(ぶっしょうじょうじゅう)」と(仏性因縁生(ぶっしょういんねんしょう))(《無常(むじょう)》)という、一見(いっけん)、相互(そうご)に矛盾(むじゅん)する事態(じたい)は、どのような連関(れんかん)の中(なか)で捉(とら)えられていたのか(それらは同一(どういつ)のより根本的事態(こんぽんてきじたい)の中(なか)で統合的(とうごうてき)に捉(とら)えられていたのか否(いな)か)。
「北本涅槃經」「佛性常住」和(佛性因緣生)(《無常》)說,乍看為互相矛盾的事態,在怎樣的關聯當中可掌握呢(那些是否從同一根本性事態當中可掌握其統一的內容呢)。
③「北本(ほくほん)涅槃経(ねはんきょう)」における、仏性(ぶっしょう)の(内在的(ないざいてき)な局面(きょくめん))と(超越的(ちょうえつてき)な局面(きょくめん))とは、当然(とうぜん)、同一(どういつ)なる事態(じたい)の弁証法的(べんしょうほうてき)が把握(はあく)の中(なか)において、統一的(とういつてき)に理解(りかい)されるべきことなのであるが、それが、この「経(きょう)」においてなされていたかどうか、ないしは、どの程度(ていど)なされていたのか。
在「北本涅槃經」,佛性(內在性的局面)與(超越性的局面)者,在充分理解之中,當然在同一事態的變成辯證的把握當中,是可統一性的理解,可是,那在此「經」是否作了呢,或者,作到怎樣的程度呢?

武田皓學感謝函
hcureligion 在天空部落發表於16:14:35 | 活動の記錄

會後聯誼
hcureligion 在天空部落發表於14:58:06 | 活動の記錄
3/10讀書會結束,學員至池煥旗學長府上,祝賀其公子實體店面開幕,當場吹奏現藝。







2011/03/03-陳惠萍
hcureligion 在天空部落發表於21:05:48 | 翻譯の文章


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2010-12-26宗照翻譯
hcureligion 在天空部落發表於22:28:12 | 翻譯の文章

 

このよう[moson1] に、「蔵訳(くらやく)」の()()とにおいては前後(ぜんご)矛盾(むじゅん)することはないのであるが、それに(たい)して、「曇無讖訳(くもりむしんやく)」では[moson2] 、①(、1)の「見仏性(みぶっしょう)」は到達点(とうたつてん)であり、②のそれは出発点(しゅっぱつてん)のであるから、前後不統一(ぜんごふとういつ)なのであり、

 

如此在「藏譯」的①與②前後是不矛盾,但是,相對於藏譯在「曇無讖的翻譯」見佛性是到達點、②的見佛性是出發點,所以前後是不統一、



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2010.12.15-文修師父 p334
hcureligion 在天空部落發表於19:32:18 | 翻譯の文章


  
如已經表示過的,【引用2】的﹝見佛性﹞是表示釋尊成道的表現。可是,相應於此,既始在此【引用5】『曇無讖譯』改寫的傍線部1,也如「若刹利、婆羅門、毗舍、首陀,能斷除者,即見佛性成無上道」。「見佛性」仍然表示眾生的成道,也就是對眾生最終到達點的表現。進而,前文所意味的,我們人類一旦好像如屬社會階層(種姓制度),因為與社會階層沒有關係,只要修道的話(斷煩惱),可見佛性成佛道。那正是意味先前所論述過的〈佛性因縁性〉。  

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楊碧輝p332~334 2010.12.1、8
hcureligion 在天空部落發表於15:48:20 | 翻譯の文章


譯:

摘要«迦葉問»:由乳的因緣生酪的話,那是(酪)本無而後生﹝本無今有﹞的事嗎? «釋尊答»:「乳中並不是有酪相﹝因中有果說,說起來本有今有﹞」,也並不是「乳中無酪相﹝因中無果說,說起來本無今有﹞,也不是「他生﹝無因生,即本無今有﹞[1]。乃至醍醐也是一樣。 何以故?是因為因牛(因)食草(緣)的因緣而生乳,因醋和暖而生酪的因緣生。 這不單單是因中有果說。是因為一旦乳滅依於由醋和暖而成為酪。 又也不是無因生。 因為離乳也不能形成。[2]



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日文佛學讀書會P329~332翻譯習作 (印刷本) 林晨炫 2010/11/24
hcureligion 在天空部落發表於08:40:22 | 翻譯の文章

日文佛學讀書會P329~332翻譯習作 (印刷本)       晨炫   2010/11/24

第四項    仏性(ぶっしょう)相反(あいはん)する性格(せいかく)---(---)その常住性(じょうじゅうせい)(無常(むじょう)(せい)

 

 この部分(ぶぶん)には、(オリジナル(おりじなる)前分(まえぶん)対応(たいおう)の「蔵訳(くらやく)」(以下(いか)蔵訳日(くらやくび)略称(りゃくしょう))があるので、対照(たいしょう)してみよう。なお、筆者(ひっしゃ)のこれまでの考察(こうさつ)においては蔵訳資料を参照(さんしょう)する程度(ていど)()まっていたのであるが、ここではそれを考察(こうさつ)対象(たいしょう)として()()げることとなった。とはいえ、ここで()()げる「北本涅槃経(きたもとねはんきょう)」には、梵本(ぼんほん)断片(だんぺん)現存(げんそん)するとはいっても、それは(きわ)めて少量(しょうりょう)であり、本稿(ほんこう)(かか)わる断片(だんぺん)皆無(かいむ)であるから、蔵訳(くらやく)からの和訳(わやく)とそれに(かか)わる考察(こうさつ)とには慎重(しんちょう)()さねばならない。したがって、ここでは、参照(さんしょう)すべき先行研究(せんこうけんきゅう)()い箇所は取り上げずに、それが有る箇所に限って和訳と考察とを行っている。



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日文佛學讀書會P329~330 徐春菊 2010/11/17、24
hcureligion 在天空部落發表於08:29:14 | 翻譯の文章

日文佛學讀書會P329~330翻譯習作 (印刷本)         徐春菊 2010/11/1724

第三項 (前分)の本有今無偈について 

 

しかしながら、筆者(ひっしゃ)()るところ、事態(じたい)はこの不常不断(ふつねふだん)中道(ちゅうどう)()わるのではなく、むしろ、(はじ)まるのである。すなわち、この「如来性品(にょらいせいしな)」の本有今無偈(ほんゆういまむけい)における、一見(いっけん)、「三世有法(さんせいゆうほう)」を否定(ひてい)しているかの(ごと)くに()える、その一線(いっせん)から、「北本涅槃経(きたもとねはんきょう)独自(どくじ)立場(たちば)が徐々に姿(すがた)(あらわ)してくるのである(なお、(引用1)における「諸仏・菩薩・声聞・縁覚の差別・無差別」については、後続すなわち付加部分をカットした本来の文脈との整合性を保つために加えられているのであるが、本節(ほんせつ)(しゅ)たる関心(かんしん)ではないので()(いま)はその考察(こうさつ)(おこな)わない。



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327~329(陳惠萍)
hcureligion 在天空部落發表於19:37:03 | 翻譯の文章

譯:純陀,施食有二果報無差。何等為二?一者受己得阿耨多羅三藐三菩提;二者受已入於涅槃。菩薩(成道前的釋尊),爾時受飯食已,入金剛三昧,此食消已即見佛性,見佛性得阿耨多羅三藐三菩提,是故我言(現在的世尊):二施果報等無差別。菩薩爾時,破壞四魔,今入涅槃亦破四魔,是故我言:二施果報等無差別。 
(引用2)純陀(じゅんだ)よ、に二つの果報無差なる()り。何等(なになど)をか二と()す。(ひと)つには()()りて阿耨多羅三藐三菩提(おくくさぎたらさんかろさんぼだい)る。二つには受け已りて涅槃に入る。()施食(ししょく)


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